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  • 目ざめよ! 1985
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目ざめよ! 1985
目85 5/22 12–14ページ

あなたは幾たび生まれ変わりましたか

インドの「目ざめよ!」通信員

インド人の主人は綿の衣服をまくり,象皮病が悪化してひどく醜くなった片足をむき出しにしました。そして,その足を指して,「これが私の前世の業(カルマ)です」と言いました。

そう語ったこの人は,ヒンズー教徒の間に普及している信仰,すなわち,現在の生命は連綿と続く生まれ変わりの鎖の一つの輪にすぎないという信仰を言い表わしていました。現世の巡り合わせは自分が前世にまいたものの結果であり,現在まいているものは将来生まれ変わった時に刈り取ることになるとヒンズー教徒は信じています。

広く行き渡っている信仰

しかし,再生の信仰が見られるのは決してインドだけではありません。それは「世界のほぼ全域に」見られる,とヒンズー教の指導者,S・ラダークリシナンは書いています。世界中で,すなわちアフリカ,アジア,南北両アメリカ,太平洋の島々,ヨーロッパで,人々は人間の魂がサメ,ワニ,トラ,クマネコ,イタチ,ネズミの中へ移入すると信じており,スズメバチやマグソコガネのような昆虫の中にさえ移入すると信じています。また,再生は動物の形を取るとは限りません。アフリカとインドでは子供のできない女性が,死者の魂の宿っていると信じられている樹木に願をかけます。同様の風習は古代ヨーロッパにもありました。

それにしても,魂の再生もしくは輪廻の信仰はどのようにして始まったのでしょうか。なぜ人々はそれを信じるのでしょうか。また,この教えは人々の生活にどんな影響を及ぼしてきたでしょうか。

源を見極める

一つの生命形態から別の生命形態へ転生するのであれば,人間の魂は不滅でなければならないでしょう。ですから,再生説は霊魂不滅の教理に基づいており,再生説の起源をさかのぼれば,霊魂不滅を信じていた人々もしくは国々にたどり着くに違いありません。それを根拠に,その信仰は古代エジプトにおいて始まったと考える人々がいます。しかし,歴史上初めて秘教が発生した古バビロニアで始まったと考える人々もいます。バビロニアの祭司団はその怪しげな宗教にはくを付けるため,魂の再生の教理を唱導しました。そのようにして,自分たちの宗教上の偉人のことを,はるか昔に死んだ有名な先祖の生まれ変わりであると主張することができました。

しかしこの信仰が開花した所はインドでした。ヒンズー教の導師たちは人間の間に見られる悪と苦しみという普遍的な問題に取り組んでいました。『義なる創造者という概念と,そうした問題とをどのように調和させ得るか』と考え,神の義と,世の中に見られる予見しえない災厄および不平等という矛盾を解決しようとしました。その結果考え出されたのが「業の法則」つまり因果の法則です。それら導師たちは,一つの生涯の功罪が次の生涯でどんな果報を受けるかを決定する詳しい“貸借対照表”を作成しました。

「業」とは簡単に言えば「行為」のことです。ヒンズー教徒は,社会的および宗教的規範に従うなら「善の業」を持ち,従わなければ「悪の業」を持つとされます。その人の行為,すなわち「業」によって,連綿と続く再生の過程で次にどのように生まれ変わるかが決まります。しかし究極的な目標はその輪廻という循環から解放され,宇宙霊と一致することです。それは,社会的に容認される行為をするように努め,ヒンズー教の特別な知識を取り入れるよう励むことによって達成されると考えられています。

再生の教えの実

再生を信じている人の人生観は,インドの哲学者,S・N・ダスクプタの次の言葉に代表されます。「人は,前世の業に従って経験するよう運命づけられている,現世の悪のいずれかを現世の行為によって防ぎ得ると期待することは普通できない」。結果として,人生全般に対して,また個々の社会悪や不公正に対して宿命論的な見方がなされています。

業の法則はヒンズー社会のカースト制度の維持にも一役買ってきました。どのようにでしょうか。この信仰によると,現世の状態は前世の業すなわち行為の結果であるということなので,現世においてその状態は変えられるものではないと考えられています。もっとも,スワミ・ニキーラナンダによれば,「現在のカーストによって定められた務めを行なうなら,来世ではもっと高いカーストに生まれる資格ができる」ということです。したがって下位カーストに所属する人はそのカーストの決まりや習慣に背くことを恐れます。そのうえ制裁を受けたり村八分にされたりする恐れもあります。自分の所属する社会階層の決まりや習慣のどれかを破る,もしくは犯す人は,その階層の仲間から制裁を受けたり否認されたりさえすることがあるからです。そのような恐れがあるために,大勢の人が,公民権や特権のない,「不可触賤民」すなわち社会から見捨てられた極貧の階層に甘んじています。現代における法律制定者たちの努力が実り,いわゆる不可触賤民に対する虐待がかなり緩和しましたが,そのような伝統に縛られた社会では宗教的習慣が,根強く残っていて,なかなかなくなりません。

再生 ― 信じられるか

では,人間の間にはどうして苦しみと不平等があるのでしょうか。再生はその唯一の説明,あるいは信ずるに足る説明とさえ言えるでしょうか。冒頭に挙げた象皮病の男の人のことを考えてみましょう。その人はこの病気の原因を知らなかったので,自分の業のために苦しんでいると考えていました。しかし仮に,象皮病を媒介する蚊のいない地域に住んでいたら,あるいはその蚊に関する知識を持っていて予防手段を講じていたら,その恐ろしい病気にかからずにすんだのではないでしょうか。ですからその人が苦しんでいるのは,その業のためではなく,「時と予見しえない出来事」のためなのです。―伝道の書 9:11。

近年モハンダス・ガンジーをはじめとする何人かの指導者は,「不可触賤民制は神と人とに対する犯罪である」と言明し,業-再生の思想の影響に立ち向かおうとしました。ガンジーおよび同じ志を持つ他の人々の努力により,「不可触賤民」の生活はある程度改善されました。これは,「不可触賤民」の生涯は人の業のためではなく,それゆえ変わり得るものであることを示していないでしょうか。実のところ,そのような抑圧された生活は受け継がれてきた社会体制の所産で,その体制は改善し変化させ得るということが分かります。したがって,「不可触賤民」に生まれた子供の運命は確かに人為的なもので,神によって定められたものではありません。

商業界の貪欲と腐敗についてはどうでしょうか。無節操な実業家はわいろを使ったりゆすり取ったりしたがります。しかしそれはしなければならないことなのでしょうか。その不法行為は自分の自由意志の誤用の結果ではないでしょうか。ですから,人間が苦しむ理由を説明するのに「業-再生」の思想は必要ではありません。理性的な人は,人生の悪と不平等の原因が,論理からして,多くの場合事故や遺伝や自由意志の誤用にあることを認めます。―ローマ 5:12。伝道の書 7:29。

再生 ― 本当にあるのか

再生の教理は霊魂不滅の信仰を根拠にしています。地上の魂が不滅でないとしたら,生まれ変わり説は崩れ去ります。しかしその問題に関する正確な知識をどこに求められるでしょうか。主要な宗教の聖典はほとんどすべて,何らかの形で霊魂不滅を教えていますが,聖書は教えていません。

人間の魂とは何かについて聖書はこう述べています。「エホバ神は地面の塵で人を形造り,その鼻孔に命の息を吹き入れられた。すると人は生きた魂になった」。(創世記 2:7)ですから,生きていて呼吸している人間こそ魂なのです。人は,死ぬとたちまち肉体から離れて行く,肉体とははっきり分かたれたものを内面に持っているのではありません。

死ぬとどうなるかについて創世記 3章19節には,「あなたは顔に汗してパンを食べ,ついには地面に帰る。あなたはそこから取られたからである。あなたは塵だから塵に帰る」と書かれています。ですから人は死ぬと新たな生命に入る,すなわち生まれ変わるのではなく,「塵に帰る」のです。聖書は人間の魂が死ぬことをはっきりと教えています。人間の魂は輪廻するのではありません。「罪を犯している魂 ― それが死ぬのである」と聖書ははっきりと述べています。―エゼキエル 18:4,20。

死者に差し伸べられている希望

魂が死ぬのであれば,死者にはどんな希望があるのでしょうか。罪深い人間は生まれ変わりを数え切れないほど経験することにより,苦しみと痛みの満ちた運命を自分で切り開いていかなければならないなどと聖書は述べていません。むしろ,「義者と不義者との復活がある」と答えています。―使徒 24:15。

創造者はその無限の知恵と計り知れない愛とにより,死んだ人々の生涯の型を記憶しておられます。業の法則による信仰の場合のように,死んだ人々を裁いて罰する根拠とするためにそうなさるのではありません。むしろそれは,生前持っていたのと同じ人格と個性を持つ者として人々を死から呼び戻し,復活させるためなのです。地上の命に復活させられる人々は復活後の生き方に基づいて裁かれます。次いで,人間として,復興した地上の楽園で再び生活するという見込みが与えられます。その楽園について聖書はこう保証しています。「もはや死はなく,嘆きも叫びも苦痛ももはやない。以前のものは過ぎ去ったのである」― 啓示 21:4。

[13ページの拡大文]

不可触賤民制は神と人間とに対する犯罪である」とガンジーは言明した

[12ページの図版]

この人はどんな事をしたので,このような目に遭うのでしょうか

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