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目ざめよ! 1992
目92 3/8 7–10ページ

文化の衝突

今から500年ほど前,カスティリャの中心部に位置する小さな町で,スペインの外交官とポルトガルの外交官が議論を戦わせていました。1494年6月7日までに両国は意見を調整し,正式な条約に署名しました。これがトルデシリャス条約です。今日,西半球に住む幾億もの人々がスペイン語かポルトガル語を話すのは,この条約が結ばれた結果なのです。

この条約は,イベリア半島の二つの国の間で未踏の世界を分割することを定めた前年の教皇勅書を再確認するものでした。「カボベルデ諸島の西370リーグ(約2,000㌔)」のところに南北境界線が引かれ,スペインはこの境界線の西側で発見した地域(ブラジルを除く南北アメリカ)を,ポルトガルはその東側(ブラジル,アフリカ,アジア)のすべての地域を植民地化し,キリスト教化することができました。

教皇の祝福を得たスペインとポルトガルは,他のヨーロッパ諸国に先がけて,海洋の制覇とそれに続く世界の制覇に乗り出しました。条約締結から50年後には,海洋を横断する航路がすでに確立し,主要な大陸が結ばれており,広大な植民地帝国が出現していました。―8ページの囲み記事をご覧ください。

このように立て続けに行なわれた発見は,非常に大きな影響を及ぼしました。商業体制と農業体制には大変革が生じ,世界の人種や宗教の分布も変わりました。しかし,こうした情勢を動かしていたものは金でした。

貿易の動向

コロンブスは間違っていませんでした。コロンブス自身が見つけた金はごくわずかでしたが,確かに金はありました。ほどなくしてガリオン船が,アメリカ大陸で略奪された金銀を大量にスペインに輸送し始めました。しかしその富もはかなく消えてゆきました。貴金属が大量に流れ込んだ結果,激しいインフレが生じ,スペインの産業は楽々と儲けた過剰な資金によってむしばまれました。その一方でアメリカ大陸の金は,国際経済の成長に拍車をかけました。資金はすぐに手に入るので,外国の品物を買うことができ,それらの品物は,行き来する船で世界中に運ばれました。

17世紀の末には,ペルー産の銀がマニラで,中国産の絹がメキシコ・シティーで,アフリカ産の金がリスボンで,北米産の毛皮がロンドンで出回っていました。ぜいたく品によっていったん道が開かれると,今度は砂糖,茶,コーヒー,綿といった基本的な商品が,大西洋やインド洋を越えて,かつてない規模で輸送されるようになりました。また,食生活も変わり始めました。

新しい作物と新しい料理

スイスのチョコレート,アイルランドのジャガイモ,イタリアのピザなどがあるのは,もとはと言えばインカとアステカの農民のおかげです。チョコレート,ジャガイモ,トマトの三つは,ヨーロッパに入ってきた新しい産品のほんの一部でした。新しい香辛料や果物や野菜が人気を得るには時間がかかるものですが,コロンブスとその部下たちは最初からパイナップルとサツマイモをたいへん喜んで食べました。―9ページの囲み記事をご覧ください。

東方の幾つかの産物,例えば綿やサトウキビは新世界でも定着し,南米のジャガイモはやがてヨーロッパの多くの家庭で重要な栄養源になりました。こうした作物の交易は,単に各国の料理に変化を与えたにとどまらず,栄養状態を根本的に向上させました。19世紀から20世紀にかけて,世界人口が爆発的に増加した背景にはこうした事情があったのです。しかし,この農業革命にも暗い一面がありました。

人種差別と抑圧

入植者たちは,農地で働く低賃金の労働力を十分に確保できれば,綿や砂糖やたばこといった新しい換金作物によって一財産を築くことができました。そこで,労働力としてすぐ目についたのは原住民でした。

一般にヨーロッパ人の入植者たちは原住民のことを,言葉を話す動物のようなものと考えていました。そしてこの偏見は,事実上の奴隷制度を正当化するために利用されました。1537年の教皇勅書は,「インディアン」は確かに「魂を付与された正真正銘の人間」であると結論していましたが,これも搾取を食い止めることにはほとんど役立ちませんでした。最近のバチカンの文書が指摘しているように,「人種差別はアメリカ発見と共に始まった」のです。

「ヨーロッパの病気」がまん延した上に,過酷な仕打ちを受けたため,人口は激減しました。ある推定によれば,100年間で90%も減少したということです。カリブ海地域では,原住民が全滅に近い状態になりました。地元の住民を徴集できなくなると,地主たちは,屈強で健康な農業労働者を別の所に求めるようになりました。アフリカにすっかり定着していたポルトガル人は,卑劣な解決策を提示しました。つまり奴隷売買です。

またもや人種偏見と貪欲が非常な苦しみをもたらしました。19世紀の末までに,(おもに英国,オランダ,フランス,ポルトガルの)奴隷船団は1,500万人以上のアフリカ人奴隷をアメリカ大陸に送り込んでいたようです。

こうした人種差別的側面を考えれば,ヨーロッパ人のアメリカ発見に対して,多くのアメリカ原住民が根強い憤りを抱いているのも不思議ではありません。ある北米インディアンは,「コロンブスはインディアンを発見しなかった。我々がコロンブスを発見した」と言いました。同様に,チリのマプチェ族のインディオは,『本当の発見も正当なキリスト教化もなかった。ただ我々の先祖伝来の土地の侵略があっただけだ』と抗議しています。この言葉が暗示しているように,責任は宗教にもありました。

宗教面の植民地化

宗教面での新世界の植民地化は,政治面の植民地化と同時に進行しました。a 一つの地域がいったん征服されると,原住民は強制的にカトリック教徒にさせられました。カトリックの司祭であり歴史家でもあるウンベルト・ブロンクスが説明しているとおりです。「彼らはまず,口頭で教えることもせず,ほとんど力ずくで洗礼を施した。……異教の神殿はキリスト教の教会や修道院に変えられた。偶像は十字架に取り換えられた」。こうした強制的“改宗”が,カトリックとその土地の伝統的な宗教との奇妙な混合を生み出し,それが今日に至るまで続いているのも不思議ではありません。

征服と“改宗”の後は,教会とその代表者に対する従順が厳しく強制されました。メキシコとペルーではそれが特に厳しく,異端審問所が設置されました。誠実な僧職者の中には,クリスチャンらしからぬ方法に抗議した人もいました。ドミニコ会の修道士ペドロ・デ・コルドバはヒスパニオラ島の植民地化を目撃し,こう言って嘆きました。「これほど善良で従順で柔和な人々なのだから,もし仮にこれらのあさましい伝道者たちが,クリスチャンたちの使った力と暴力を用いずに彼らの中に入ってさえいたなら,原始教会に劣らぬ立派な教会ができていただろうと思う」。

異なってはいても,さほど新しくはない

アメリカの発見と植民地化と改宗を,「二つの文化の衝突」と見る人もいれば,「搾取」とみなす人,あるいは少数ながら「強姦」という言葉であからさまに非難する人もいます。どんな判断を下すにしても,それが新しい時代の始まり,人権を犠牲にはしたものの,経済成長と技術革新の時代の始まりを画したことに疑問の余地はありません。

1505年に,新大陸のことを説明するために「新世界」という言葉を初めて使ったのは,イタリアの航海者アメリゴ・ベスプッチでした。確かに新しい要素もたくさんありましたが,旧世界の基本的な問題は新世界でもはびこっていました。スペインの多くの征服者たちは,黄金と豊饒の国である伝説のエルドラドを見つけようとしましたが,それがすべて徒労に終わったという事実は,新大陸の発見によっても人間のかねてからの願いはかなえられなかったことを物語っています。その願いは果たしてかなえられるのでしょうか。

[脚注]

a 新世界をキリスト教化したいという願いは,軍事力を正当化するためにも利用されました。当時のスペインの著名な神学者フランシスコ・デ・ビトリアは,スペイン人は新世界で福音を宣明する権限を教皇からゆだねられているため,その権利を擁護し確立する目的で彼らがインディアンと戦争をするのは正しいことだと主張しました。

[8ページの囲み記事]

コロンブス,発見の時代の先駆者

コロンブスのアメリカ発見後の50年間は,世界地図の改訂の時期でした。スペイン,ポルトガル,イタリア,フランス,オランダ,イギリスの航海者たちは,新しい東方ルートを探してゆくうちに,新しい海洋や新しい大陸を次々に発見しました。1542年の時点で,未発見のまま残っていたのはオーストラリアと南極大陸だけでした。

南アメリカ 最初にコロンブス,次いでオヘダ,ベスプッチ,クエリヨが,中南米の海岸線を図示しました(1498-1501年)。

北アメリカ カボートは1497年にニューファンドランドを発見し,ベラツァーノは,1524年に初めて北米の東海岸に沿って航海しました。

世界周航 これを最初に成し遂げたのはマゼランとエルカノでした。彼らはまた,広大な太平洋の大航海の末にフィリピンを発見しました(1519-1522年)。

喜望峰回りのインド航路 バスコ・ダ・ガマはアフリカの南端を回って,1498年にインドに到達しました。

極東 ポルトガルの航海者たちは,1509年にはインドネシアに,1514年には中国に,1542年には日本に達しました。

[9ページの囲み記事/図版]

世界のメニューを変えた植物

アメリカの発見は世界の食習慣に大変革をもたらしました。旧世界と新世界の間で作物が速く行き来した結果,インカ人やアステカ人によって栽培されていた多くの植物が今では世界で最も重要な食用作物に数えられています。

ジャガイモ。スペイン人がペルーにやって来た時,インカ経済の基礎になっていたのはジャガイモでした。ジャガイモは北半球でも栽培できるため,200年足らずのうちにヨーロッパ諸国の主食になりました。この質素でも栄養豊かなジャガイモが,ヨーロッパの産業革命に伴って起きた人口急増の一因だったと言う歴史家もいるほどです。

サツマイモ。コロンブスは最初の航海の時にサツマイモを見つけました。そしてサツマイモを,「クリ独特の風味」がある「大きなニンジン」のようなものと表現しています。現在サツマイモは,世界のかなりの場所で多くの人々の主食になっています。

トウモロコシ。アステカ人にとってトウモロコシの栽培は極めて重要なことだったため,アステカ人はトウモロコシを生命の象徴とみなしました。現在,世界のトウモロコシの作付面積は小麦に次ぐものとなっています。

トマト。アステカ人とマヤ人は,シトマトル(後にトマトルと呼ばれた)を栽培していました。16世紀にはすでに,スペインとイタリアでトマト作りが行なわれており,ガスパチョやパスタやピザが人々の好物になっていました。しかし他のヨーロッパ人は,19世紀までトマトの良さを認めませんでした。

チョコレート。チョコレートはアステカの支配者モンテスマ2世が好んだ飲み物でした。コルテスがメキシコにやって来た時,チョコレートの原料になるココア豆は高く評価されていたため,貨幣として使われていました。19世紀には,風味を良くするために砂糖とミルクが添加されたので,チョコレートは飲み物としても,固形のスナックとしても,世界のヒット商品になりました。

[図版]

1492年にバハマ諸島に到着したコロンブス

[クレジット]

The Museo Naval, Madrid, (Spain), の厚意により,また Don Manuel González López の親切な許可により掲載

[7ページの図版]

Copy of the Treaty of Tordesillas.

[クレジット]

Courtesy of Archivo General de Indias, Sevilla, Spain の厚意により掲載

[10ページの図版]

カトリックの異端審問の犠牲になったメキシコ人

[クレジット]

Mural entitled "Mexico Through the Centuries," original work by Diego Rivera. National Palace, Mexico City, Federal District, Mexico

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