読者の声
ダハウ強制収容所での経験
「ダハウ強制収容所で死から命の道へ」という記事(1985年5月8日号)を読んでショックを受けました。性や拷問を赤裸々に扱った記事(13ページの6節)は採用しないようにして,このようなあからさまな記事を二度と再び掲載しないでください。
K・F 米国カリフォルニア州
確かに,性を赤裸々に扱った記事を本誌に載せるべきではないと思います。しかし,13ページの6節に書かれている事柄が赤裸々な性の描写であるとは思えません。その節の内容は確かに衝撃的ですが,大きな教訓となる次の節の要点へと話を発展させる役割を果たしています。少女がその経験に耐えられたのであれば,その経験談を読むにすぎないわたしたちはそれに耐えられるはずです。聖書の中には,事情によってもっと赤裸々な描写をしている箇所が幾つかあります。―編集者。
私は,読みながら,同情・怒り・喜びなど,非常にさまざまな感情を味わいました。母親の受けた残虐行為を見せつけられたという話を読んだ時には泣いてしまいました。その経験は私を力づけるものとなりました。その結末を知って,私はとてもうれしく思います。この経験をした方が現在すばらしい将来を待ち望んでおられるのは本当にうれしいことです。この方の態度は手本として見倣うに値するものです。このようにすばらしい記事を出してくださって,ありがとうございました。
J・F 米国イリノイ州
ただの友達でいる
「若い人は尋ねる……男の子と女の子が“ただの友達”でいられるだろうか」という記事(1985年6月8日号)の見解には全く同意できません。私には男性の友達が大勢いますが,その人たちに対して私は性的な感情を全く抱いていません。男子には兄弟に対するように当たりなさいと聖書は述べています。親しい男友達を持つのは間違っていると言うのはそれに反しているように思えます。私は,男の子と女の子は“ただの友達”でいられると絶対信じています。
D・B 米国アラバマ州
確かに,男女両性の友達が大勢いると,健全な成長を遂げるのに良い場合があります。問題になっている記事が特に扱っていたのは,秘密を打ち明けられる親しい異性の友,つまり“交際相手”をつくっても,その関係をもっぱらプラトニックなものにしておけると考える若者のことでした。ただ一人の異性と特別な感情ぬきにそうした親しい友情を育めると考えるのは現実的なことではありません。―編集者。
「若い人は尋ねる……男の子と女の子が“ただの友達”でいられるだろうか」という記事(1985年6月8日号)と「若い人は尋ねる……“ただの友達”でいるのがどうしていけないのだろう」という記事(1985年6月22日号)に深く感謝しています。その二つの記事のおかげで目が開かれました。二,三年早くこのような情報を得ていたら,私はこれまで味わってきたような感情的な混乱を経験せずにすんだことでしょう。問題は,必要なところで一線を引くことをいつも忘れてしまうことにありました。しかし,箴言 22章3節の助言は,現在および将来にわたって私の身の守りになるに違いありません。
J・L 米国ニューヨーク州
「若い人は尋ねる……男の子と女の子が“ただの友達”でいられるだろうか」という記事を載せてくださってありがとうございます。その記事はタイミングのよい時に出ました。私は今,一人の異性と“ただの良い友達”になったために片思いの恋愛感情を抱くようになり『火で焼かれた』結果から立ち直ろうとしているところなのです。それは確かに感情の混乱する経験でした。
D・G 米国アーカンソー州