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目ざめよ! 1985
目85 5/8 17–20ページ

パリを見下ろす,鋼鉄の貴婦人

フランスの「目ざめよ!」通信員

「ボンジュール,ピエール! パリへようこそ! ぜひ楽しくお過ごしになってください。最初に何をご覧になりたいですか」。

「エッフェル塔です」。

「いいですね……さあ着きました。どうです,なかなかのものでしょう?」

「たいしたものですね!」

「そう思われるのももっともです。だれもが圧倒されてしまうだけのことはあるのです! この年老いた貴婦人は,テレビアンテナの帽子を入れると300㍍以上の高さになるのです」。

「こんなに大きな鋼鉄製の建造物を一体何のために使うのですか」。

「その質問にお答えするには少し詳しいことをお話ししなくてはなりません。エレベーターの切符を買うために並んでいる間に背景を少しだけお話ししましょう。100年ほど前のことですが,フランス政府はフランス革命(1789年)の100周年を記念して万国博覧会を開くことにしたのです。地元のパリ市は,有名な土木技師であったアレクサンドロ・ギュスタブ・エッフェルに意見を求めました。驚いたエッフェルは自分のファイルを丹念に調べ,その時までほとんど気にもとめなかったある計画を探し当てました。つまりそれが高さ300㍍の鉄塔だったのです。

「万博委員会はその計画の面白さを認め,建設計画のコンクールを準備しました。ありとあらゆる無鉄砲な考えが出されたのですが,フランス革命を記念する大ギロチンなどもその一つです。もう一つ,石造りの塔も提案されたのですが,見積もりと過去の経験からすると,米国が苦心して数年前に完成させた高さ169㍍のワシントン記念塔をしのぐ石造りの建造物を造るのは大変難しいことが明らかになりました。結局エッフェルの計画が採用されたのです。でも不思議なことに,この人の名を世界中にとどろかせたこの塔の原案は,エッフェル自身のものではなかったのです」。

「エッフェルがその塔の設計をしたわけではないという意味ですか」。

「その通りです。エッフェルがその塔を建てたとはいっても,その塔の最初の設計者はエッフェルの仲間の技師であったモーリス・ケイクランとエミール・ヌーギエでした。でも,塔を2年以内に完成させるという偉業は,エッフェルの建設方法が採用されたからこそ可能になったのですし,それが一つの理由となって万博委員会は彼の案を選んだとは言えるでしょうね」。

「エッフェルという人はこの塔を建てる前にもよく知られていたのですか」。

「その通りです。ポルトガルのオポルトを流れるドウロ川のマリア・ピア橋のような,大きな鋼鉄製の橋で有名でした。南フランス中央部のガラビ鉄橋をも完成させ,その鉄橋は水面から122㍍のところに架かる当時としては最も高いアーチ橋になりました。それに忘れてならないのは,世界的に有名なもう一つの建造物である自由の女神像の鋼鉄の骨組みを造る面でも,エッフェルが主要な役割を果たしたことです。

「エッフェルの造った建造物すべてについて言えることですが,大きな問題は風でした。エッフェル塔を造るときには,自分がよく用いていた方法を採用し,比較的細い大梁を網の目のように張り巡らす方法を取ったのです」。

「強い風が吹いてきても本当に大丈夫なのでしょうね」と,ピエールは心配になって尋ねてみました。

「心配はいりません! この格子造りの大きな鉄塔はあまり風の影響を受けないのです。これまでパリで記録された最大風速は毎秒50㍍ですが,それ以上の強風に遭ってもこの塔ならわずか12㌢しか揺れません。現実には,太陽の影響のほうが強いのです。太陽の熱にさらされる側は少し膨張し,そのために塔の頂は18㌢ほど動きました。

「そうはいっても,この塔は比較的軽量です。造られた当初は7,000㌧足らずしかありませんでした。分かりやすく言えば,高さ30㌢の縮尺模型にするとわずか7㌘にしかならないということです! 実際,比較して言えば,この塔の四つの土台の各々にかかる1平方㌢当たりの圧力は,普通の人間が腰掛ける椅子の脚にかかる圧力よりも小さいのです。

「与えられた時間内にこの塔を完成させるため,エッフェルは組立式の部品を広範に用いました。前もってリベットの穴をちょうどよい場所に開けておき,250万のリベットもその3分の2は前もって固定しておきました。3㌧を超える組立式の大梁は1本もなかったので鉄骨を所定の位置に上げる仕事ははるかに容易になりました。まず最初に背の高いクレーンが用いられ,建造物がそのクレーンよりも高くなってからは,エッフェルの考案した可動式クレーンがそれに取って替わりました。このクレーンは,後にエレベーター用の“レール”を持ち上げました。このような円滑に進められた作業は,エッフェルの主要な関心事の一つである安全に寄与しました。工期全体を通じて死亡事故は一件もありませんでした。これは当時としては,そして現代においても,まさにすばらしい偉業です」。

「でも一体どのようにして建て上げたのですか」。

「では土台の部分からお話ししましょう。セーヌ川がそばを流れていたので,エッフェルは,橋を造るときに導入した方法を用いました。16基の基礎用ケーソンの各々には作業室があり,そこには圧縮空気が送られていて水が入らないようになっていました。このようにして作業員は,浸水に妨害されることなく,泥や土を掘り,それを外へ出すことができたのです。

「エッフェルも,そのもとで働く人たちも,塔の高さについては心配していませんでした。危険な作業状況には慣れていたからです。理屈に合わないようですが,エッフェルにとって最大の問題の一つは第一展望台でした。傾きをもった4本の支柱と第一展望台の巨大な大梁を支えるために,木製の大きな足場が用いられました。4本の支柱の先端には,砂のぎっしり入った金属製の円筒が置かれ,その砂を徐々に出すことによって,4本の支柱を所定の位置に下げることができました。支柱の土台に設置した補助的な油圧ジャッキのおかげで,4本の柱の最終的な調整が可能となり,柱は第一展望台の鋼鉄の骨組みにはまりました。

「この展望台は完全に水平な位置になったとき支柱にしっかりと固定され,それから油圧ジャッキが除かれました。そのようにして,塔自体の建設の業を再開できました。仕事はゆっくりと,しかし着実に進められ,塔が空へ伸びてゆくのを眺めるパリっ子の口から称賛と驚嘆の言葉が発せられるようになりました。こうして掘削が始まってから26か月足らずの1889年3月31日,エッフェルは塔の落成式を行なうため,運動神経の発達した高官数人を招いて1,710段の階段を上らせ,そこで“工事現場での略式の祝賀会”と自ら呼ぶものを行ないました。でもピエール,心配はいりません。わたしたちはエレベーターで行きましょう!」

「さあエレベーターが来ました。すぐに一番上まで行きますか」とピエールは興奮して尋ねます。

「いいえ,第二展望台でエレベーターを乗り換えなければだめです。本当を言えば,2番目のエレベーターも本当のてっぺんまで行くわけではありませんが,270㍍以上の高さに昇ることになります。そこからの眺めはすばらしいですよ。晴れた日には,65㌔まで見渡せます。ご覧になってお分かりのように,最初のエレベーターに乗ると,鉄の柱の中を昇って行くことになります。これは実は大きな問題になりました。そうするためには,エレベーターが第一と第二の展望台の間の湾曲部を通過できるようなシステムが必要となったからです。オーチスという会社だけがこの問題をなんとか解決できたので,結局そのエレベーターを製造するように選ばれました。

「最近,古い油圧式のエレベーターは,近代的な4台の電動式エレベーターに替わりました。こうして,ずっと昔と同じように,またもや科学技術に助けられたのです。もしこの助けがなかったら,鋼鉄の貴婦人の優雅な姿は,残念ながらパリの空から消えてしまっていたことでしょう」。

「それは一体どういうことですか」。

「これからご説明します。エッフェルとの間で取り交わされた最初の契約では,20年後にこの塔を取り壊すことが定められていました。ところが1903年に,無線電信を開発したフェリエ将軍がこの塔を実験用に使ったので,塔は軍事目的のために保存されました。1921年になると,最初のラジオ生放送の電波がエッフェル塔から出されるようになりました。1922年以降は,“ラジオエッフェル塔”から定期的に番組が流されています。この塔は30年近くの間テレビ塔としても用いられており,アンテナを入れると高さは現在320.75㍍になります。エッフェル塔は40年以上の間,人間製の建造物の中では世界一の高さを誇っていましたが,ニューヨークのクライスラービルが1930年にその記録を塗り替えました」。

「パリっ子自身としては,エッフェル塔についてどう思っているんでしょうか」。

「好きという人から嫌いという人まで,長い間にずいぶん意見が変わってきました。1887年という昔には,小デュマやモーパッサンといった有名な作家のグループ,それに作曲家のグノーなどが,『工場の巨大な煙突のようにパリを見下ろす不快極まる塔』と呼んでエッフェル塔をこきおろす抗議の手紙に署名しました。これらの人々は,『我々は今後20年の間,パリ全市にインクのしみのように広がる,憎むべき鉄の柱とボルトのおぞましい姿を見ることになるのだ』と付け加えました。

「でもそのような考え方は今では鳴りをひそめ,今パリっ子はエッフェル塔をパリの風景の一部として受け入れています。この鋼鉄の貴婦人は,7年ごとに行なわれる化粧直しに用いられた50㌧余りのペンキのおかげで,時間の試練に耐えてきました。1989年には,100周年の祝いが行なわれることになっています。

「詩人はこのエッフェル塔を,『[パリの]橋という羊の群れ』のただ中にいる『女羊飼い』に例えましたが,もちろんすべての人がエッフェル塔をそのように見るわけではありません。でも,ちょうどピエールのように,世界の各地から訪れる旅行客は,この塔を見るために文字通り『群れ集まって』います。その数は1年で300万人を超えます。眺めを楽しむために昇る人もいれば,いろいろな店でおみやげを買うことに関心を持つ人もいます。第一展望台にある特別な郵便局から郵便はがきを出したいというだけの人もいます。また他の人々は,第一展望台と第二展望台にあるレストランで,典型的なフランス料理を時間をかけて堪能します」。

「見学の案内と,いろいろ詳しいことを説明してくださってありがとうございました。今度友達に会うときには,100歳近くになるのに足腰もしっかりしていて,パリを見下ろす元老格の貴婦人に会った,と言うことにします」。

[19ページの拡大文]

エッフェルは塔の落成式を行なうため,運動神経の発達した高官数人を招いて,1,710段の階段を上らせた

[20ページの拡大文]

最初の契約では,塔は20年後に取り壊されることが定められていた

[18ページの図版]

格子造りに鉄材を組んだために,この塔は大きさの割には軽い

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