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目ざめよ! 1989
目89 2/22 12–16ページ

私は“万に一つの宝”を見いだした

その1969年のニューヨーク・ウッドストック音楽祭は,私の音楽歴における最も感動的な時となりました。見渡すかぎり人の海が広がり,恐ろしいほどでした。

私は,その当時最もよく知られていた音楽グループの一つ,スライ・アンド・ザ・ファミリー・ストーンでバス・ギターと歌を受け持っていました。50万人の喉からは,アンコールを求める怒濤のような大喝采が発せられました。

それはまさに感動的な瞬間でしたが,今となっては,私の人生における最も記念すべき出来事などでは決してありません。私はまれにみる宝,万に一つしかない物を見いだしたのです。しかし,そのことをお話しする前に,私の人生を形造った事柄について説明させていただきます。

演奏家になる

私は1946年,テキサス州ボーモントに住む音楽一家に生まれました。私は一人息子でした。母は教会聖歌隊のピアニストで,父はジャズギターの演奏家でした。その後まもなく家族はカリフォルニア州オークランドに引っ越しましたが,私はそこで5歳の時にタップダンスを始めました。2年後,幼年時代の私の面倒を見てくれた祖母の手ほどきで,ピアノを学びました。

11歳になった時,父からギターとアンプをもらったので,私はこの新しい楽器を夢中になって学び始めました。やがて,ドラム,クラリネット,サクソホーンを学ぶようになり,13歳でザ・ファイブ・リフスという名のプロのロックン・ロールのバンドを持ち,15歳でザ・デル・グラハム・トリオのメンバーとしてナイトクラブで演奏し始めました。母のピアノ,私のリードギター,そしてドラムから成るトリオでした。

母と私は後にデュエットを組みました。欠けたドラムを補うために,私はギターの低音弦を強く打ったり(サンピング)はじいたり(プラッキング)して,リズムを強調しました。こうして私独特の,低音弦のサンピング-アンド-プラッキング奏法を開発しました。常連の後援者である一人の女性はこれに深い感銘を受け,ディスク・ジョッキー,スライ・ストーンに電話して私の演奏を聞くよう勧めたため,1966年には,7人から成るグループでバス・ギターを演奏するよう依頼されました。このグループが,スライ・アンド・ザ・ストーン・ファミリーとして知られるようになったのです。

私たちのレコード,「ダンス・トゥー・ザ・ミュージック」は世界中でヒットし,私たちは当時で最も人気の高い黒人グループとなりました。その後も休みなく,「ホット・ファン・イン・ザ・サマータイム」,「エブリデイ・ピープル」,「サンキュー・フォア・レッティング・ミー・ビー・マイセルフ・アゲイン」などのヒット曲が出ました。そして迎えることになったのが,ウッドストック音楽祭です。私は国際的に有名な他の演奏家たちと並んで演奏しました。その後,英国のワイト島では30万人,西ドイツの音楽祭では35万人の聴衆の前で演奏しました。

1971年には,殺してやる,と脅迫されました。ロサンゼルス・コロシアムでの演奏中に音楽と聴衆の叫びが盛り上がったなら,その時に撃つ,と告げられたのです。私は怖くなりました。ところが電子機器の調子が悪くなり,コンサートの主催者がやって来て興行が中止されました。私の命を救うために神がどういうわけか介入してくださったように感じました。私はうろたえてスタジアムから逃げ去り,ホテルの部屋に戻ると急いで荷物をまとめ,その都市を離れました。

グラハム・セントラル・ステーションという自分の音楽グループを結成した時も,この恐ろしい経験のことが気にかかっていました。このグループで吹き込んだ私の二つ目のアルバムの表紙には,「神によって製作される」という意味の言葉が印刷されました。神を冒涜する意図など毛頭ありませんでした。むしろその言葉は,神によって救われたという私の気持ちを反映するものでした。

人生の転換点

1973年,私は国際線のスチュワーデス,ティナに会いました。彼女が演奏に備えて私の髪を編んでいる間,私は神に対する信仰についてよく話しました。ティナの母親がエホバの証人と聖書を研究し始めたのは,このころです。

ある日ティナは,母親が目に涙を浮かべているのを見ました。オークランド・コロシアムで開かれるエホバの証人の地域大会で自分が受けるバプテスマに,子供たちのだれも立ち会ってくれないので泣いていたのです。ティナは,家族の立ち会いがそんなに大切なら,金曜日のバプテスマには出席するという約束をしました。

1974年7月のその日,ティナは自分の見聞きしたことに大きな感銘を受け,その後私に電話をよこし,言葉巧みに,日曜日のプログラムに出席することを勧めようとしました。しかし私は前の晩のレコーディングでひどく疲れていました。日曜日にもティナから電話があり,出席するよう勧められました。ティナがどうして感銘を受けたのか知りたくて,私は出かけて行きました。

私が大会の駐車券を持っていなかったので,警官は,あなたは駐車場に入れないと告げてから,「とにかく,あんなつまらないもの,聞く必要はないね」と言いました。私は少し気をくじかれて車で帰りましたが,また考え直し,向きを変えて再び会場に向かいました。コロシアムに着いたのは,最後の話が終わるわずか数分前でした。

人生の大半を演奏家として過ごしてきたので,私は聴衆の感じが分かります。他の催し物で何回もオークランド・コロシアムに来ましたが,今度はこれまで見てきたものと違っていました。人種も社会的背景も異なる6万人の人々が,平和のうちに交わっていたのです。その聴衆の“感じ”だけで,私はこれが何か重要なもの,まさに“万に一つの”物であることを確信しました。

私がコロシアムを出る時,十代の若い少女が,外見から私が証人でないことをすぐに見分けて近づき,「今ある命がすべてですか」という本を1冊手渡してくれました。それはまさに私が必要としていたものでした。車に戻って24ページを開くと,白鳥,カメ,木,そして数人の人の出ているさし絵が目に入ってきました。白鳥は80年,カメは150年,そして木は幾千年も生きられるのに「人間の寿命は短い ― 納得のゆくこと?」と,その本は問いかけていました。このさし絵に含まれている音信から,私はすぐに強い衝撃を受けました。

その後ティナにたくさん質問をしましたが,聖書の知識に関しては,ティナも私もどんぐりの背くらべでした。そこで私たちは,ティナの母親と研究していた婦人を訪問することにしました。その人の家を出る時,私はティナに向かってこう言いました。「あの人は猫をかぶっているんだ。人間はあんなに立派になれるものじゃない! いいかい,来週はぼろを出すから!」しかし,来る週も来る週もその婦人は少しも態度を変えることなく,落ち着いて聖書を示し,こちらのすべての質問に答えてくれました。

ティナと私は「とこしえの命に導く真理」という本を用いて定期的な聖書研究を始めましたが,間もなくグループと一緒に巡業に出る時が来ました。米国中の多くの都市を巡ることになっていましたが,その都市の各々にある地元の会衆に電話をかけ,「真理」の本の続きの章を研究してもらうようだれかに依頼することを勧められました。

私は西海岸から東海岸へ,また北部および中西部からテキサスや南部の州へと諸会衆を訪問しました。私の聖書研究を司会してくれた人々は,人種も違えば,社会経済的な背景も異なっていましたが,どこに行っても音信は同じでした。私の見いだしたものが,オークランド湾周辺の単なる地方的現象ではなく,霊的調和のうちに真実に結び合わされた全国的規模の組織であったことに,私は深い感動を覚えました。

人生の全き変化

アメリカ旅行を終えてヨーロッパを巡業した時も,ヨーロッパの証人たちと研究を続けました。パリに着いてからティナに電話をかけ,結婚を申し込みました。数週間後の1975年2月,私たちはネバダ州で結婚しました。結婚して五日しかたっていないのに,またもや米国の巡業に出ましたが,今度はティナも一緒でした。

ニューヨーク市のブルックリンで,エホバの証人の世界本部を訪問しました。服装を黒で統一し,ズボンの脚の部分とジャケットの背の部分に,赤と銀の,ぴかぴか光る龍をあしらった奇妙な出で立ちでした。思い出すたびに今でも赤面します。しかし,私たちは親切な待遇を受け,私たちの服装についてとやかく言う人はだれもいませんでした。

ティナと私は1975年7月のオークランドの地域大会でバプテスマを受けました。私たちがその同じ場所で開かれた大会に初めて足を踏み入れた時からちょうど1年たっていました。ティナの二人の姉妹,デニスとシェリア,それに私の母が同じ大会でバプテスマを受けたので,この大会はひときわ喜ばしいものとなりました。彼らは皆,私たちの少し後に研究を始めていたのです。数年後には私の祖母も82歳という老齢でバプテスマを受けました。

私が学んでいた事柄は,私のグループが製作した幾つかのアルバムのジャケットを見れば明らかです。「ミラー」(鏡)と題する1976年版のアルバムのジャケットには,私とバンドの他のメンバーの写真を載せました。表側にいる私たちは,長髪でサングラスをかけ,流行の服を着ていますが,裏側に描かれている私たちは,さっぱりした短い髪の,慎みある服装をした鏡像です。

「フォレバー」(永遠に)という題の歌がありました。それは復活した父に会えるという私の希望にささげられた歌です。その時,命は私たちの前途に永遠に存在するでしょう。ある曲の歌詞には,新しくバプテスマを受けた証人としての私の気持ちが反映されています。

他の人々を援助する

私たちには信仰を分かち合うたくさんの機会がありました。一人のオルガン奏者とドラマーがこたえ応じ,エホバに命を献げました。そのドラマーは今,ウエスト・ハリウッド会衆の長老であり,正規開拓をしています。

1975年の巡業中にはそのオルガン奏者を連れて,ジョージア州アトランタの,裕福な白人ばかりの区域で証言しました。彼が証言するのは,その時が最初でした。私たちが家から家を訪問していたところ,警察の車が鋭い音と共に急停車し,警察官が飛び出してきて,いったいそこで何をしているのかと詰問しました。ちょうどその時,警察のヘリコプターが頭上に現われ,私たちのわずか数メートル上空を旋回しました。警察は,“不審な者”が近所をうろついているという通報を受けたらしいのです。しかし,エホバの証人としての任務について説明したところ,警察は私たちを残して立ち去りました。そのオルガン奏者にとっては,証言の業のとんだ始まりとなりました。

バプテスマ後に行なわれたこの巡業中,私たちは4.6㍍のスクリーンを用いた,巨大な視聴覚装置を作りました。それがショーの呼び物でした。そのために2台の大型セミトレーラー・トラックと2台の観光バスが必要でした。視聴覚に訴えるこのショーでは,世界情勢の恐ろしさを描き出してから,神の王国による解決策を指し示しました。映されるスライドには,オークランド・コロシアムで開かれた大会と,私たちのバプテスマの写真が含まれていました。このショーは音楽に合わせて組まれ,歌の合間に私が説明を加えました。

ある巡業の際,フロリダ州ハリウッドで野外奉仕に出て,群れの司会をしていた方から戸別訪問の業の割り当てを受けていました。その時突然,近くの家で私のレコードをかけているのが聞こえてきました。私はその家のドアをノックしました。麻薬でいい気分になっていた3人の若者は,自分たちが聞いていた歌の歌い手が戸口に立っているのを見て,唖然としました。その若者たちのうち二人が証人になった,と後で聞かされました。

1979年にはロサンゼルスに移り,プールと,市内を一望できる庭園のついた大きな家に入りました。その横に,24トラックの録音スタジオを建てました。そこで録音した最初のレコードが,「ワン・イ・ナ・ミリオン・ユー」(万に一人のあなた)で,100万枚以上売れました。程なくして奉仕の僕として仕える特権をいただき,1982年には,娘のラティアが生まれるちょうど1週間前に,長老に任命されました。

ある日曜日,私がものみの塔研究を司会していた時,一人の若いハワイ人の男性が王国会館に入って来て,驚いた様子で私を見つめました。長髪でポップスの演奏家だった1975年当時の私をハワイで見ていたため,慎み深い服装をして,ものみの塔研究を司会している私を見てショックを受けたのです。彼がロサンゼルスに移って来たのは,音楽の世界で名を成すためでしたが,私と研究することに同意してくれました。今は私たちの会衆で正規開拓者として奉仕しています。

生活様式を簡素にする

1982年に開拓者として全時間奉仕を始めて以来,私たちは最高の幸福を味わってきました。ティナも私も心からそう言うことができます。私たちの霊的成長の面でさらに改善できる点は,生活様式を簡素にするということでした。有効に管理するため庭師や家政婦の世話が必要な大きな家で,私たちが家にいる時間の90%を過ごしていたのは,わずかに二部屋でした。リンカーン・タウン・カー,1955年型サンダーバード,コード,メルセデス・ベンツ,7.6㍍のモーターホーム,バン,それに数台のオートバイを十分に使いこなすことはとてもできませんでした。それで1985年の地域大会後,家とほとんどの自動車を売り払いました。

今は簡素な集合住宅に住んでいますが,開拓奉仕をするティナにとってはずっと維持しやすい家です。私はまだ演奏家としての仕事を多少していますが,今の私の本当の幸福は,開拓者として奉仕すること,それから,かわいらしい娘が霊的に成長するのを見ることです。娘は幼いのですが,すでに目標を堅く定めて,エホバへの献身を象徴的に表明する時のことをいつも話します。

私が願い求めているもう一つの祝福は,復活した母に会い,正規開拓者として忠実を保って亡くなった1987年4月以後に生じた数々の出来事について母に話すことです。そうです,今の私は,何十万人もの音楽ファンを楽しませて感激を味わう代わりに,詩編作者の次の言葉に従うため最善を尽くすことから本当の満足を得ています。「あなた方はヤハを賛美せよ! エホバに新しい歌を,忠節な者たちの会衆でその賛美を歌え」。(詩編 149:1)― ラリー・グラハムの語った経験。

[13ページの図版]

このウッドストック音楽祭では,50万人を前にして演奏した

[クレジット]

John Dominis, LIFE MAGAZINE © Time Inc.

[15ページの図版]

妻と子供と共に

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