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  • 災害 ― 神が下す懲罰ですか
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目ざめよ! 1992
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聖書の見方

災害 ― 神が下す懲罰ですか

度重なる自然災害の被害を受けた国フィリピンでは,『神はそうした災いによって人間を試みるのだろうか』と考える人が少なくありません。1991年に今世紀最大の被害をもたらした噴火が起きた後,フィリピンの一新聞の大見出しには,「噴火:神が下した懲罰か」とありました。

コラムニストのネリー・ファビスビリャフュルトはそうした見方を表わしてこう書きました。「といっても聖書を信じるクリスチャンにはただ一つの説明しかない。つまり,ピナトゥボ山の噴火は,人間や諸国家の営みと運命を支配する力を持つ,畏怖の念を抱かせる至高の神がおられることをわたしたちにもう一度思い起こさせる天罰である」。この主張からすると,次のような疑問が生じます。

今,全能の神は社会を裁くのか

過去において神がそうなさったことは否定できません。ノアの日の大洪水や,ソドムとゴモラの滅び,神の大いなるみ名と結びつけられていた都市エルサレムの二度にわたる倒壊など,聖書に記録されている実例を見れば,全能の神が,ご自分の規準を繰り返し破る人々に,よく考慮した上で裁きを下される場合のあることが分かります。―創世記 7:11,17-24; 19:24,25。歴代第二 36:17-21。マタイ 24:1,2。

しかし,現在はどうでしょうか。キリスト・イエスは,世界的な災いの時が来ることを,マタイ 24章,マルコ 13章,ルカ 21章の中で予告なさいました。イエスはこれらの記述の中で,ご自分が天から目に見えない仕方で支配していることを理性のある人が見分けられるように,この事物の体制の終結に関連する出来事や状況を預言的に警告なさいました。これらの預言は現在成就しつつあります。とはいえ,前述のそれぞれの裁きにおいて,滅びが到来する前にエホバ神がはっきりとした警告を何度もお与えになった点に注目すべきです。(アモス 3:7)しかし現代に生じる自然災害の場合,たいてい警告は科学的な観察に基づいて世俗の権威から出されます。

さらに,弟子ヤコブはその手紙の1章13節で,「悪い事柄で神が試練に遭うということはありえませんし,そのようにしてご自身がだれかに試練を与えることもない」と教えています。世界人口の増加に伴い,人類は多くの潜在的危険と隣り合わせの状態で生活するようになりました。食物の生産や生活のための土地が必要なため,以前には森林だった場所を切り払い,その結果,大雨や鉄砲水による自然災害を一層ひどくすることさえあります。

ですから,自然災害は被災地に住む人々に対する懲罰として全能の神が直接下されたものであると言うのは正しいことではないでしょう。事実,幼い子供のような罪のない大勢の人が災難のときに最も苦しんでいる様子をよく見かけます。しかし,全能の神がそうした災いを引き起こすのではないとしても,まだ次の質問が残されています。

学べる教訓があるのか

あります。被災地に住んでいる人々は,物質の所有物を命そのものと比べてどれほど重視していたかを試みられます。そういう時,人々はわずかな持ち物を守るだけのために自分の命を不必要な危険にさらしてきました。わたしたちはイエスの語られた,「満ちあふれるほどに豊かであっても,人の命はその所有している物からは生じない」という言葉を覚えておかなければなりません。(ルカ 12:15)物質的なものは元に戻せますが,自分の命を元に戻せる人はいません。―マタイ 6:19,20,25-34。

また自然災害は,人に自分の生き方をじっくり考えさせます。使徒パウロは,自分の振る舞い方に気をつけるようクリスチャンを促し,こう述べました。「ですから,賢くない者ではなく賢い者として,自分の歩き方を注意深く見守って,できる限り危機に善処しなさい。なぜなら,今は邪悪な時代だからです」。(エフェソス 5:15,16,バイイングトン訳)人が人生で直面する試みの一つ一つは,強い信仰を持つことの重要性を思い起こさせてくれます。

自然災害から学べる3番目の教訓は,他の人に対してさらに同情心や感情移入を深める必要があるということです。被災地域内では,みんな自力で何とかやってゆくべきだという態度を取るのではなく,むしろ一緒に苦しんでいる人たちに対して愛ある関心を示すことが必要です。このことは他の人々の世話をする責任をゆだねられている人たちに特に当てはまります。預言者イザヤは,自分が「君」と呼ぶ人々が,「風からの隠れ場,雨あらしからの隠れ場所,水のない地方における水の流れ,やせた地における重い大岩の陰のよう」であると述べました。―イザヤ 32:1,2。

災害に遭っている時に感情移入を示すなら,言行両面において,持っているものを他の人々と分け合う機会は少なくありません。例えば,ピナトゥボ山の噴火とそれに続いた災害の際には,避難しなければならなかった人々を援助する機会が数え切れないほどありました。多くの人は,その日の食糧を手に入れるすべさえ失っていました。それで,人々は他の人に助けを差し伸べることによって無私の態度を示すことができました。しかし,多くの人が疑問に思う点がまだ残されています。

人類に対する最後の審判があるのか

はい,あります。そのことは神の言葉の中にはっきりと示されています。(マタイ 24:37-42。ペテロ第二 3:5-7)その裁きが来る前に,世界的な警告の業が行なわれなければなりません。イエスがさらにこう預言された通りです。「また,あらゆる国民の中で,良いたよりがまず宣べ伝えられねばなりません」― マルコ 13:10。

ですから,わたしたち一人一人は,『自分はどうするか』と自問する必要があります。皆さんが是非時間を取って,その地球的規模の災いを生き残るためにわたしたち各人が行なうよう聖書が励ましている事柄をお調べになるようお勧めします。

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