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目ざめよ! 1991
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スポーツが占める位置

偉大な創造者は,聖書の中で「幸福な神」と呼ばれています。しかも創造者は,ご自分の創造物が幸福であることを願っておられます。(テモテ第一 1:11)ですから,遊びを楽しむ能力を持つ人間を創造されたのも不思議なことではありません。それで新ブリタニカ百科事典は,「スポーツや競技の歴史は人類史の一部になっている」と述べています。

ボールの出現は,競技の歴史の中で最も重要な要素と言われています。「動物が何かをおもちゃにして楽しそうに跳ね回るところを見ると,ボールの代わりになる物を追いかけたり投げたりすることは……いつの時代にも行なわれていたようだ」と,上に引用した百科事典は述べています。

興味深いことに,ボールを打つための道具も昔から使われていました。ブリタニカは,「ペルシャ人やギリシャ人やアメリカ・インディアンが,棒を使う競技を行なっていたことは確かだ」と指摘し,「チベット語に由来するポロについて言えば,ダリウス1世(在位,前522-486年)の時代のペルシャ人はポロに似た競技に慣れ親しんでいたようである。現代の形のゴルフはスコットランドで始まったと言われているが,ローマ時代のヨーロッパ諸国にはかなり整った原型があった」と述べています。

昔の競技熱

ヘブライ語聖書(“旧約聖書”)が書き終えられた時より何百年も前に,組織的なスポーツが盛んに行なわれていました。例えば,古代ギリシャのオリンピアでは4年ごとに競技会が開かれました。ブリタニカは,「前776年から後217年まで,オリンピアの優勝者の記録が残っている」と述べています。これは,1,000年に近い期間です。ギリシャ人の生活の中でオリンピック競技会は非常に重要であったため,その大会をもとに時を区分し,競技会と競技会の間の4年一区切りをオリンピアードと呼んでいました。ですから,この初期の時間計算法によれば,イエス・キリストは194オリンピアードに生まれたことになります。

ヘブライ語聖書は,組織的な競技については何も述べていませんが,預言者の一人は,「[エルサレムの]公共広場は……遊ぶ男の子や女の子で満ちる」と言いました。(ゼカリヤ 8:5)イエスが誕生する100年余り前に,ギリシャの運動競技がイスラエルに導入されました。エルサレムには体育場が建ち,祭司の中には競技に参加するために職務を怠った者もいたほどです。―第二マカベア書 4:12-15。

イエスが誕生したときのローマ皇帝アウグスツス・カエサルはスポーツ愛好家だったため,ローマでは競技が盛んでした。しかしローマ市民の興味を本当に引きつけたのは,ボクシングやレスリングといった格闘技の試合でした。このような“スポーツ”は,男同士が,あるいは男と動物が死ぬまで闘う荒々しい流血試合に堕することがしばしばでした。

“新約聖書”の中のスポーツ

しかし,スポーツがそのようにひどく悪用されたからといって,スポーツを楽しむことが間違っていたということではありません。イエスやその追随者たちが競技や競技を楽しむことを非としている箇所は聖書のどこにもありません。むしろ使徒たちは,教えの要点を例で説明するために競技の特色をよく利用しました。

例えば使徒パウロは,「競走の走者はみな走りはしますが,ただ一人だけが賞を受けることを,あなた方は知らないのですか。あなた方も,それを獲得するような仕方で走りなさい」とクリスチャンに勧めたときに,オリンピック競技の呼び物だった徒競走を念頭に置いていたようです。パウロはさらにこう言いました。「競技に参加する人は皆,すべてのことに自制を働かせます。もちろん彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが,わたしたちの場合は不朽の冠のためです」。―コリント第一 9:24,25。

パウロは別のときに,クリスチャンは命の賞を勝ち取る決意を持って走るべきであると言いました。「[わたしは]神からの賞である上への召しのため,目標に向かってひたすら走っているのです」とパウロは書いています。(フィリピ 3:14)また,道徳的な生活に関する規則をしっかり守る必要を説明する際には,「競技で闘う場合でさえ,規則にしたがって闘ったのでなければ冠は与えられ(ない)」ということをテモテに思い起こさせました。(テモテ第二 2:5)また使徒ペテロも,責任を果たすクリスチャンの牧者は,「あせることのない栄光の冠を受ける」と書きました。―ペテロ第一 5:4。

若いテモテは,スポーツ好きの若いクリスチャンを牧することもしていたに違いありません。それでパウロはテモテに,「[体育家としての]体の訓練は少しの事には益があります」と書き,ギリシャ人が行なうような厳しい体育の練習に幾らかの益があることを認めました。『しかし』とパウロはすぐに言葉を続け,「敬虔な専心はすべての事に益があ(りま)す。それは,今の命と来たるべき命との約束を保つのです」と言いました。―テモテ第一 4:8。「参照資料付き 新世界訳聖書」の脚注をご覧ください。

運動のあるべき位置

ですから聖書は,体の運動が生活の中でふさわしい位置を占め得ることを示しています。しかし,バランスを保ち,道理をわきまえていることも必要です。「あなた方が道理をわきまえていることがすべての人に知られるようにしなさい」とパウロは書きました。(フィリピ 4:5)しかし,バランスが取れているかどうかを見極めるのは非常に難しいことです。

昔のギリシャ人は競技に熱を入れすぎましたし,ローマ人は,競技の参加者にとっても,血みどろの見せ物に歓声を上げた人々にとっても,有害な種類のスポーツを呼び物にしました。一方,宗教の名のもとに競技を規制したり禁止したりする人々もいました。新ブリタニカ百科事典は,「17世紀の清教徒的な精神は,ヨーロッパとアメリカで娯楽を減少させた」と述べています。

近年スポーツは,恐らく歴史上前例がないほどの復興ぶりを見せています。ワールドブック百科事典は,「人々が天気の次に話題にするのはスポーツのことだろう」と述べています。スポーツは「大衆のアヘン」とさえ呼ばれてきました。

こうしたスポーツ熱が生み出した問題の中には,どんなものがあるでしょうか。あなたや,あなたの家族は,そのために悪影響を受けているでしょうか。どうすれば,スポーツをあるべき位置に保てますか。

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