『お前が生まれてくる前から,お前のことを大事にしていた』
生きる権利と死ぬ権利。治療法を選ぶ個人の権利。子供に対する親の愛と世話。こうした問題は大見出しで取り上げられるだけの価値があります。新聞記事の中には,宗教的な理由で輸血を断わるエホバの証人に関するものもあります。とはいえ,ほかの大勢の人々も関係しています。どんな人の場合にも,医療に関して下す決定は,命や健康を左右するからです。この問題の全体像をつかむ助けとして,子供たちにふさわしい世話を与えるために生き方を大きく変えたある家族の経験に注目することにしましょう。それに続いて,自分の子供が不治の病で死んだ時,殺人の罪に問われたイタリアの一夫婦に関する非常に興味深い事件が取り上げられています。これらの記事とそれに続く二つの記事は,上記の幾つかの問題,特に自分の健康と命を左右する医療に関する決定はだれが下すべきかという問題を考量するのに役立つでしょう。
今年9歳になるルイジと11歳になるアントネラが昼食を食べに帰宅すると,母親のフィオレラが二人を迎えに出て抱き締め,「きょうは学校はどうだった」と尋ねます。二人が手を洗い,着替えをすませて食卓に着く間も会話は続きます。フィオレラが短い祈りをささげた後,3人は食事を始めます。みんな食欲はおう盛です。父親のカルロは夕方にならないと帰宅しませんが,その3人の話の中には父親の名前がしばしば挙がります。その時の口調は愛情のこもったもので,父親に話す事柄がたくさんあるようです。
この温かい家族の光景は過ぎ去った昔のもののように思えますか。そのように思えるかもしれません。そう思うのは,今日の家族生活が普通,それとは非常に異なっていることを知っているからでしょう。(囲み記事をご覧ください。)子供たちがその時間の大半を過ごす家族の環境は明らかに堕落しつつあります。
離婚や別居が広がっているために,“スーツケース児童”という現象が増大しています。子供たちがあたかも荷物か何かのように両親の間を行ったり来たりさせられるのです。両親と一緒に暮らしている子供たちの中には,家庭内でけんかを見せつけられて悲しい思いをする子もおり,悪くすると親に殴られてひどい目に遭うこともあります。退廃した家庭環境はしばしば麻薬の乱用や青少年非行につながります。
国際連合は1979年を国際児童年と宣言しました。しかし,「事態を改善するには児童年以上のものが必要とされている」と,ファブリジオ・デンティスはレスプレッソ誌の1979年1月28日号に書いています。同誌は,「我々を形造っているのは今日の生活様式であり,変えなければならないのはまさにこの生活様式なのである」と述べました。
しかし,ご存じのように,生活様式を変え,子供の家庭環境を向上させるのは容易なことではありません。とはいえ,カルロとフィオレラは数年前にエホバの証人と聖書を研究した後その生活様式を変えたのです。二人は家族の中で聖書の諸原則を当てはめることにしました。それで,今では愛がその家庭生活の目立った特徴となり,子供たちにとって祝福となっています。
どのようにして生活様式を変えることができるか
生活様式や家庭環境を変えれば良い結果が得られそうな家族をきっとご存じのことでしょう。どうしたらそのような変化を遂げることができますか。それには生活の型を変えることが関係しています。大抵の人は自己本位な生き方をしており,自分の気まぐれや野心を満足させています。出世や快楽の追求に自分のエネルギーの一番良いところを振り向ける人は少なくありません。配偶者に飽きれば,配偶者を替えるのです。
わたしたちがそれと異なった生き方をするには,自分たちの生活の中で基本的かつ永続する価値基準を優先させなければなりません。これは神と聖書の諸原則とを考慮に入れることを意味しています。そうすれば,カルロとフィオレラの場合と同様,自分たちの霊的必要を満たすことができます。わたしたちはまた,ほかの人々を助ける点で機敏になれます。聖書は,「あなたは隣人を自分自身のように愛さねばならない」,また,「受けるより与えるほうが幸福である」と教えているからです。―マタイ 22:39。使徒 20:35。
これはわたしたちと子供たちとの関係にどんな影響を与えるでしょうか。子供たちはわたしたちの邪魔になる物などではなく,人間なのです。子供をもうけるつもりがあったかどうかにはかかわりなく,親のわたしたちに責任がある,立派な人間であることを認識します。愛と霊的価値基準という相続物を子供たちに伝えれば,子供たちは祝福となり得ます。そのような価値基準はどんな家族においても安定をもたらす要素となります。
そのような見方をしているかどうかによって,子供が生まれてくる前に親がその子のことをどう見るかにも影響が出る場合もあります。カルロとフィオレラの経験をさらに考えることにより,この点をよりよく認識できます。
子供たちが生まれる前 ― そして生まれたあと
「子らはエホバからの相続物」と述べた詩編 127編3節の言葉は,子供たちは貴重で,宝のように大事にしなくてはならないことを示しています。ある物を相続したいと思う人は,ふつうそれを受け取るため,またその世話をするために計画を立てます。
カルロとフィオレラの場合がそうでした。二人はエホバの証人と聖書を研究するまで,聖書の諸原則に従うことが胎児にさえ良い影響を及ぼすことがあるなどとは考えてもいませんでした。例を挙げると,聖書はあらゆる肉の汚れから自分を清めることを強調しています。(コリント第二 7:1)ですからエホバの証人は,たばこを吸ったりスリルを求めて麻薬を服用したりして,自分の体を損なうことをしません。ところが,そうした習慣を避けることは胎児を守るためにも大切であることを示す証拠があります。ですから,フィオレラは再び妊娠した時,聖書の知識を得ていたゆえに,おなかの子供に有害な事は何一つしないようにする一層の理由がありました。バランスの取れたふさわしい食事をきちんと取り,薬の使用に気をつけることにより,貴重な「相続物」である,胎児に対する配慮を示しました。
しかし,ご承知のように,親にとってそれはほんの始まりにすぎません。赤ちゃんが生まれてくると,その子は栄養のある食事とふさわしい衣類,そして医療上の世話を必要とします。それが家族にとってどんな事を意味するか考えてみるとよいでしょう。例えば,親になった人々の中にはダンスをしに行ったり映画を見に行ったりする時間を作るため,しばしば夕食を簡単にすませて満ち足りていた人がいるかもしれませんが,子供が生まれたからにはその子の必要を考えなければなりません。成長期の子供たちにとって,バランスの取れた健康的な食事は特に大切です。ですから,時には余り手をかけない食事ですますことも必要かもしれないとはいえ,愛のある親は通常自分たちの活動を調整して,子供たちがバランスの取れたふさわしい食事を取れるようにします。エホバの証人はそうするよう努めています。
しかし,お察しのとおり,子供たちに対する世話ということになると,物質的な要素だけでは十分でありません。子供たちは親の愛と時間と交友とを必要としています。その感情的な必要は,親が子供を「慈しむ」ことによって満たされなければなりません。―テサロニケ第一 2:7。
カルロとフィオレラは,イエスが『人は,パンだけによって生きるのではない』と言われたことを学びました。(マタイ 4:4)この真理を認める,愛あるクリスチャンの親は,自分の子供に霊的な訓練を与えます。フィオレラとカルロは,エホバの証人のクリスチャンの集会に出席するようになって,これが実際に行なわれているさまを目にしました。その集会は単に年長の人々のためだけの陰気な集まりではなく,そこには大勢の子供たちが出席していました。その子供たちの打ち解けた幸福そうな様子には,エホバの証人の親が与える平衡の取れた親の愛と世話が反映されていました。
読者はエホバの証人が家族生活をそのように重要視していることをご存じなかったかもしれません。証人たちは本当に家族生活に重きを置いているのです。その出版物の中にはクリスチャンの親の責務を扱ったものが少なくありません。証人たちの集会ではしばしば,真のクリスチャンは「優しい憐れみの父またすべての慰めの神」であられるエホバ神の属性を反映すべきことが強調されます。こうして,出席している人々はみんな,自分の子供たちの世話をするよう勧められます。―コリント第二 1:3。
外部の人々の中には,エホバの証人の親が示す優れた特質に注目してきた人がいます。イタリアの一新聞はこう述べています。「彼らは厳格な道徳観を抱いており,それに厳密に付き従う。これは,家族生活のような本当に価値あるものを守る結果になることが多い。夫婦間また子供との関係において,エホバの証人は別居や離婚といった無責任な手段に訴えることを許さない」― 1979年7月31日付,ラ・ナジオネ紙。
愛ある世話と医療
しかし,このように言う人もいます。「エホバの証人が良い親でありたいと思っているのなら,どうして自分たちの子供に輸血を受けさせないのか。それは殺人行為ではないか」。このような言葉を聞いたことがありますか。あるいはご自分でこのように考えたことがあるでしょうか。
このような言葉はエホバの証人だけでなくそれ以外の人々とも関係のある一つの問題とかかわっています。それはこれまでも新聞の見出しになってきた問題です。その問題とは次のようなものです。既に述べたように,愛ある親には自分の子供の福祉を考えてその世話をすることが期待されており,そうした世話には医療を受けさせることが当然含まれています。しかし,自分の子供たちの受ける医療に関する決定において,子供のことを気遣う親にはどれほどの発言権があるのでしょうか。
これはエホバの証人だけでなく,子供を持つ人であればだれにも関係のある問題です。しかし,エホバの証人のことを念頭に置いて,カルロやフィオレラのように子供たちのためならいつでも死ぬ覚悟ができているほどその子たちを愛している献身的な親についてさらに考えてみましょう。(ヨハネ 15:13)新聞の伝えるところによると,そのような親たちは医師が輸血を処方しても自分の子供に輸血を受けさせようとしなかったと言われています。なぜでしょうか。その人たちは愛のある親たちなのですから,それが冷淡さから出たものでないのは明らかです。
幾つかの事例では,そのような事件,すなわち親の権利にかかわる事件が法廷に持ち込まれました。これは読者がご自分の子供たち ― 生まれてくる前から大事にされていたに違いない子供たち ― をどのように世話するかということと関係があるかもしれません。こうした点を念頭に置いて読むなら,次の記事は非常に興味深いものとなるでしょう。
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無邪気な子供に対する現代の悲劇
● イタリア: 毎年5,000人の子供たちがひどい虐待を受ける
● 米国: 電話のある家に一人きりで残され,親の帰りを待つ子供たちが2,300万人いる
● 英国: 親により遺棄される子供たちが10万人いる
● 西ドイツ: 毎年1,000人の子供が虐待されて死亡する