ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目89 7/8 21–24ページ
  • 第13部 ― 西暦476年以降 ― 暗闇から出る“聖なる”もの

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 第13部 ― 西暦476年以降 ― 暗闇から出る“聖なる”もの
  • 目ざめよ! 1989
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 一致の欠如,今も変わらず
  • “子供”が生まれる
  • 西におけるゲルマン人の影響
  • 一方,東では
  • 火の海のように
  • キリスト教国は真にキリストの領域ですか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1966
  • キリスト教世界はどのようにこの世の一部となったか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1993
  • 背教 ― 神に通ずる道がふさがれる
    神を探求する人類の歩み
  • これほど多くの宗教団体がみなクリスチャンととなえるのはなぜですか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1983
もっと見る
目ざめよ! 1989
目89 7/8 21–24ページ

過去の歩みに照らして見た宗教の将来

第13部 ― 西暦476年以降 ― 暗闇から出る“聖なる”もの

「暗闇で犯される罪も,天からは火の海のように見える」。―中国のことわざ

ソ連の教会は1988年の4月,国家と教会の関係および国家と教会員の関係において国家が犯した過ちは正されるべきであるとのミハイル・ゴルバチョフ書記長の公式の声明を聞いて,大いに喜びました。

ローマ・カトリックの法王ヨハネ・パウロ2世が,「キリストの望んでおられた,また教会の基本的特色であるあの完全な結合の達成に対する心からの願いを表わすものとして,1,000年の齢に達した姉妹教会」にあいさつを送った時にも,もう一つの不和の関係が解消される方向に向かうかに思えました。しかし,そもそも「姉妹教会」間の不和はどのようにして始まったのでしょうか。

一致の欠如,今も変わらず

4世紀初頭,コンスタンティヌス大帝はローマ帝国の皇帝になってから,ローマにあった首都を,ギリシャの都市でボスポラス海峡沿岸にあるビザンティウムに移しました。その名もコンスタンティノープルと改められ,現在ではトルコのイスタンブールとして知られています。その遷都の意図は,分割の恐れがあった帝国を統合することにありました。実際,早くも2世紀の後半には,「全くおぼろげなものではあったが,帝国を分割する青写真の概略がすでに描かれていた」と,新ブリタニカ百科事典は述べています。

キリスト教は同帝国の西部にも広まりましたが,東部ではそれ以上に早く容易に広まりました。そこでコンスタンティヌスは,一つの普遍的な(カトリックの)宗教に結合力があることを理解しました。しかし,同帝国の根幹が分裂していたように,その宗教も分裂していました。東方の教会はローマを中心とする教会よりも保守的で,ローマが提唱した神学上の新機軸に抵抗しました。「コリンズ世界歴史地図」は,「12世紀になるまで,この二教会の間には,幾多の政治的,神学的な論争があった」と述べています。

そうした神学的論争の一つは,非聖書的な三位一体の教理の進展を助長したニケア信条に関係したものでした。この信条は,教会が召集した最初の三つの全体的公会議(西暦325年のニケア,西暦381年のコンスタンティノープル,西暦431年のエフェソス)で形作られた時,「父から出る……聖霊」に言及していましたが,6世紀に開かれたある公会議で西方教会がその部分を改変し,「父,そして,み子から出る」と読むようにしました。このフイリオクエ(「そして,み子」を意味するラテン語)の問題はそれら“クリスチャンの”姉妹関係にある教会間の論争点でしたが,今もその論争は続いています。

西暦476年に西の帝国にピリオドが打たれ,暗黒時代が始まるに及んで,不一致は一層明らかになりました。キリスト教に関して言えば,暗黒時代はまさしく知的暗闇と無知の時代であり,キリスト教の福音の光はしばらくの間キリスト教世界の暗闇に覆われました。

宗教上の暗闇は一致に資するものではありません。元カンタベリー主教聖堂名誉参事会員,ハーバート・ウォッダムズは,「キリスト教界の様々な派が絶えず一致を求めていたが,それは全く達成されなかった。全面的な一致があってそれが後に砕かれたということではない」と述べてから,「キリスト教世界がかつては一致した一つの偉大な教会であったという考えは,想像の産物である」と付け加えました。

“子供”が生まれる

西暦800年のクリスマスの日に生まれた“子供”は,長ずるに及んで神聖なものと呼ばれました。それは,教皇レオ3世が東方教会との関係を絶ち,フランク人の王シャルルマーニュを皇帝に就任させた後に回復された西の帝国のことです。西の帝国は短期間中断したものの,西暦962年に復活し,後に神聖ローマ帝国という一段と仰々しい称号で知られるようになりました。

事実からすると,ローマ帝国という名は的外れでした。その領土の大半は,現在のドイツ,オーストリア,チェコスロバキアの西部,スイス,フランス東部,北海沿岸の低地域などであり,イタリアの国外にありました。ドイツ人の土地とドイツ人の支配者たちが優勢になったので,その正式な名称も,「ドイツ民族の神聖ローマ帝国」に変えられました。

この帝国では宗教と政治が混ざり合っていました。「コリアの百科事典」は,「世界には,普遍的教会と調和して活動する単一の政治的首長が存在すべきであり,宗教と政治はそれぞれ神から出た独自の活動領域と権威を有するという観念があった」と説明しています。しかし,境界線が常に明確であったわけではないので種々の論争が生じ,特に11世紀の半ばから13世紀半ばにかけて,教会と国家はヨーロッパの指導権をめぐって争いました。宗教が政治に介入するのは利他的なことで正当化できると考えた人もいましたが,著述家のウォッダムズが認めているように,「教皇の権力欲が事態の進展において重要な役目を果たしたことに,ほとんど疑問の余地はない」のです。

神聖ローマ帝国はその最後の150年間に衰退し,平凡な皇帝の不安定な支配のもとに諸国家がただ集まっているというだけの状態になりました。フランスの作家ボルテールは歴史のこの時期の事情を最も適切に言い表わし,この国は「神聖でも,ローマでも,帝国でもない」と語りました。結局1806年に“神聖な子供”は年老いて神聖の名に値するものが何もないまま,死にました。1871年には第二帝国として復活しましたが,1918年,50年もたたないうちに崩壊しました。1933年にはアドルフ・ヒトラーの第三帝国が全ヨーロッパでドイツ式の行進を始めましたが,それも不名誉な終わりを迎えたに過ぎず,1945年にベルリンは陥落しました。

西におけるゲルマン人の影響

ドイツ語による参考文献,「メイヤーの図解世界史」は「中世ヨーロッパを支えた3本の柱として……ローマ後期の鋳貨という古典的な遺物を受け継いだこと,キリスト教,さらにはゲルマン民族が自分たちの先祖から引き継いだ伝統」を挙げています。ドイツの作家エミル・ナックはその点を確証し,「古代ゲルマン人の年ごとの祭りは,しばしばキリスト教の祝日の形で存続した。それは教会が,教皇グレゴリウス1世の忠告に従い,多くの異教の祭りをキリスト教の祭りに変えたためである」と述べています。

そうした宗教的な祭りを守ったといっても,ゲルマン人は深い宗教的意識を持っていたわけではありません。ゲルマン人の宗教に関する権威であった故アンドレアス・ホイスラーは,彼らの宗教を,「禁止事項はほとんどなく,神話の正統性を含め,難しいことは何一つ要求しない宗教である」と描写しています。ホイスラーは,「もし人が犠牲をささげ,神殿の税を支払い,聖なる所に対する不敬を示さず,神々を嘲笑する言葉を書かなければ,その人は敬虔な人とみなされた」と述べ,「それは宗教的熱意からは程遠いものだった。……ゲルマン人の理想主義はその宗教には見られなかった」と結んでいます。

古代のゲルマン人は神々を信じていましたが,実際には神々よりもなお強い力,神々を創造した力が存在すると考えていました。それは「運命の力」であった,と作家のナックは説明しています。ナックによると,その力は「犠牲や祈りに左右されない」ものです。それにもかかわらず,運命は「盲目的な,気まぐれなもの」とはみなされませんでした。運命の力は自然法則と一致して働くからです。したがって,人間は「犠牲者ではなく,自由な行為者」とみなされました。

ゲルマン人の宗教は自然を源としていました。多くの場合,犠牲は野外で,林や森の中でささげられました。ゲルマン人の神話には,神々が日々裁きを行なう,イグドラシルと呼ばれる,宇宙に広がる木にまつわるものがあります。宗教百科事典はそれをこのように説明しています。「[それは]空にそびえ,その枝は全世界に広がっている。……木を象徴に用いる方法は,……他の伝説にも反映されていて,例えば,古代バビロニアの場合は,宇宙に広がるキスカヌという木が聖なる場所に生えている。……古代インドの場合,宇宙は逆さになった木によって象徴されている。……[だが]イグドラシルの思想には,ユダヤ-キリスト教の要素を示す証拠が全くない」。

この背景を考えてみると,ゲルマン人の宗教の影響を強く受けてきた国々の人々がとかく運命論的な考えを持ち,さほど宗教心がなく,『自然がわたしの神だ』とよく言うのも不思議ではありません。また,ゲルマン人の宗教がキリスト教世界に持ち込んだ異教の習慣の中に,自然を中心としたものが多いのもうなずけます。クリスマスの習慣となっている,光やヤドリギを用いること,クリスマスの大薪を燃やすこと,クリスマス・ツリーの飾りつけなどは,ほんの数例に過ぎません。

一方,東では

東方教会はいつも西方教会と反目していましたが,画像(イコン)破壊者に関する論争の例に示されているように,東方教会そのものの内部にも平和はありませんでした。イコンとは,西方教会によく見られるような立体的な彫像とは異なり,レリーフを含め,平面に描かれた宗教的な像または絵のことです。イコンは一般に,キリストやマリアや“聖人”を描いたもので,東方で非常に流布したため,ベーツ大学のジョン・S・ストロングによると,「イコンが示している人物の直接的な反映また印象とみなされる[ようになり],……それゆえに,神聖な力と奇跡を起こす力に満ちるものと考えられた」ということです。それでも,8世紀の初めにビザンティン帝国のレオ3世はイコンの使用を禁じました。論争は西暦843年まで最終的な決着を見ませんでしたが,その年以降,東方教会ではイコンの使用が認められています。

東方の不一致に関する別の例はエジプトに由来しています。エジプト人のカトリック教徒はコプト語を話しましたが,ギリシャ語を話す人もおり,この二つの言語集団の間で,キリストの本性に関する意見の不一致がありました。ビザンティンの権威筋は認めようとしなかったものの,この不一致から,事実上二つの別個の教会が存在するようになりました。その間ずっと,それぞれの陣営は,アレクサンドリアの総主教の地位に自分たちの司教を送り込むため,あれこれと策を弄しました。

今でも東方教会は分裂しています。例えば,東方帰一教会として知られる東方教会の一派がローマ法王の支配権を認めているかと思えば,東方正教会および,いわゆる正教会系の小教派はそれを認めていません。

火の海のように

神聖でもなく,ローマともほとんど関係のない非帝国が終わりを告げるずっと前に,「他のキリスト教徒に対するキリスト教徒の憎しみという遺物が,東方のキリスト教徒の心の中に深く植え込まれていた」と,英国国教会の教会員であるウォッダムズは述べています。確かに,“クリスチャン”が“クリスチャン”を憎むという罪は,たとえ暗闇の中で犯されるとしても,天で見過ごされることはありません。むしろ,火の海のように明白なものなのです。

さらに,キリスト教世界の分裂した家の罪は,地上でも見過ごされませんでした。例えば,「旅行を通して,また自分の親しい人たちを通してキリスト教について多くのことを知った」西暦7世紀の著名なアラブ人は,「キリスト教徒の間に論争があることに気づき」不快に思った,と僧職者のウォッダムズは語っています。この人は,一致の欠けたキリスト教世界が提供する道よりも良い道を探し求めました。その道は見つかったでしょうか。1989年現在,世界人口のまる17%がこの人の主張を擁護しています。その人とはだれですか。またその人は,「神のご意志に従うこと」についてどう考えたのでしょうか。その答えは次号の記事から得られます。

[24ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ローマ帝国の倒壊(西暦476年)に伴ってキリスト教世界は分裂し,競い合う6人の主教や司教のもとに置かれた。ローマ,コンスタンティノープル,アンティオキア,アレクサンドリア,エルサレム,サラミス(キプロス)がその座であった

ローマ

コンスタンティノープル

アンティオキア

サラミス

エルサレム

アレクサンドリア

[23ページの図版]

イエスとマリアを描いたイコン(宗教的な像)

[クレジット]

Pictorial Archive (Near Eastern History) Est.

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする