ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目85 1/8 16–18ページ
  • 勝つことがすべてだろうか

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 勝つことがすべてだろうか
  • 目ざめよ! 1985
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 負けるとなぜ傷つくか
  • 勝者になるには何が必要か
  • 「これはゲームです。ゲームはゲームにとどめておくことです」
  • スポーツをあるべき位置に保つ
    目ざめよ! 1991
  • スポーツチームに入るべきだろうか
    目ざめよ! 1996
  • 子どものスポーツ ― 暴力の新たな流行
    目ざめよ! 2002
  • 今日のスポーツをめぐる問題
    目ざめよ! 1991
もっと見る
目ざめよ! 1985
目85 1/8 16–18ページ

若い人は尋ねる…

勝つことがすべてだろうか

「勝てばそれが当たり前。負けたら人生はおしまいよ」。いま女子プロテニス界のチャンピオンであるマールティーナ・ナブラチロワにとって,人生がおしまいになることはそう多くはありません。彼女が負けることはめったにないからです。それでも,負けると大きな精神的打撃を受けることを自分で認めています。

「我々はさんざんに負け,僕のぶざまなかっこうといったらなかった。ゲームが終わると更衣室に座り込み,涙を流して泣く大きな赤ん坊さながらに泣いた。負けるのは嫌いだった。負けてかっこうの悪いところを見られるのが大嫌いだった」。ずば抜けて背の高い米国のバスケットボール選手,カリーム・アブドル-ジャバーは確かに高校時代にも,負けると大きな精神的打撃を受けていました。あなたも負けるとそのように感じますか。

負けるとなぜ傷つくか

わたしたちの多くは負けるとなぜそのように大きなショックを受けるのでしょうか。その理由の一つは,勝つことだけに価値があると信じ込まされてきたからです。2位,3位,あるいはただの参加は敗北を意味するのです。ドイツ出身の元アマチュア・サッカー選手は,「敗北は結果として容赦ない批判を招き,精神的“葬送歌”である場合が少なくない」と述べています。

ベテランのスポーツ記者,レナード・コペットは自著「スポーツの幻想,スポーツの現実」の中で次のように述べています。「勝利あるのみという心理は広く行き渡っている。……この心理は現実的ではないし(ナンバーワンになれるのは一人だけ),技,勇気,専念,才気,満足のゆく努力,進歩,公明正大な競技態度など,他の多くの美質を過小評価することによって自らを貧しくするので,我々の文化に有害な影響を及ぼす」。必ずしも勝利者にならなくても,ほかの立派な特質が示されるかもしれません。では,負けたからといって精神的打撃に痛手を被るべきでしょうか。「すべての価値を勝敗だけに帰するのは自ら制限を設けることで,愚かなことだ」と,コペットは見ています。

勝つように,スポーツの醍醐味を勝った時だけ味わうように圧力をかけることは多くの場合家庭で始まります。親が始めるのです。親は子供の成し遂げたことを通して望みを果たそうとすることがあります。子供が負けたら親の評判にかかわるという印象を無意識のうちに子供に与える親もいます。学校からの圧力もあります。自分の学校の指導教師について,アブドル-ジャバーはこう言いました。「ちょっとでも負けそうになると,指導教師の辛らつな批判を浴びなければならなかった。だから負けることなど考えられないことになり,バスケットボールは楽しいものではなくなった。……[指導教師は]優しい言葉で恥ずかしめながら指導した。若者にとって,ほかの連中の前でかっこう悪く見えることぐらい嫌なことはないのを知っているから,こちらのプライドを刺激したのだ」― 下線は本誌。

何が何でも勝つ症候群の原因を探る手掛かりはそこにあります。それは誇り<プライド>です。負けたために人前で恥ずかしい思いをさせられたり,一段劣った者のように感じさせられることはだれも好みません。実際のことを言えば,勝ったからといって自慢し,あるいは負けたからといって失意落胆するなら,その人のほうが劣っています。なぜそう言えますか。なぜなら,勝者になれば,敗者の意見や自尊心に敬意を払わないからです。聖書はこの危険を特に取り上げ,「しかし今,あなた方は独り善がりの自慢を誇りとしています。そのような誇りはすべてよこしまなものです」と述べています。負けて意気消沈してしまう人は幻想,つまり実際には短命で「むなしい」ものなのに,スポーツは真の人生であるという幻想を重要視しすぎているのです。賢王ソロモンは,「わたし自らすべての骨折りと業におけるあらゆる熟練とを見た。それが互いに対する対抗心を意味するのを。これもまたむなしく,風を追うようなものである」と書きました。人間としての真の価値は,数秒ないし数分のスポーツ活動で決まるものではないということを忘れないようにしましょう。―ヤコブ 4:16。伝道の書 4:4。

勝者になるには何が必要か

「もしスポーツが骨の折れる嫌なもの……になるとすればどこかが間違っている」と,作家のジェームズ・ミッチェナーは言いました。この言葉は,勝つことだけに価値があるという哲学に伴う別の要素にわたしたちを導きます。それは何でしょうか。全力投入です。

一例を挙げてみましょう。テニスの元チャンピオン,アーサー・アッシュは次のように書いています。「運動神経の発達した七,八歳の少女なら,専門家の指導を得て約5,000時間の練習と試合をすれば,七,八年で上位50位に入るテニス選手になれるかもしれない。これに匹敵する能力を持つ少年の場合は約8,000時間を必要とするだろう」。注目すべき点は,5,000時間または8,000時間を練習や試合に費やしても,ナンバーワンの選手になれる保証はないということです。上位50位に入る選手になれる「かもしれない」というだけのことです。

この種の全力投入はクリスチャンにとってどんな危険があるでしょうか。アッシュの示した数字からすると,1日に3時間,1週間に五日テニスをすることになります。この程度テニスに力を投入すると,ほかのどんな関心事が犠牲になるでしょうか。通常の一般教育のための時間はどれほど残るでしょうか。スポーツ以上に重要な霊的進歩のための時間はどれほどあるでしょうか。家族との建設的な交わりはどれほど失われるでしょうか。若い人々にとってこれは無意味な質問ではありません。若い時代は,重要な性格や人格や霊的な基礎が置かれる時 ― あるいはおろそかにされる時です。

最近号の「ティーン」誌の記事は,体操に全力を投入した人たちの払わなければならない犠牲を,例を挙げて説明しています。その記事はオリンピック出場を目ざしていた3人のティーンエージャー,メアリー・ルー,ダイアン及びジュリアンに関するものでした。彼女たちはどのようにして成功したのでしょうか。「メアリー・ルーは『ずっと全力を投入して打ち込んできた』というふうに説明しました」。彼女たちは1日に6時間練習をしなければならなかったうえに,学校の勉強にもついていかなければならず,競技に出るための旅行もしなければなりませんでした。

しかし代価も支払わなければなりませんでした。「3人にとって一番難しかった取り決めは,15歳にならないうちに家を離れることでした。それは彼女たちの潜在能力を引き出すだけの訓練能力を持つコーチの指導を受けながら練習できるようにするためでした」。ジュリアンは1980年のオリンピックに備えて13歳の時に家を出ました。しかし,米国がモスクワ・オリンピックをボイコットしたので,すべては無駄に終わりました。

もっとバランスのとれた見方は小説家のジェームズ・ミッチェナーの見方かもしれません。「スポーツは参加者にとって楽しいものでなければならない。ゲームが進むにつれて緊張がほぐれ,喜びでいっぱいになるようなものであるべきだ。……もしスポーツが骨の折れる嫌なもの,あるいは良くない競争,単なる商業的企画などになるとすれば,それはどこかが間違っている。……もしゲームが楽しくないものであれば,スポーツを行なう正当な理由の少なくとも半分は失われている」。

「これはゲームです。ゲームはゲームにとどめておくことです」

この簡単な助言を口にしたのは,ジャック・ニクラウスで,最近行なわれたあるゴルフ選手権で2位になった時でした。スポーツはあくまでも楽しくて気晴らしになるもの ― 娯楽,“ゲーム”であるべきです。スポーツは人生ではなく,人生はスポーツではありません。一流のプロの選手でさえその事実に直面することがあります。米国の元フットボール選手のジェリー・クレイマーはこう書いています。「一体自分の人生はどこへ向かっているのだろう,日曜ごとに行なうこのばかげた[フットボールの]試合<ゲーム>のほかに,自分にはこの地球上で一体どんな目的があるのだろうと考えることがよくあった。人生にはそれ以上のものがあると私は感じている」。

あなたも,人生にはゲームをする以上のものがあると信じていますか。キリストや使徒たちがそう信じていたことは確かです。だからこそ古代ギリシャにおける運動競技についてよく知っていた使徒パウロは,「体の訓練は少しの事には益がありますが,敬虔な専心はすべての事に益があるからです。それは,今の命と来たるべき命との約束を保つのです」と書くことができたのです。―テモテ第一 4:8。

適度な限界を設け,その中で健康を維持するよう務めるのは分別のあることです。しかし長期的には,体の訓練よりも敬虔な専心の方が重要です。どんなスポーツ競技であれそれに勝つために努力するよりは,クリスチャンの競走に勝つことの方が重要です。スポーツでの勝利は一時的な成功にすぎません。今日の栄光も明日はただの統計になってしまうのです。しかし,敬虔な専心における成功は,「今の命と来たるべき命」,つまり神の王国のもとにおける永遠の命「の約束を保つのです」。―テモテ第一 6:19。

[17ページの図版]

あなたは負けるのが嫌いですか。なぜですか

[18ページの図版]

激しい競争意識を持たないようにすれば,スポーツは気晴らしの娯楽になる

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする