ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目87 12/22 5–10ページ
  • 反逆の大司教

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 反逆の大司教
  • 目ざめよ! 1987
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 教会は「もはやカトリックではない」
  • 反逆はどのように始まったか
  • 反逆の程度
  • 教会の建物をめぐる闘争
  • 教会の脇腹の傷
  • 新たな分裂
    目ざめよ! 1990
  • 『深く憂慮』されているのはなぜか
    目ざめよ! 1990
  • なぜ分裂するのか
    目ざめよ! 1990
  • 大聖堂に生じているきれつ
    目ざめよ! 1987
もっと見る
目ざめよ! 1987
目87 12/22 5–10ページ

反逆の大司教

フランス人のあるジャーナリストは,ローマで急いでタクシーを拾い,ロスピリオシ-パラビチニ邸へ行くようにと言いました。タクシーの運転手は,分かっていると言わんばかりに,「スィー,イル・ベスコーボ・リベレ(反逆司教)」の所ですね,と言いました。

ローマで名のある人は皆,数日の間,興奮していました。ローマで指導的な貴族の出であるエルビナ・パラビチニ王女が,異論を持つフランスのカトリック大司教,マルセル・ルフェーブルを支援することに同意し,半ば私的な記者会見への数百枚の招待状を送ることさえして,同大司教の見解をローマで公表できるようにしたのです。これにはバチカン当局も大いに憤慨しました。同王女は自分の父祖に当たる法王や幾人かの枢機卿を泊めたことのある私邸をルフェーブルに自由に使わせていました。しかも,教皇クレメンス9世の用いた大きな天蓋の下の謁見室でルフェーブルに記者会見を許すということで,余計に事は荒立ちました。

パラビチニ王女は,バチカンの高僧たちからの多大の圧力を受けましたが,自分の決定を変えませんでした。ローマの新聞は,こうしたことを「バチカンの[まさに]戸口での挑発事件」とみなし,その会合の一部始終を報道しました。言うまでもなく,タクシーの運転手は地元の最新のニュースに通じていたのです。

教会は「もはやカトリックではない」

パラビチニ王女は,カトリック教会は分裂しており,そのような「深刻な諸問題は,どっちつかずの態度で沈黙していたのではどうにもならず,勇気をもって明快に語らなければ解決されない」と述べ,自分の決定について弁明しました。そして,ルフェーブル大司教に自分の見解を述べる機会を提供することにより,「カトリック界に平和と安らかさ」が促進されるものと期待しました。大司教は自分の女主人に感謝し,「伝統的な信仰を守って」きたことで彼女とその家の者たちをほめ,祝福しました。

その会合には1,000人ほどの人が出席しました。新聞記者やテレビのジャーナリストも大勢来ていましたが,ほとんどは数か国からやって来た伝統主義カトリック教徒でした。大司教は,第二バチカン公会議(1962-1965年)以来の公式の教会の方針に全く賛成できないと述べました。フランスのル・モンド紙は,「[ルフェーブル大司教は]ほぼ2時間にわたって,『もはやカトリックではない』新しい教会に対する不満を公然と述べた。『秘跡の集産主義化』や『共産主義に傾く枢機卿』は言うに及ばず,公教要理,神学校,ミサ,世界教会主義など,何一つ容赦しなかった」と論評しました。

ルフェーブル大司教は結論としてこう述べました。「事態は悲劇的である。教会はカトリックではない方向へ,私たちの宗教を滅ぼす方向へ向かっている。私は従うべきだろうか,それともこのままカトリック教徒,ローマ・カトリック教徒,生涯にわたるカトリック教徒であるべきだろうか。私は神の前で自分の選択をした。私はプロテスタントになって死にたいとは思わない」。

ローマ教区でパウロ6世の代理をしていたポレッティ枢機卿は,その会議をローマで組織した「モンシニョール・ルフェーブルは,信仰とカトリック教会,およびその神聖な主イエスに逆らったことになる。[また]法王の辛抱強さをよいことに,教皇教区で面倒を引き起こそうとし,個人として法王を怒らせた」と述べました。

反逆はどのように始まったか

その会議は1977年6月6日に行なわれました。しかし,早くも1965年,第二バチカン公会議が終わる前に,カトリック教会内では「離教」のことがうわさされていました。第二バチカン公会議を機に伝統的なカトリックに背く改革が行なわれようとしている,と感じた保守的なカトリック教徒は少なくありませんでした。

以前はセネガルにおいてダカールの大司教,またフランス中南部のチュールの司教だった,ルフェーブル大司教は,第二バチカン公会議に参加しました。ルフェーブルは1962年にフランスの「聖霊神父」修道会の総長に選ばれましたが,第二バチカン公会議による方針をカトリック教会内に適用してゆくことに関して意見の対立が激しくなり,1968年にその立場を辞任しました。

1969年,スイスのあるカトリック司教は,その異論を持つ大司教がスイスのフリブール教区に伝統主義者の神学校を開設することを許可しました。翌年,ルフェーブル大司教は,自ら「聖ピウス10世聖職者会」と呼ぶ組織を創設し,スイス,バレー州のエコーンに神学校を開設しました。これはシオンのカトリック司教の承認を得て行なわれました。

この神学校は,初めは枝葉の事柄で意見を異にしていたにすぎません。それでも,神学生たちが実際に黒い司祭平服を着て,しっかりした伝統主義の教育を受けたことは言うまでもありません。法王パウロ6世は,改定どおり,それぞれの土地の日常語でミサをささげるよう布告していたのに,ミサはラテン語でささげられました。しかし,その神学校が公式の教会当局から容認されていたのは,当時,ルフェーブル大司教が志願者たちを独自に司祭として任命する目的で訓練していたわけではなかったからです。同大司教は,自ら伝統的カトリックの最後に残った二つのとりでと考えた場所,つまりローマにあるラトラン司教大学とスイスのフリブール大学で学生たちがその教育を終えられればよいと考えていました。

実際に問題が始まったのは,司祭志願者を訓練して自分が真のカトリックの伝統とみなすものを受け継がせる点ではそれら二つのカトリックの大学も当てにならない,とルフェーブル大司教が結論した時でした。同大司教は,エコーン神学校で訓練を受けた司祭志願者を自分で司祭として任命することにしたのです。さらに1974年には,第二バチカン公会議で決められた諸改革の大半に激しく反対する声明を発表し,事態は一層悪化しました。そのころエコーン神学校では,100人を超える学生が伝統主義を奉じる教授陣から訓練を受けていました。

1975年,バチカンはスイスの地元の司教を介して行動し,エコーン神学校の認可を取り消しました。それにもかかわらず,ルフェーブル大司教は引き続き,課程を終了した学生を新任の司祭としました。これに対して法王パウロ6世は1976年に同大司教を,ミサの執行,初聖体拝領の司式,秘跡の授与,および司教として司祭を任命することを含むすべての聖職に関して停職処分にしました。それでもエコーン神学校は存続したので,過激なカトリックの神学校が,法王よりもカトリック的と主張する非公認の司教によって任命された,過激な伝統主義のカトリック司祭を何十人も生み出すという,矛盾をはらんだ事態が生じました。

反逆の程度

フランスのこの大司教の反逆が,スイスのアルプスのふもとに隠された一神学校だけにかかわるものであったなら,取り立てて述べるほどのこともなかったでしょう。しかし,ルフェーブル大司教はたちまち,世界中のカトリック有力者たちの結集点になりました。作家のジェラール・ルクレールは,自著「1962-1986年のカトリック教会 ― 危機と復興」の中で,「伝統主義者の起こした論争は,取るに足りない少数派に見られる傾向とは違い,大勢の信者の感情を表わしている」と書いています。

ルフェーブル大司教は世界中の大勢の保守的なカトリック教徒から財政的支援を受けてきました。そのおかげで同大司教は,よく伝統主義カトリック教徒のいろいろなグループの招きに応じ,広く旅行しています。そして,多くの国で大聴衆に向かって第二バチカン公会議を批判し,トレント公会議もしくはピウス5世の典礼と呼ばれる,16世紀のトレントにおける公会議の布告にのっとったラテン語典礼に従ってミサをささげてきました。こうした伝統主義者の集会は,英国ロンドン北部のまだ開業していないスーパーマーケットのような,極めて異例の場所で開かれることがありました。

反逆の大司教はそのような多方面からの財政的支持を得て,フランス,イタリア,アルゼンチン,米国などに次々と,伝統主義のカトリック司祭を養成するための神学校を開設することができました。フランスのル・フィガロ紙は1987年2月に,260人の神学生がそれらの施設で訓練を受けていると報じました。ルフェーブル大司教は,アフリカを含め世界各地の出身者の中から年に合計40人ないし50人を司祭として任命してきました。

それら伝統主義の司祭たちの多くは,ルフェーブル大司教の「会」が南北アメリカ,ヨーロッパ,およびアフリカの18か国に設立した75の「小修道院」で働いています。それらの司祭たちは自国の保守派カトリック教徒のためにラテン語でミサを執り行なっています。

伝統主義者の礼拝は多くの場合,特別に設けられた礼拝堂で行なわれます。しかし,正規のカトリック教会の建物を自分たちの礼拝に使用する権利を獲得するため,正統的カトリックの位階制に闘いを挑むカトリック教徒右派が増えています。そのため多くの誠実なカトリック教徒にとっては非常に不安な事態になってきました。

教会の建物をめぐる闘争

法王パウロ6世が,日常語の使用をはじめとする種々の改革を含む新しいミサを始めた1969年以降も,カトリック教徒の伝統主義者たちは以前のラテン語典礼によるミサをひそかに行なってきました。フランスのパリでは何百人もの伝統主義者が,凱旋門の近くにあるワグラム・ホールに集まりました。当時は新しい典礼が義務として要求されていたので,地元のカトリック大司教は伝統主義者たちに教会を使わせなかったのです。

ついに1977年2月27日,伝統主義者たちは問題を自らの手で扱い,保守派のある司祭に率いられて,ラテン区にあるサン-ニコラス-デュ-シャルドネ教会を力ずくで占拠しました。正規のカトリック司祭たちと教区民は,自分たちの教会から追い出された格好になりました。数日後,彼らがその教会の中でミサを行なおうとした時,争いが起き,一人の司祭は病院に担ぎ込まれるはめになり,ほかの者たちは近くの司祭館に逃げ込みました。

10年後の現在,明け渡しを求める法廷命令が二度出されたにもかかわらず,サン-ニコラス-デュ-シャルドネ教会は伝統主義のカトリック教徒に占拠されたままになっています。毎週日曜日にそこで行なわれる5回にわたるラテン語のミサに,およそ5,000人があずかっています。礼拝はルフェーブル大司教がエコーンで任命した司祭によって行なわれ,当の「反逆の高位聖職者」は,伝統主義カトリック教徒の子供たちに堅信礼を施すため,定期的にこの教会へやって来ます。

サン-ニコラス-デュ-シャルドネ教会が伝統主義者たちに初めて占拠されてから数か月後,数百人の革新主義カトリック教徒は,この教会を強引に占拠したことに対する抗議集会を開きました。ソルボンヌ大学やパリのカトリック研究所に属する司祭やカトリックの教授が参加していました。その時突然,伝統主義カトリック教徒の若者のグループが講堂になだれ込み,鉄パイプや催涙弾を使って集会を解散させました。数人が負傷し,一人のカトリックの教授は病院に運ばれました。

フランス東部,ストラスブールのカトリック司教は,伝統主義者たちがラテン語のミサを行なうために占拠していたある教会に入ろうとした時,嫌がらせを受けました。パリでは,伝統主義者の“特別奇襲隊”があちこちのカトリック教会に押し入って礼拝を中断させました。彼らがそうしたのは,ミサの時の福音書の朗読に女性が用いられていたとか,プロテスタントの牧師やギリシャ正教の聖務者が世界教会運動の礼拝のために出席していたとかいったことが理由でした。

1987年3月,伝統主義者と正規のカトリック教徒は,パリのすぐ西のポール-マルリで危うく殴り合いを始めそうになり,警察が間に入らなければなりませんでした。それはどちらがサン・ルイのカトリック教会を占有するかをめぐる闘争でした。翌月,伝統主義者たちは復活祭直前の日曜日にラテン語のミサを行なうため,頑丈にふさがれた扉を破城槌を使って破り,教会の中に入りました。英国のロンドン・タイムズ紙は,その事件について「サン・ルイの戦い ― フランスのカトリック反徒,異議ある教会へ引き返す」という見出しを掲げて報じました。ラテン語のミサは,反逆のルフェーブル大司教が任命した司祭によってその人たちのためにささげられました。

教会の脇腹の傷

カトリック作家のジェラール・ルクレールは,「[バチカン]公会議の時から20年以上たったというのに,伝統主義者の反対は,いまだに治らない教会の脇腹の傷のようだ」と書いています。また,ジャン・ピュイヨとパトリース・バン・エールセルは共著「カトリック教会の内情の推移」の中で次のように述べています。「もしローマがモンシニョール・ルフェーブルの行動にそれほどまでに動揺するのであれば,同師は根本的な問題を提起しているのである。ルフェーブルの反逆者仲間の活動を非難せざるを得ないと感じた,フリブールおよびジュネーブ教区のマミ司教は,『彼に従った信者の心痛は根拠のないものではない。教会の千年来の教理も大変な危機にひんしている』と率直に語った」。

そのようなわけで,ローマの豪勢な貴族の邸宅に住む人であれ,世界中の何億というつましい住居で暮らす人々であれ,多くの誠実なカトリック教徒はすっかり途方に暮れています。それらの人たちは,「わたしの教会はなぜ分裂しているのだろう」と考えています。その疑問の答えと,それについて一部のカトリック教徒の行なっている事柄が次に取り上げられます。

[6ページの図版]

マルセル・ルフェーブル大司教

[クレジット]

UPI/Bettmann Newsphotos

[7ページの図版]

エコーン神学校。アルプス山脈のスイス側にある,反逆の大司教が創設した伝統主義者の神学校

[9ページの図版]

パリのサン-ニコラス-デュ-シャルドネ教会。ここ10年間,伝統主義カトリック教徒によって不法占拠されている

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする