脱毛症 ― 髪が抜け,黙して生きる日々
ある脱毛症患者の話
『アロペシア? そんな病気,聞いたことないですね』と言う方もいらっしゃるでしょう。それは,この病気にかかっている人たちが,とてもきまり悪くて病名を口にしないからかもしれません。秘密にしているのです。実は,私はアロペシア(脱毛症)にかかっています。それでこの病気について少しお話ししましょう。
もしご自分の髪の毛が突然ばさっと抜け始めたら,どれほどショックか想像してみてください。『一体どうしてこんなことが……』と,全く信じられないかもしれません。
そして,脱毛症にかかっているのが自分だけではないことを後になって知ります。男女の別なく,100人に一人はそれに襲われるのです。しかし残念ながら,この疾患の治療は不成功に終わる場合が少なくありません。
「なあに,たかが毛じゃないか」と言われることもあります。確かにそうです。しかし,脱毛症にかかると生活のあらゆる面に影響が出ます。その重苦しさに加えて,他の人にこの病気について説明する難しさもあります。なぜなら,この病気はなぞに包まれているからです。
例えば,ある病名を聞けば,それが大体どんな病気かは普通すぐに思い浮かべることができます。しかし脱毛症の場合はそうはいきません。一言ではこの病気の原因を説明できないのです。それに脱毛症の発症が突然で,何の前触れもないため,当人はそれについて話せるほど心にゆとりのない場合が少なくありません。そのため,髪の毛ばかりか威厳まで失ってしまうことがあります。
どんな病気か
脱毛症は,当人には制御できない医学上の問題です。伝染病ではないので他の人にうつることはありません。この病気にかかったために死ぬということはありませんが,恥辱やいら立ちやきまりの悪さといった感情的な苦痛のため,非常につらい経験となる場合があります。
脱毛症を男性の普通のはげと混同してはなりません。それで,この病気を定義する際,“はげ”という言葉より“脱毛”という言葉を好む人もいます。
円形脱毛症とは,頭皮に局部的な脱毛が起こる病気のことです。私の病気はこのタイプのものです。頭髪が全部なくなるものは全頭部脱毛症と言い,体じゅうの毛がなくなってしまうものは全身性脱毛症と呼ばれます。患者によっては病気の進行が円形脱毛症で収まる場合もあります。何も治療を受けていないのに毛髪が突然また生えてくる人もいます。かと思えば,まゆ毛やまつ毛が抜けてしまう人もいます。そうなると,ほこりや汗から目を守る毛がないため,目は病原菌に感染しやすくなります。
何が原因か
医学的な研究によって分かってきているのは,脱毛症が自己免疫の不全,つまり自分の体の一部分に対する一種のアレルギー反応ではないかということです。読者になじみのあるもう一つの自己免疫疾患はエリテマトーデスかもしれません。脱毛症の人の免疫機構は,毛髪を異物と誤認します。そして,その反応としてキラーT細胞(リンパ球)をそこへ送り出します。それらの細胞は毛包の周りに群がり,それを攻撃し破壊します。毛包は不定の期間,正常な育毛を行なえなくなります。
治療法はいろいろありますが,最良の方法でも結果が表われるまでには長い期間を必要とし,期待した成果が見られないことも少なくありません。例えば,毛が再び生えてきても,生えてくる毛は淡色で非常にか細いかもしれません。脱毛が再発し,一度は効いた治療法も効かなくなると,いら立ちを覚えます。そこで患者はあちこちの医師を訪ねていろいろな治療法を試すかもしれません。そうなると脱毛症は感情的な負担のみならず経済的な負担にもなります。
医学界はかつてストレスを犯人として指摘していました。ストレスを解消すれば毛は戻る,と言われました。そのため患者は,脱毛の原因は自分にある,あるいは一部の医師が示唆したように,配偶者がストレスを生じさせていると思い込んだことでしょう。しかし今では,ストレスが原因ではないことが分かっています。脱毛症の人が自分の病状のことで罪悪感を抱いたり自分を責めたりする理由は何もないのです。
直面する問題
脱毛が起きると容姿が変わってしまうため,脱毛症の人は,ある特定のグループの人々と同類にみなされることがあります。もしある人に頭髪がなかったり,他の人から見てあまりにも量が少なく,私のように短く刈り込んだりしていると,はた目には社会的もしくは政治的な主張をしているように映るかもしれません。
勤め口を見つけるのはいつも難しいことですが,脱毛症の人にとっては特にそうです。雇ってくれそうな人も近ごろはエイズを恐れて用心しています。脱毛症の人にはほとんどあるいは全く髪の毛がないので,雇い主は彼らがエイズではないかと疑う場合があります。もちろん脱毛症はエイズとは違います。また,脱毛症の人を化学療法を受けている人と思い込む人もいます。
時には私たち脱毛症の人間は,思いやりのない言葉にひどく傷ついて,避難所となる自分の家から出るのが怖くなることがあります。善意からとはいえ軽々しいアドバイスに傷つくこともあります。例えば,「僕だったらそんなにくよくよしないな。笑って済ませちゃうよ」といったアドバイスです。口で言うのは簡単です。賢王ソロモンは,「笑っていても,心の痛むことがある」ことを知っていました。(箴言 14:13)脱毛症のために外見がすっかり,それも突然に変わってしまうことがありますから,私たちの外見のことは思い起こさせないようにしていただければうれしく思います。
なぜかつらを着けないのか
「なぜかつらを着けないんですか。私だったら着けますが」と言う人もいるかもしれません。しかし,かつらの大半は,流行に合わせて髪型を変えようとする女性のために作られています。その種のかつらは毛髪のない頭にかぶるようには作られていません。脱毛症向けの特製かつらは大抵値段が高く,だれもが買ってふさわしく維持できるわけではありません。
脱毛症の女性は,男性や子供の場合に比べると適当なかつらを容易に見つけることができます。それは女性のほうがいろいろな髪型があるからです。しかし,かつらを着ける代わりに魅力的なスカーフをかぶるのを好む女性もいます。男性用かつらのほとんどは自然な感じに見えないようです。それに,『いつかつらを着けるか。四六時中着けているのか。予期せぬ来客があってもいいように,家に一人でいるときも着けているか』という疑問も出てくるかもしれません。ですから脱毛症の人がかつらを着けていないとしてもそれには様々な理由があるのです。それに脱毛症の人の大多数が経験するのは局部的な脱毛で,その部分は周りの髪の毛で覆うことができるため,かつらのことを考える理由などないのです。
私の対処法
脱毛症の人は,人にどう思われるかを気にするあまり,内向的になってふさぎこんでしまうことがあります。つらいときには,生活のより重要な事柄に注意を集中し,人の敬意を勝ち得るのは内面の自分であることを思い出すようにするのは大切なことです。
ですから,私はその日その日を生き,自分の問題のことで何もかもだめにすることがないよう,次の日のことを考えすぎないようにしています。聖書の中にある,「次の日のことを決して思い煩ってはなりません。次の日には次の日の思い煩いがあるのです」という格言が助けになっています。―マタイ 6:34。
確かに,もっと大変な問題を抱えている人は大勢います。しかし脱毛症の人は,支援や思いやりの示されていない場合が少なくありません。数年前までは,脱毛症の人同士で気持ちを語り合う機会などほとんどありませんでしたが,今では全米各地に支援団体のネットワークがあります。脱毛症の人はそれらの団体を通じ,情報に通じた資格ある医師に診てもらうことができます。それらの医師は医学上の新しい情報を交換し,古い社会通念の誤りを暴露しています。
私は,脱毛症でなかったなら自分の生活はどれほど違っていただろう,と思うことがあります。それでも,現在エホバの証人の一人としての特権を得ているおかげで,将来に関する神のすばらしい約束について学ぶよう人々を助けるために自分自身を与えることができます。(啓示 21:3,4)また,聖書の詩編 55編22節の「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる」という心強い言葉にも支えられています。
[13ページの囲み記事]
ある脱毛症患者
俳優のハンフリー・ボガートは脱毛症でした。妻のローレン・バコールはこう書きました。「主人はほおに,ひげの生えていない箇所があるのに気づきました。初めは1箇所だったのが,だんだん何箇所にも増えていき,ある日の朝,枕に髪の毛がいっぱい付いていました。主人はびっくりしました。頭の周辺の髪が残っているのであれば俳優も部分かつらを着ければよいのですが,周囲の髪もないなら全面かつらを着けなければなりません。髪が抜けてゆくにつれて主人もますます神経質になり,神経質になればなるほど髪は抜け落ちていきました。『暗い道』のラストシーンでは全面かつらを着けていました。主人は動転しました。生活がかかっていたからです。医者に診てもらうことにしました。……診断によれば,主人は円形脱毛症という病気にかかっているということでした」。
[14ページの囲み記事]
どんな治療法が効くか
脱毛症には,進行を後らせる目的でコルチゾンを注射することができます。コルチゾンとは,毛包に血液や栄養分を行き渡らせるために毛包の周りのはれを抑える薬のことです。
もう一つの治療法はDNCB(ジニトロクロロベンゼン)です。これはリンパ球を消散させることをねらって人為的にアレルギー反応 ― アメリカツタウルシによる厄介な症例に似た反応 ― を起こさせるために患部に直接塗る酸のことです。人によっては発疹が出て非常に痛むこともあります。
ミノキシジルと呼ばれる薬を局所的に使用する方法も宣伝されてきました。元々は高血圧を治すために開発された薬でしたが,副作用として育毛効果のあることが分かりました。しかし,脱毛症の治療はほとんどそうですが,その成功率もがっかりするほど低く,それについて取り上げた新聞記事も,脱毛症ではなく男性型はげの治療利用に関するものが大半を占めています。
脱毛症のための処方薬や治療法は16以上あり,どれも不定の期間定期的に用いなければなりません。ある薬に効果があるかどうかは半年たってみなければ分からないことが多いので,治療は時間のかかる,気持ちのいら立つものとなる場合もあります。そのようなわけで,脱毛症の真の治療法は今のところありません。