裕福な身分からぼろをまとう生活へ ― そして幸せな人生へ
お金,麻薬,セックス。これらは,“今日という日を面白おかしく生きよう”式の生活へ多くの若者を誘惑してきました。しかし,それらを追い求めることによって本当に幸せが訪れるのでしょうか。これはある女性の体験談です。この人はつらい目に遭って,つまり自分の経験を通して教訓を学びました。これを読むと,聖書的原則が人の人格を良いほうへ変えるうえでいかに大きな力になるかがよく分かります。
私は生後三日で,中流階級でも少し上の方のある家族に養女にされました。その家は養父母と養父母の実の娘二人に私を加えて5人家族でした。私はその家で満ち足りた,安定した生活を送っていました。世間の標準からすれば,私たちは何不自由のない生活をしていました。ロサンゼルスにあるカトリックの寄宿学校に2年在学したものの,学校教育のほとんどは,カリフォルニア州バークレーおよびラフィエットの公立学校で受けました。
両親は,バレエのレッスン,テニス,乗馬など,私たちがしたいことを何でもさせてくれました。家にプールがあったので,私は競泳や水中バレエなどを行なうようになりました。ですから十代になるまで,それも高校を卒業するころまで,ほかの人たちの生活が私たちとはかなり違うことに本当に気づいていませんでした。1960年代には公民権運動のデモ行進がよく行なわれるようになりましたから,高校を卒業するころになって初めて,偏見があることや,すべての人が怠惰なために貧しいわけではないのだという事実を意識するようになりました。
私はカトリックの学校で教わった事柄について疑問を抱くようになりました。私は礼拝に関しては非常に熱心でした。その証拠に,尼僧になりたいという願いを抱いていたことが数年間ありました。でも,疑問の答えを得られないままに終わりました。その疑問というのは,わたしたち人間はなぜ存在するのだろう,人々が飢えに苦しんでいる時に,なぜ教会は多くのお金を集めて高価な教会堂を建てたりすることができるのだろう,といったものでした。私は自分の信仰を疑うようになりました。
私たちのような生活のできる人はほんの少数であることを悟った時,それはとても不公平だと思いました。両親は,貧しい人々に対して少しも同情を示しませんでした。『貧しい人々でも一生懸命に働き努力しさえすれば,私たちが持っているような物を持てるのだ』と考えていました。ですから,貧困はすなわち怠惰であると見ていました。私はそのような考えにはなじめないように思え,たいへん寂しい気持ちになりました。
周囲の人たちの態度がそのようなものだったので,私はほかの事柄,おもに飲酒と男の子たちに心を向けるようになりました。そしてロック歌手と結婚することを夢見て,ロック・グループの男の子たちとだけ交わりました。ですから家族とは行動を共にしなくなり,問題児になりました。16歳のころには強情でわがままな,手に負えない娘になり,家の者たちにひどく惨めな思いをさせていました。夜になれば飲みに出かけ,男の子たちと寝ていたので,学校ではひどい評判が立ちました。両親は私に愛想を尽かし,1966年の6月に私が学校を卒業すると,サンフランシスコに一つの部屋を私のために借りて私を家から出してしまいました。
私はパトリックという名前の男の子と知り合い,やがて恋愛関係に陥って,二人でパトリックの出身地であるニューヨークへ行くことにしました。そして数か月間パトリックや彼の家族と一緒に暮らしました。しかし,パトリックは私に飽き,グリニッチ・ビレジで会った女の子パリシュに私を紹介しました。それで私は彼女の所へ引っ越しました。
私が会った時にはパリシュはわずかのお金を持っていましたが,それもやがてなくなり,私たちは街頭に立つようになりました。その時から私たちは夜の女になって生計を立てる方法を知りました。一夜を共にする相手が見つからない時には,麻薬を飲んで一晩中起きており,町の片隅かまたは地下鉄の駅で人々にお金をせびりました。時には,酒場から給料をもらって,酒の売り上げを増やすためにお客の男性に酒をねだるバーのホステスのような仕事をしたこともありました。私はまたポルノ写真のモデルや売春婦としても働きました。レストランの外にある,ごみを入れる缶の中をのぞいて食べ物をあさったこともあります。またレストランへ入り込み,人のお皿の食べ残しを食べ,それからチップを盗んでコーヒーを注文したこともありました。
着の身着のままというときもありました。私は文字通り裕福な生活からぼろをまとう生活へ転落していました。時々新しい服を,金持ちで気前のいい中年の男性からもらいました。ある頼みを聞いてあげた代わりに服を買ってくれたのです。ある時など,どうしてもコートがほしかったので大きなデパートに入り,そこでりっぱな冬のコートを試着し,そのまま外に出てしまいました。もちろん代金を払わずに!
ビレジでは一つの音楽グループと親しくなりましたが,その人たちを通してマリファナの味を覚えました。次の5年間に私はほかの麻薬,例えばLSD(これは文字通り何百回も),THC,アンフェタミン,ヘロイン,コカイン,アヘン,ハシシ,その他多くの麻薬を使いました。その後私は大きな麻薬組織に雇われ,マリファナの一杯詰まったスーツケースを持って,サンフランシスコとニューヨークの間を飛行機で往来しました。
ニューヨークに数か月滞在したあと,パリシュと私は,車に便乗させてもらってハリウッドへ行く機会がありました。そしてそこで,一緒に寄宿学校に行ったキャロルとばったり出会いました。キャロルはパリシュと私が彼女の所へ移転するのを許してくれました。
そのころ私たちは“レッズ”というバルビタール剤(鎮静剤)を用いていました。私自身,それを1日に最高6個ないし7個用いていました。夜になると麻薬に酔うことが多く,酔ったらサンセット大通りへ出かけて行って,その通りにあるクラブから響いてくる音楽を聴きました。ある晩のこと,キャロルと私がそうしている時に二人の男が近づいて来てマリファナを勧めたので,私たちはそれを受け取りました。私たちは車に乗せられ,結局,私はたたかれ,強姦されました。
キャロルはかろうじて逃げのび,警察を呼びました。警察はすぐにやって来たので,その男を捕まえることができました。警察はその男を捕まえておいて私に色々な質問をしました。そして私について大急ぎで調べ,私がヒッチハイクをしたことに対する罰金の未払いで手配されていることを知り,私を逮捕しました。しかしその男は釈放され,私は刑務所へ入れられました。
それから1年あとの1968年の5月に,私はニューヨークへ行き,パトリックとよりを戻しました。やがて私はパトリックの子供を妊娠しました。パトリックは,私ともまた子供とも無関係でいることを望んだので,私はサンフランシスコに戻りました。私は未婚で,独りぼっちで,しかも母親になろうとしていました。そのため非常な恐れを感じ,自殺を考えるようになりました。
妊娠8か月のころ,パトリックから電話があり,私の所へ戻りたいと言いました。パトリックは450㌦(約10万8,000円)のお金を必要としていたので,私はそのお金を彼に与えました。彼を自分のもとへ戻すためなら何でもするつもりでいました。彼はまた徴兵選抜委員会に提出する私からの手紙を数通必要としていました。それで,パトリックが私を扶養しているという趣旨の手紙を書きました。私の手紙は効を奏したようです。徴兵選抜委員会がパトリックを徴兵からはずしたからです。しかしそれ以後彼からは何の音さたもありませんでした。そして2週間ほどして1969年2月18日に私は女の子を出産しました。
この時点で私は,自分の知っている世界がすべてではない,人生にはもっと意味があるに違いないということに気づきました。私は両方の世界,つまりぼろをまとった生活と裕福な生活とを味わってきましたが,それでも幸福ではありませんでした。それで答えを別のところに求めるようになりました。
答えを探し続けていた私は,1970年の12月に「道」と呼ばれていたイエス運動に加わりました。そのときにはスティーブという名の若者と同棲していたのに,その運動を行なっていた人々の中にはそのことを問題にした人は一人もいなかったようです。エホバの証人と接触するようになったのは,ちょうどそのころのことでした。サンフランシスコのマーケット通りにいた時,一人のエホバの証人が私に近づいてきて,あなたはクリスチャンですかと尋ねました。私は「そうです!」と答えました。私は聖書についてだれかと話せることにたいへん興奮しました。
『世界にはどうしてこんなに沢山の問題があるんですか』と,私はその男の人に尋ねました。その人はマタイ 24章3-13節を私に見せて,現在の世界の状態は,私たちが終わりの時に住んでいることを示す「しるし」の一部であることを説明しました。それから,神の王国が間もなく人類に平和と安全をもたらし,死や老齢や病気をなくすことを話してくれました。(啓示 21:3,4)何という美しい将来を描いて見せてくれたのでしょう! その人は,その晩の7時に私と聖書研究を始める約束をしました。
家に帰ると,私はすぐに学んだばかりのすばらしい事柄をスティーブに話しました。しかしスティーブは私のようには興奮しませんでした。それどころか,エホバの証人は反キリストで,新しいクリスチャンを食い物にしていると言いました。そして彼らと話してはいけないと言いました。私はスティーブを信じていたので,エホバの証人が尋ねて来る時には家にいないようにしました。
それから数週間たって私はスティーブの子供を妊娠しました。スティーブは子供をほしがっていなかったので,出て行ってしまいました。それで私はまた未婚で,独りぼっちで,妊娠した状態になりました。再び妊娠と出産を経験したくなかったので,私は妊娠4か月のころに地元の病院に入院し,中絶手術を受けました。それは肉体的にも感情的にも痛みを伴うものでした。医師は陣痛を誘発し,子供が出て来るとそれをガラス瓶に入れて一晩私の前に置いておきました。その子は男の子でした。私は一体何をしたのでしょうか。生きる権利を息子から奪い去る権利は私にはなかったのに。今に至るまで私はその考えに付きまとわれています。
それから数か月後の1971年の8月に,私は偶然,サンフランシスコのあるヒッピーの生活共同体で一緒に生活したことのある女性に行き会いました。その人はエホバの証人になっていたのです。二人の話は尽きませんでした。その人はエホバの証人の婦人を私に紹介してくれ,その婦人は私に聖書研究をするように勧めました。今度はすぐにその愛すべき婦人と聖書研究を始めました。その婦人は私にとって母親のような存在になりました。そのご夫妻は,聖書だけでなく,個人衛生や子供の世話,家事,買い物その他の実際的な事柄についてもよく教えてくれました。また幾らかの衣服や暖かい冬のコートも買ってくださいました。
私は自分が変化を遂げなければならないことを知っていました。ですから最初の研究を始める前に,(1日に3箱吸っていた)たばこをやめ,麻薬を一切断ちました。また性道徳に関しても,エホバのおきてに従うことを心の中で決意しました。夢や占星術や心霊術に関する本をすべて捨て,偶像も一つ残らず処分しました。そして進歩して,1972年の6月17日にエホバ神への献身をバプテスマによって象徴することができました。―コリント第一 6:9-11。
それから13年ほどたった現在も私は創造者に忠実に奉仕しています。娘は今16歳ですが,エホバの側に立場を取り,1983年3月12日にバプテスマを受けました。そして高校を卒業するとすぐに全時間の宣教に携わることを目標にしています。1975年の10月に私はあるエホバの証人と結婚しました。その証人は家族のりっぱな頭であり,愛情深い夫であり,3人の子供の愛情深い父親です。そして私は1982年2月1日以降,正規開拓者として毎月宣教に携わり,90時間を,その業にささげる喜びにあずかっています。
ついに私は幸せを見いだしたのです。―寄稿
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高校のころには私は強情でわがままな,手に負えない娘になり,家の者たちにひどく惨めな思いをさせていた
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生きる権利を息子から奪い去る権利は私にはなかった。今に至るまで私はその考えに付きまとわれている
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1982年以降,私は他の人々に聖書を教えることに毎月90時間をささげる喜びにあずかっている