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目ざめよ! 1993
目93 2/22 13–17ページ

孤立していても生きがいのある人生

私は1927年1月にスペインのマラガで,7人兄弟の6番目の子供としてカトリックの貧しい家庭に生まれました。1936年から1939年にかけてのスペイン内乱で国は荒廃したため,配給の食糧で暮らし,爆撃の際は逃げ惑いました。それでも子供の私は幸せで,歌うことや人のそばにいることが好きでした。

こんな私が怖がっていたことが一つありました。それは地獄の火で焼かれてしまうという予想です。その恐れを紛らそうと,私は12歳で修道院に入りました。そこではほぼ3年にわたり大理石の階段を掃除し,祈り,また掃除するという生活を送りましたが,何か満たされない気持ちがありました。1941年に修道院を出ることができたときはうれしく思いました。

数年後,ある歌手が私に目をかけてくれるようになり,私が歌で身を立てることができると見込んで,声楽とピアノを習うよう勧めてくれました。1945年に第二次世界大戦が終わると,私はモロッコに渡り,カサブランカとタンジールのナイトクラブでショーを演じるようになりました。十代の少女にとっては胸の躍るような毎日でしたが,私はショーが終わるたびに教会に出かけて,火の燃える地獄から救い出されるよう“聖母マリア”に許しを求めました。

ナイトクラブで9年働いた後,私はジャック・アバネーシというアメリカ人と出会いました。彼は当時米国の建設会社に雇われてモロッコで働いていました。私たちはその年に結婚し,私はショーから身を引きました。やがて私たちはスペインのセビリアに引っ越し,1960年までそこに住みました。その後,米国カリフォルニア州のローダイに引っ越しましたが,私の人生のもう一つの転機となったのはこの引っ越しです。

エホバについて学ぶ

1961年に二人のエホバの証人の訪問を受け,「ものみの塔」誌と「目ざめよ!」誌を受け取りました。後日その二人に聖書研究を勧められ,私は研究に応じました。こうしてまことの神エホバ,愛ある天の父について学ぶことができました。(詩編 83:18)また,火の燃える地獄は存在しないどころか,地上の楽園で永遠に生きる見込みがあることを知ってほっとしました。―詩編 37:9-11,29。啓示 21:3,4。

近くに住んでいた妹のパキタも研究を始めました。以前の私はたばこを吸い,パーティーが好きでした。それに私はとても短気でした。それでも変化を遂げ,1962年10月17日,パキタと一緒にカリフォルニア州サクラメントで,エホバに献身して仕えることの象徴としてバプテスマを受けました。

スペイン経由でタイへ

そのすぐ後,夫は勤めていた建設会社からタイへの転勤を命じられ,私も一緒に行くことになりました。途中,スペインに立ち寄って私の信じている事柄を家族に話す機会がありました。義理の姉妹プラがこたえ応じてエホバの証人になりました。

当時スペインでエホバの証人の活動は禁令下にありました。それでも私たちはテーブルが一つあるだけでいすのない小部屋で開かれた秘密の集会に出席しました。20名全員は立ったままでした。カリフォルニアの集会とは大違いです。同じ民族の人々が,自由が奪われる危険を覚悟で集まっている様子を目にして,クリスチャンの集会の大切さが身にしみて分かりました。タイのバンコクに着く直前にぴったりの教訓を学ぶことができたわけです。

「君が伝道しているところを見つけたら,君とは別れる」とジャックに言われたのはバンコクに着いた日のことです。翌日,夫は農村地区で行なわれる建設作業を監督するために出かけたので,私は言葉の通じなかったメードと二人でバンコクの喧噪の中に取り残されました。それで聖書に関する持っていた出版物を繰り返し研究して忙しくしていました。

1963年9月のある日,帰宅すると,玄関に見慣れない靴がありました。カールのかかった金髪の女性が待っていました。私は「何のご用でしょうか」と尋ねました。

「ものみの塔協会の者です」という答えが返ってきました。

私は跳び上がって喜び,この女性を抱き締め,口づけしました。それはカナダ出身の宣教者,エバ・ヒーバートでした。以後,エバはバスを二,三回乗り換えて定期的に訪問してくれました。乗客がすし詰めのバスに乗るのかと思うとぞっとしましたが,ほかに交通手段はありませんでした。エバには「エホバに仕えたいのなら,バスに乗るしかありませんね」と言われました。それで集会に行けるようバスを止める練習を一緒にしました。

私は伝道する気にはなれませんでした。土地の言語がさっぱり分からなかったからです。私はエバの手や手提げや服にしがみついていました。「こんな調子ではエホバにお仕えできないのよ」と言われました。

「でも言葉が分からないんですもの」と私は泣き言を言いました。

エバは雑誌を10冊くれたかと思うと,私を市場の真ん中に置いてきぼりにして姿を消してしまいました。私は恐る恐る中国人の女性に近づき,雑誌を見せると,受け取ってくれたのです。

「エバ,私10冊とも全部配布しちゃったわ」と私はうれしくて顔を輝かせながら言いました。するとエバは,「エホバもあなたのことを喜んでおられますよ。その調子でがんばって」と言ってくれました。私はその励ましに応じ,タイ語であいさつをしたり,土地の風習に倣って床に座ったりできるようになりました。また,いろいろな場所に行けるようにもなりました。夫の反応はどうでしたか。私が信じている事柄に対して寛容になっていたジャックは,ある日来客に対して「ペピタに案内してもらうといい。伝道していて地理には明るいものだから」と言いました。

オーストラリアへ

エバが毅然としながらも愛ある仕方で訓練してくれたおかげで,夫が次に赴任することになったオーストラリアの北西部でもエホバへの奉仕に活発にあずかる備えができました。そこに到着したのは1965年の半ばで,私は砂漠の真ん中に設けられた作業者用の居住地に住むことになりました。ジャックの会社はそこで鉄道を敷設していました。食糧は空輸されました。ここは非常に暑い場所で,気温は摂氏43度を超えます。居住地には北米から来ていた21の家族が住んでいたので,その人たちに近づいて王国の音信を伝えました。レールが延びるにしたがって居住地も砂漠の奥へと移動し,ますます孤立することになりました。

私は以前にオーストラリアのエホバの証人の支部事務所に手紙を出していました。それで,「温かい愛とあいさつをお送りします。……これから先,姉妹のことを考慮に入れ,祈りに含めたいと思います」という手紙を受け取った時は感激しました。夫の任地となった世界各地の人里離れた地域を一緒に移動していた年月のあいだ,エホバの組織からいただいたそのような手紙からどんなに励まされたかしれません。孤独感に襲われるときはこうした手紙を読んで気を取り直し,他の証人たちから孤立することが多くても伝道に出かける励みが得られました。

オーストラリアの支部事務所は,エホバの証人の一組の夫婦が,居住地にいる私を1週間訪問するよう取り決めてくれました。一緒に伝道した際,かなり離れた場所に住んでいる関心を持つ女性とお会いしたため,私は週に2度,ヘビやトカゲがうようよしている区域を歩いて,この方を訪問することになりました。道中,私は思わず「エホバの側に/喜び立て/光に歩め/神は捨てじ」という王国の歌を口ずさんだものです。研究は11か月続きました。

メルボルンに約1年滞在してから,再びオーストラリア北西部にある鉱業の町,ポートヘッドランドの居住地に夫と移りました。5日後,来客がありました。支部が私の居場所を証人たちに知らせていたのです。証人たちが帰ると,私は一人で集会を続け,会衆の書籍研究,神権宣教学校,奉仕会,「ものみの塔」研究を司会しました。歌と開会の祈りの後,質問に答え,歌と祈りで集会を閉じました。出席者を数える点で問題はありませんでした。いつも一人だったからです。それでも毎週集会を続けたおかげで,何年ものあいだ孤立してもエホバに仕えるための支えが得られました。

ブーゲンビル島へ

オーストラリアで4年間汗を流した後,1969年に夫はブーゲンビル島の蒸し暑い山あいの銅山に通じる道路の建設工事の現場監督になりました。ある晩,ドアをノックする音が聞こえました。応対に出たジャックは,「エホバの証人が来られたよ。奥さんや子供たち4人も一緒だ」と言いました。この家族は海沿いに住んでいました。私は週に1度この家族を訪ね,コミュニティースクールで開かれていた「ものみの塔」研究にも出席しました。

別の折に,パプアニューギニアの3人の証人たちが訪問してくれました。夫は仕事仲間に,「妻はどこに行ってもエホバの証人の友人が待っているんだ」と誇らしげに語りました。

アフリカへ

1972年に北アフリカのアルジェリアの砂漠に到着しました。ジャックの会社はここで水利施設を建設していました。これは4年越しの計画となるはずです。私はフランスにあるエホバの証人の支部事務所に,宣べ伝える業について手紙で問い合わせました。すると『注意深く行動してください。わたしたちの活動は禁令下にあります』という返事が返ってきました。協会は,不活発になっていた二人の証人と連絡を取れるよう援助してくださり,こうして研究のための群れができました。

やがて作業者用の居住地に一緒に住んでいたセシリアという人が病気になりました。私は毎日病院にこの女性を見舞い,スープを差し入れたり,ベッドを整えたりしました。退院後も使い走りを続けて,王国の希望を伝えることができました。これがきっかけで聖書研究が始まり,8か月後にセシリアは「バプテスマを受けたいわ」と言うまでになりました。しかしどこで,だれから受けたらよいのでしょうか。

フランスの支部事務所から返事が届きましたが,それによるとフランソワという名のエホバの証人が休暇で短期間アルジェリアを訪れるということでした。もし私たちのいる砂漠の村にこの兄弟を連れて来て,時間までに空港に送ることができるならバプテスマを施してもらえるのです。しかし兄弟は24時間以上滞在することはできません。

フランソワは到着するとすぐ車で砂漠に連れ去られました。その晩,兄弟はセシリアの家でシャツのポケットから小さな紙切れを取り出し,りっぱな話をしてくださいました。1974年5月18日の早朝,兄弟は私の家の浴槽でセシリアにバプテスマを施し,再び旅立ちました。

アルジェリアでは1975年の末に戦闘が勃発し,ジャックと私は急に出国しなければならなくなりました。私はスペインの親戚を訪ねました。1976年にはジャックの次の任地 ― 南米スリナムの熱帯雨林にある作業者用の居住地 ― に行くための荷造りに取りかかりました。

南米にて

スリナム南西部の居住地の周りには草木が生い茂っていました。大きな鳴き声のオウムや物好きなサルが,到着したばかりの15家族を木の上から見下ろします。この家族の大半は,以前の仕事のときから顔見知りになっていました。半年後,作業のためさらに多くの家族が到着しました。その中にはなんとアルジェリアでバプテスマを受けたセシリアもいて,私の奉仕の友になりました。

1978年3月23日が近づくにつれ,私たちはキリストの死の記念式をどうすれば祝えるものかと思案するようになりました。首都のパラマリボに行く足がなかったため,自宅で祝うことにしました。居住地の管理人は,記念式に出席することを勧める「ものみの塔」誌の最後のページのコピーを撮らせてくれたので,居住地内で家から家にコピーを配ることができました。なんと出席者は21名でした。話をしたのはセシリアで,聖句を読んだのは私です。私たちは孤立していましたが,その晩はエホバの世界的な組織と結ばれていることが実感できました。

そのころ,スリナムのエホバの証人の支部は援軍を送ってくれました。それは古いランドローバーに乗った若い宣教者の夫婦です。二人が到着する前から,私は居住地にいてもあまり用がないという気持ちが募っていました。それでも宣教者たちは,「ペピタ,ここでできることはあるはずですよ」と励ましてくれました。その時点ではよく分かりませんでしたが,その通りだということがじきに分かりました。

宣教者の滞在中のある日のこと,私たちは開通したばかりの舗装されていない道を探索し,居住地から約50㌔離れた所にアメリカ・インディアンの集落を幾つか見つけて胸を躍らせました。これら友好的なアラワク族のインディアンに数日間伝道した結果,多くの新しい聖書研究が始まりました。ですから,宣教者たちが帰ってから,セシリアと私がこの人たちを週に2度訪問することになりました。

私たちは朝の4時に起床し,7時には最初の聖書研究を始めていました。帰宅は午後の5時ごろになりました。2年にわたり二人で毎週30件の研究を司会しました。すぐに集落の子供たちは私を“聖書のおばさん”と呼ぶようになりました。やがて大勢がバプテスマを受けて,何年も後にその集落で開かれた巡回大会には182名が出席しました。愛する宣教者の友人が言ったとおり,私たちにはジャングルの中でもできることが本当にあったのです。

パプアニューギニアへ

私たちがスリナムをたったのは1980年で,翌年にはパプアニューギニアに移りました。首都のポート・モレスビーで証人たちと半年楽しく過ごした後,ヘリコプターで次の家まで行くことになりました。それは山あいの高所にある居住地で,ジャックの会社はそこで金鉱を開発していました。道などなく,人も設備も食糧も空路で運ばれました。これほど孤立した場所に住むのは初めてです。話のできる人にどこで会えるのか,また迷うことになりました。

居住地の人は以前から顔なじみで,だれも耳を傾けようとしません。ところがそのころ,会社は食料雑貨店の経営を始めました。遠くから女性たちが買い物に訪れるようになりました。すぐに私は店の常連になりました。これはうまくいったでしょうか。

ある日,パプア人の女性に話しかけたところ,その人は自分は教師であると言いました。それで私は「あら,私も教師なんですよ」と言いました。

「奥さんもですか」という返事です。

「ええ,聖書を教えているんです」と言って,聖書研究を勧めるとすぐに応じてくれました。その後も,同じように応じる買い物客が見つかりました。金鉱の付近にあるその居住地で7件も聖書研究が見つかりました。そこはまさに霊的な金鉱だったのです。

太平洋のこの島で3年過ごした後,新しい仕事のためカリブ海のグレナダ島に向かいました。しかし1年半後,夫の健康上の理由で米国に戻らねばならなくなり,1986年にアイダホ州のボイシに落ち着きました。

会衆と働く

長年クリスチャンの兄弟姉妹から孤立して暮らしてきましたが,今度は他の人と共に働くことに慣れる必要がありました。それでも,クリスチャンの長老をはじめとする人たちは辛抱強く援助してくださいました。今ではここで集会に出席し,聖書研究を司会する喜びにあずかっています。

しかし,時には静かな部屋の片隅に腰かけて,バンコクの雑踏の中でエバの後を追いかけたこと,オーストラリアの砂漠の道を歩きながら王国の歌を口ずさんだこと,スリナムの熱帯雨林で謙遜なアメリカ・インディアンに伝道したことなどをほほえみながら回想することもあります。その度に,何年ものあいだ,孤立してもエホバに仕える際に気遣いを示していただいたことに対する感謝の涙があふれてきます。―ホセファ・‘ペピタ’・アバネーシの語った経験。

[15ページの図版]

メルボルンで,スペイン語を話す私の聖書研究生と歌っているところ

[16ページの図版]

パプアニューギニアでは,エホバを知るよう多くの人を援助することができた

スリナムで神の言葉を教えているところ

[17ページの図版]

今ではアイダホ州で会衆と共に奉仕している

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