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目ざめよ! 1990
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聖書の見方

スポーツ競技における祈り ― 神は聴いておられるか

競技場は熱気に包まれています。何千人ものファンが競技場に押し寄せ,声を張り上げて自分の好きなチームに声援を送っています。選手たちはウォーミングアップを終え,試合開始のホイッスルが鳴ろうとしています。フィールドの片側では,選手たちが集まってうずくまり,その真ん中でキャプテンが,「神よ。我々のチームをどうか祝福してください。敵軍に対する勝利を我々にお授けください。我々をけがから守ってください。アーメン」と祈っています。大きな掛け声と共にハドル(作戦会議)が解散し,選手たちはフィールド上のそれぞれのポジションにつきます。ホイッスルが鳴ります。そしてアメリカン・フットボールという組織的な傷害行為が始まるのです。

様々なスポーツ競技において,競技中やその前後に,一人で祈ったりチームで祈ったりする光景は珍しくなくなってきました。しかし,神は聴いておられるのでしょうか。それとも,ある人が主張するように,これは祈りを侮べつする行為でしょうか。

「なんじの隣を打ち砕け」

世界中でほとんどのスポーツが,フィールド内においてもスタンド内においても暴力に毒されています。以前米国のプロフットボール選手だったある人はこのように書いています。「殺したり不具者にしたりするのが戦争の目的であるように,体をずたずたにするのがフットボールの目的であると言えるだろう」。その人はさらにこう語っています。「競争心を燃やし,組織的に損傷を負わせることは我々の生き方の肝要な部分である。フットボールは,『なんじの隣を打ち砕く』のがいかに刺激的でやりがいのあることかをわたしたちに示す……より明瞭に像を映し出す鏡の一つである」。

なんじの隣を打ち砕くのですか。イエスは,あなたの隣人を愛するようにと言われました。(マタイ 22:39)何が何でも勝つことを重視した今日のスポーツの試合に,愛の神が居合わせ,その試合を祝福するなど,考えも及ばないことです。―ヨハネ第一 4:16。

神はスポーツ競技の試合に出向かれるか

スポーツ競技での祈りを助長している一つの要因は,神は遍在する,つまり神はいかなる時でも,存在するあらゆる場所や事物の中に実際におられる,という宗教上の教えです。例えば,「神はフットボールの試合に行く」と題する本の中で,かつてスポーツチームの専属牧師をしていたL・H・ホリングズワースという僧職者は次のように語っています。「我々が神に関して抱くどんな公式の信条にも,神は遍在するという考えが含まれている。それはつまり,我々が非宗教的経験と呼ぶものの中に神は確かに居てくださる,という考えである。……換言すれば,神は教会に行き,なおかつフットボールの試合にも行かれるということである」。

しかし聖書は,神が遍在するとは教えていません。クリスチャンの使徒パウロは,「キリストは……天そのものに入られたのであり,今やわたしたちのために神ご自身の前に出てくださるのです」と書きました。(ヘブライ 9:24)この節は二つの重要な点に気づかせてくれます。それは,神が霊者であられることと,天という定まった住まいを持っておられるということです。(列王第一 8:49。ヨハネ 4:24)ですから,神が同時にいろいろな場所に存在することはあり得ません。

神はご自分の友の言葉をお聞きになる

では,神がスポーツ競技の試合に出向かれることはないとしても,せめてその祈りに耳を傾けてはくださらないのでしょうか。祈りが天のこの神の耳に届くためには,祈る者が,神のお目的,神のご性格,神の特質,神の物事の行ない方,神のみ名に関する知識などを持っていなければなりません。イエスはこの神の前に出てくださったのです。(ヤコブ 4:3)イエスは,神を知ることの必要性を強調し,「彼らが,唯一まことの神であるあなた……についての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」と祈られました。―ヨハネ 17:3。

ある人を知るようになるには意思の伝達が求められます。神は聖書を通して人間に意思を伝達しておられますから,聖書はわたしたちが天の神を知るようになるための手段です。それはエホバという神のみ名をわたしたちに知らせています。(詩編 83:18)聖書はまた,神が世を深く愛してご自分の独り子イエスを地に遣わし,人間が永遠の命を得る機会を持てるようにされたことを述べています。(ヨハネ 3:16)聖書を読んで研究するにつれ,エホバはわたしたちにとって現実の存在となり,イエスを通してこの方に引き寄せられます。(ヨハネ 6:44,65。ヤコブ 4:8)エホバが現実の存在であるゆえに,わたしたちはエホバと親密な個人的関係を培うことができます。

しかし,神との交友に伴う意思の伝達は,相互的なものです。そのためには,祈りを通してエホバに語りかけることが必要です。聖書は,神が「祈りを聞かれる方」で,「神は,わたしたちひとりひとりから遠く離れておられるわけではありません」と述べています。(詩編 65:2。使徒 17:27)しかし,これは神がすべての祈りを聴いておられるということではありません。(イザヤ 1:15-17)神はどんな者の祈りを喜んで聞いてくださるのでしょうか。

詩編作者ダビデは,「エホバとの親密さは神を恐れる者たちのもの」と述べました。(詩編 25:14)原語のヘブライ語では,「親密さ」(ソード)の語根には「堅くする」という意味があります。それゆえこの節は,エホバとの特に親しい友のような関係,つまり神との交友という契約関係に入るのを許されている,という考えを伝えています。ふさわしい敬意を示す崇拝者だけが入るのを許されています。ですから,神との親密な交友があるなら,祈りをスポーツ競技の勝利を確実にするための幸運のお守りにするなど,神の不興を招くことを行なって,その関係を台なしにするようなことを恐れるようになります。

エホバは,ご自分との交友を求める誠実な心の持ち主の祈りに耳を傾けてくださいます。また,神は不公平な方ではなく,えこひいきをしたり,ある国家集団,人種,あるいはどこかのスポーツチームに,他より勝る栄誉を与えたりはされません。(詩編 65:2。使徒 10:34,35)神が競技者の祈りを聞いておられ,両方のチームが神に勝利を祈り求めるのであれば,神はどちらに祝福を与えればよいのでしょうか。あるいは,選手がゲーム中に重傷を負ったとすれば,神に責任があるのでしょうか。

ですから,わたしたちは正しい事柄を祈り求めなければなりません。使徒ヨハネはその点をこのように説明しています。『何であれわたしたちがそのご意志にしたがって求めることであれば,神は聞いてくださるのです』。(ヨハネ第一 5:14)エホバはご自分のご意志にかなう祈りに耳を傾けてくださいます。わたしたちは神のご意志とお目的を知る必要があり,そうすることによってわたしたちの祈りはそれと調和したものになるのです。

神のご意志とお目的およびその栄光に満ちたみ名は,今日における競争心が旺盛で暴力的なスポーツ競技とは関係がありません。神は偏り見られる方ではないのです。ですから,これらの試合で祈りがささげられるとき,神が耳を傾けておられるということは決してありません!

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