死に直面しても勝利を得る
「しかし驚くべきことに,ナチスは[エホバの証人]も排除することができなかった。厳しく弾圧すればするほど,証人たちはそれだけ一層固くなり,その抵抗はダイヤモンドのような固さになった。ヒトラーは彼らに徹底的な戦いを挑んだが,彼らは信仰を守り通した。……彼らの経験は,極度の圧迫のもとで生き残った事例を研究する者すべてにとって貴重な資料となる。彼らは確かに生き残ったからである」― トゥゲザー誌に掲載され,クリスティーン・キング博士が語ったとされる言葉。
今世紀の歴史の中で,エホバの証人ほど世界の至る所でひどく中傷され,迫害された宗教グループはないと言えるでしょう。エホバの証人は,クリスチャンの中立の立場を保ち,軍事訓練を受けたり戦争に参加したりしないというだけで誤解され,しばしば虐待されてきました。政治とは一切つながりを持たないため,多くの国の全体主義的支配者の怒りを買いました。しかし,厳正中立の立場を保ち,忠誠を曲げることがなかったという記録は,エホバの証人が現代史に貢献した側面の一つです。a
英国の歴史家アーノルド・トインビーは1966年にこう書いています。「我々の時代のドイツには,神のようにあがめられた人間アドルフ・ヒトラーに代表される過激な国家主義に敬意を表すよりはむしろ命を捨てたキリスト教殉教者たちがいた」。それらの殉教者の中でも,エホバの証人は際立っていたことを事実は示しています。幾つかの体験談をお読みになれば,エホバの証人が忠誠を保ったゆえにどのように迫害に遭い,死にさえ直面したかがお分かりになるでしょう。これはナチの時代に限られたことではありません。世界の多くの場所で,死に直面しても勝利を得るエホバの証人の記録は首尾一貫しており,それに並ぶものはありません。
ウクライナのアナーニー・グローグルの経験
「私の両親は第二次世界大戦中の1942年にエホバの証人になりました。当時,私は13歳でした。その後間もなく父は逮捕されて刑務所に入れられ,後にウラル山脈の中にあったソビエトの収容所に送られました。1944年,15歳の私は軍当局から予備兵として召集されました。エホバに対してすでに堅い信仰を抱いていたので,戦争を学ぶことを拒否しました。そのため,15歳という若さで5年の刑を言い渡されました。
「それから,最も苦しい1950年がやって来ました。私は再び逮捕され,エホバの証人として活動したかどで25年の刑を言い渡されました。21歳の時でした。強制収容所で7年4か月間生き延びました。大勢の人が飢えのために体がむくみ,過酷な労働に疲れて死んでゆくのを見ました。
「1953年にスターリンが死ぬと状況が変化し始め,1957年に当局は私を釈放しました。私は再び『自由』になりましたが,今度は10年間シベリアに追放されました」。
妹に対する非人道的な拷問
「シベリアで実の妹に再会しました。妹は体が不自由になっていました。1950年に私が逮捕されてからちょうど2週間後に妹も逮捕されたのです。取り調べは極めて不法な仕方で行なわれました。妹を独房に閉じ込めてネズミを放ち,足をかじらせたり体中をはい回らせたりするのです。最後に,冷たい水の中に胸まで浸からせ,苦しむ様子を眺めます。妹は伝道をしたために25年の刑を言い渡されました。両脚は麻痺していましたが,両手と両腕は動かすことができました。5年間,収容所内の病院に入れられた末,死人同様に名簿から抹消されました。そして1951年,シベリアに終身追放されていた両親のもとに送られました」。
ウクライナに帰り,さらに迫害を受ける
「私はシベリアで出会ったナディアという女性と結婚し,子供が生まれました。シベリアでも私たちは宣べ伝える業を続けました。私は聖書の出版物の生産と複製の仕事を任され,弟のヤコブと共に毎晩地下室でせっせと『ものみの塔』誌を複写しました。タイプライターが2台と自家製の複写機が1台ありました。警察は定期的に家宅捜索をしましたが,いつも手ぶらで帰ってゆきました。
「追放期間が終わり,家族全員でウクライナに移転しましたが,迫害も一緒に付いて来ました。私は旅行する監督として奉仕する任命を受けました。家族を養うためには仕事に就かなければなりませんでした。毎月数回,国家保安委員会(KGB)のメンバーが仕事場にやって来て,私を説得して信仰を曲げさせようとしました。ある時私は,特別な方法でエホバからの助けを感じました。逮捕されて,キエフにある国家保安委員会の事務所に連れて行かれ,六日間拘束された時のことです。彼らはその間ずっと,無神論的な主張を並べて私の頭を混乱させようとしました。『ものみの塔』誌や,ものみの塔協会の他の出版物を神に対する不敬な態度で酷評しました。あまりの圧力に耐え切れないほどになりました。洗面所に入ってひざまずくとどっと涙があふれ,私はエホバに向かって叫びました。解放されることを求めたのではありません。仲間の兄弟たちを裏切ることがないよう耐える力を求めたのです。
「その後,署長が私に会いに来て,私の前の椅子に座り,君は自分が擁護している事柄を本当に信じているのか,と尋ねました。私は署長に手短に証言をし,真理のためなら死ぬ覚悟でいますとはっきり言いました。署長は答えました,『君は幸せな人間だ。私ももしこれが真理であると確信することができさえすれば,刑務所で3年や5年過ごすどころか,60年間刑務所の中で片足で立つ覚悟だってできるだろうに』。署長はしばらくの間だまって座ったまま考え込んだあと,『永遠に生きられるかどうかの問題だ。永遠の命がどんなにすばらしいものか考えてもみてごらん』と述べました。署長は少し間をおいてから,『さあ,家に帰りなさい』と言いました。思いがけない署長の言葉に私は力づけられました。空腹感はどこかに行ってしまい,頭の中にはただそこを出ることしかありませんでした。エホバが私を力づけてくださったに違いないと思いました。
「近年,旧ソビエト連邦では事態が変化し,今では聖書の出版物は豊富にあります。巡回大会や地域大会に出席できますし,家から家の宣教を含め,あらゆる種類の伝道活動に携わることができます。確かに,エホバは様々な試練に直面した私たちに勝利を得させてくださいました」。
アフリカで忠誠が試される
1960年代後半,ナイジェリアは激しい内戦の渦中にありました。当時ビアフラと改称された分離独立地域の兵士たちは,死者が増大したため,若者を強制的に軍隊に徴集しました。エホバの証人は政治的に中立であり,軍事行動への参加を拒否するゆえに,ビアフラの多くの証人は追い回され,残忍な仕打ちを受け,殺されました。一人のエホバの証人は,「私たちはまるでネズミのようでした。兵士たちがやって来るのが聞こえるたびに身を隠さなければなりませんでした」と述べました。しかし多くの場合,身を隠す時間はありませんでした。
1968年のある金曜日の朝,32歳の全時間奉仕者フィリップがウムイモ村で一人の年配の男性に証言をしていると,ビアフラの兵士が徴兵のため部落になだれ込んできました。
「何をしているんだ」と隊長に詰問されたフィリップは,間もなく到来するエホバの王国について話していると言いました。
「伝道なんかしてる場合か。戦時中なんだぞ。大の男が何もせずにぶらぶらしているとは何ごとだ」と,別の兵士が怒鳴りました。兵士たちはフィリップを裸にし,両手を縛って連れて行きました。43歳のクリスチャンの長老,イズリアルも身を隠す時間がなく,子供たちの食事の準備をしている時に捕らえられてしまいました。午後2時までに,兵士たちは100人を超える男性を駆り集め,ウムアチャ・ムベデアラにある軍のキャンプまで,約25㌔の道を無理やり走らせました。遅れた者は皆,むちで打たれました。
イズリアルは重機関銃を持つよう命じられ,フィリップは軽機関銃の使い方を教えられることになりました。エホバが禁じておられるので軍隊に入れないことを説明すると,司令官は二人を監禁するよう命じました。午後4時になると,営倉にいる者も含めて,徴集された者は全員整列するよう命令されました。それから兵士たちは,入隊同意書に署名するよう一人一人に求めました。フィリップは署名する番がくると,テモテ第二 2章3節と4節の言葉を引き合いに出して司令官にこう言いました。「私はすでに『キリストのりっぱな兵士』です。キリストのために戦いながら同時に他の人間のために戦うことはできません。もしそのようなことをすれば,キリストから裏切り者とみなされてしまいます」。司令官はフィリップの頭を殴り,「キリストの兵士としてのお前の任務は終わった。これからはビアフラの兵士なのだ」と言いました。
フィリップは,「イエスの兵士としての任務が終わったという知らせを私はまだイエスから受けていません。そのような知らせを受けるまで私の任務は続くのです」と答えました。すると兵士たちはフィリップとイズリアルを抱え上げて,地面にたたきつけました。気を失いかけ,目と鼻と口から血を流す二人を彼らは引きずって行きました。
銃殺隊の前で
同じ日に,イズリアルとフィリップは銃殺隊の前に立たされました。しかし,兵士たちは二人を撃ちませんでした。代わりに,こぶしやライフルの台尻で殴りました。その後,キャンプの司令官は二人を死ぬまでむちで打つことにしました。24人の兵士をその任務につかせました。6人がフィリップを,別の6人がイズリアルを打ちます。他の12人はむちの交換をしたり,疲れた兵士の代わりをしたりします。
フィリップとイズリアルは手と足を縛られました。イズリアルはこう語ります。「その晩は何度打たれたのか分からないほどでした。一人の兵士が疲れると,別の兵士が交替します。私たちが気を失った後もむちで打ち続けました」。フィリップはこう言います。「拷問を受けている最中,終わりまで耐え忍ぶというマタイ 24章13節が頭に浮かび,力がわいてきました。打たれて痛かったのは数秒間だけでした。まるでエホバがダニエルの時にされたように,み使いを一人遣わして私たちを助けてくださったかのようです。そうでなければ,あの恐ろしい晩を生き延びることはできなかったでしょう」。
兵士たちはむち打ちを終えると,イズリアルとフィリップを死んだものと思い放置しました。雨が降っていました。二人のクリスチャンが意識を取り戻したのは翌朝のことでした。兵士たちは二人がまだ生きているのを見ると,引きずって行って再び営倉に入れました。
「すでに死体のような臭いがしている」
むちで打たれて肉は赤くなり,皮膚が擦りむけ,体中傷だらけでした。イズリアルはその時のことを思い出して語ります。「傷口を洗うことも許されませんでした。数日たつと,傷に絶えずハエがたかるようになりました。拷問を受けたせいで,何も食べることができず,水以外のものがのどを通るようになったのは,1週間後のことでした」。
毎朝,兵士たちは二人をむちで24回ずつ打ちました。兵士たちはこの残虐行為を面白がって,“朝食”とか“朝の熱い紅茶”などと呼んでいました。正午になるといつも二人を野原に連れて行き,午後1時まで熱帯の太陽にさらしました。そのような扱いが数日続いた後,司令官は二人を呼び出し,立場を捨てたかどうか尋ねました。二人は,捨てていないと答えました。
「独房の中で死ぬんだな。もっとも,すでに死体のような臭いがしているが」と司令官は言いました。
フィリップは,「たとえ死んでも,キリストはご自分のために戦う者たちを復活させてくださいます」と答えました。
二人はこの困難な事態をどうやって生き延びたのでしょうか。イズリアルは言います。「フィリップと私は,試練の間ずっと励まし合いました。試練が始まった時に,私はフィリップに言いました。『恐れることはない。何が起きても,エホバが助けてくださる。私は,何をされようと決して軍隊には入らない。たとえ死ぬことになろうとも,この手に銃を持ったりはしない』と」。フィリップも同じ決意を言い表わしました。二人は共に,聖句を幾つも思い起こして話し合いました。
別の司令官が,徴集された者たちのうち約100人を,現在のイモ州に当たるムバノ地区のイベマにある軍事訓練キャンプに移すことを決めました。その後どんなことが起きたのかをイズリアルは次のように語ります。「大型のトラックが用意され,徴用された者たちが皆乗せられました。妻のジュンが兵士たちのところに駆け寄り,私たち二人を連れて行かないでくださいと勇気を出して嘆願しました。妻は願いをはねつけられても,トラックの近くにひざまずいて祈りだし,声に出してアーメンと言って祈りを結びました。その後,トラックは発車しました」。
思いやりのある傭兵に出会う
軍のトラックは次の日の午後にイベマのキャンプに到着しました。そこの責任者らしき男はイスラエル人の傭兵でした。その男は,フィリップとイズリアルが痛めつけられて弱っているのを見ると近づいてきて,それほどの状態になった理由を尋ねました。二人は自分たちがエホバの証人であることや,軍事訓練を拒否したことを説明しました。するとこの人は怒ってその場にいた他の士官たちのほうを向き,「ビアフラは必ずこの戦争に負けるだろう」と言いました。「戦争の際にエホバの証人を苦しめる国は,必ず戦争に負けるのだ。エホバの証人を徴集してはならない。もし彼らが戦うことに同意するのであれば,それでよろしい。しかし拒否するのであれば,そのままにしておけ」。
キャンプの医師は,二人のエホバの証人が予防接種証明書と健康適正証明書を持っているかどうか尋ねました。二人は持っていなかったので,その傭兵は,徴集された者たち全員を不適当とみなし,ウムアチャに連れて帰るよう命じました。
「戻って,君たちの神に仕えなさい」
後に,イズリアルの妻とフィリップの母親は彼らの消息を知ろうと思い,ウムアチャのキャンプを訪ねることにしました。二人がキャンプに近づくと,中からどよめきが聞こえてきました。門の所に来ると門衛が,「エホバの証人だ! あんたの祈りが聞かれたんだよ。三日前に連れて行かれたグループが送り返されてきたんだ」と言いました。
その日にフィリップとイズリアルはキャンプから解放されました。司令官はジュンに向かって,「我々の作戦が台なしになったのは,あんたがささげた祈りのせいだってことは分かってるかい」と言いました。それからイズリアルとフィリップにこう言いました。「戻って,君たちの神に仕えなさい。そしてこれからも君たちのエホバに忠誠を保ちなさい」。
イズリアルとフィリップは回復し,クリスチャンの活動を続けました。戦争が終わると,イズリアルは2年間全時間奉仕に携わり,現在までクリスチャンの長老として奉仕しています。フィリップは旅行する監督として10年間奉仕し,今も全時間奉仕に携わっています。フィリップも会衆の長老です。
武器のための寄付を拒否する
ゼブラン・ヌクマロとポリテ・モガネは南アフリカに住む若い全時間奉仕者です。ゼブランはこう言います。「日曜日の朝,一群の男たちが我が家にやって来て,武器を買う費用として20ランド(約900円)出すことを要求しました。日曜日は予定がぎっしりでその場で話し合うことはできなかったので,晩にもう一度来るよう丁寧に頼みました。驚いたことに,彼らはそれに同意しました。その晩,15人の男がやって来ました。顔の表情から,彼らの真剣な様子がうかがえました。私たちは礼儀正しく自己紹介をした後,彼らの望みを聞きました。彼らの説明によると,抗争相手の党派に挑むため,より大型で高性能の武器を購入するための金を必要としているということでした。
「私は,『ガソリンをかけて火を消すことができますか』と尋ねました。
「『まさか,できるわけがない』と彼らは答えました。
「同じように,暴力を使えば暴力と復讐行為をあおるだけです,と私たちは説明しました。
「その言葉を聞いて,その場にいた数人の男たちはいらいらしたらしく,さっきまでの要求が挑戦的な脅迫に変わりました。彼らは,『こんな話し合いをしても時間の無駄だ。強制的な寄付に交渉の余地などない。言われたとおりに払うか,痛い目に遭うかだ!』と怒鳴りました」。
ゼブランは思い出して語ります。「事態の収拾がつかなくなりだしたその時,リーダーが入って来て,何事だと尋ねました。私たちが自分の立場について説明すると,リーダーは注意深く耳を傾けました。私たちは,彼らが自分たちの政治理念にどれほど傾注しているかを例えとして用いました。組織の中の訓練された兵士がもし捕虜にされて,立場を曲げるよう強要されたら,その兵士がどのように反応することを期待するか尋ねました。そのような場合には信念を貫いて死ぬ覚悟をしているべきだ,と彼らは答えました。この答えをほめると,彼らはにっこり笑いました。それによって私たちの立場を例証する絶好の機会が開かれたことに彼らは気づいていませんでした。私たちは,自分たちがキリスト教世界の教会とは異なっていること,神の王国の支持者である私たちの“憲法”はあらゆる形の殺人を非とする聖書に基づいていること,そのような理由で武器を買うためには一銭といえども寄付するつもりはないことを説明しました。
「話し合いが最高潮に達するころには,さらに多くの人が家の中に入って来ていたので,しまいには大勢の聴き手に向かって話すことになりました。その話し合いによって良い結果が生まれるよう私たちがどれほど熱烈に祈っていたか,彼らは知りませんでした。
「私たちが立場を明らかにすると,長い沈黙が生じました。ついに,リーダーがグループに向かって言いました。『諸君。私はこの人たちの立場が理解できた。もし老人ホームを建てるのに金が必要な時や,近所の人が病院に行く金を必要としている時には,この人たちは寛大に寄付してくれるだろう。しかし,人を殺すための金は出すつもりはないのだ。私としては,彼らの信条に反対ではない』。
「すると,彼らは全員立ち上がりました。私たちは握手をし,辛抱強く聞いてくれたことを感謝しました。初めのうちは命が脅かされるような状況でしたが,終わってみるとすばらしい勝利でした」。
司祭に先導された暴徒
ポーランド人のエホバの証人イェジー・クレシャの語った経験:
「熱意と王国の関心事を第一にすることに関して言えば,私の父アレクサンダー・クレシャは模範的でした。父にとって,野外奉仕,クリスチャンの集会,個人研究や家族研究は確かに神聖な事柄でした。吹雪も霜も強風も暑さも妨げとはなりませんでした。冬になるとスキーをはき,聖書の出版物を入れたリュックサックを背負って,ポーランドの孤立した区域に二,三日間出かけて行きました。父は様々な危険に遭遇しました。凶暴なゲリラグループもその一つです。
「時には,司祭たちが暴徒を駆り立て,エホバの証人に向かって反対を扇動することもありました。彼らは証人たちをあざけったり,石を投げつけたり,殴ったりしました。しかしエホバの証人は,キリストのために辱めに耐えたことを喜びながら帰宅しました。
「第二次世界大戦直後の数年間,当局は国内の法と秩序を維持することができませんでした。混乱と破壊が生じ,昼間は警察と秘密警察が治めますが,夜はゲリラと数々のギャングが活動していました。盗みや強盗事件が頻繁に起こり,リンチが行なわれることもしばしばでした。無防備のエホバの証人は格好のえじきでした。司祭に先導された幾つかのグループは特にエホバの証人だけをねらっていました。先祖からのカトリックの信仰を擁護するという口実で,私たちの家に侵入することを正当化しました。彼らは窓を粉々に割り,家畜を盗み,服や食べ物や出版物をだめにし,聖書を井戸の中に投げ込みました」。
予期せぬ殉教
「1946年6月のある日,皆で集まって自転車で孤立した区域に出かけることになっていましたが,その前にカジミェジ・コンジェラという若い兄弟が訪ねてきて,父とひそひそ話していました。父は私たちを先に行かせ,自分は行きませんでした。私たちは驚きました。その時には理由は分かりませんでした。家に帰ってから知ったのですが,その前の晩にコンジェラ家族が激しく殴打されていたため,父は重傷を負った兄弟姉妹たちの世話をしに行ったのです。
「その後,コンジェラ家族が横たわっている部屋に入ったとき,中の様子を見て涙を抑えることができませんでした。壁や天井には血が飛び散っています。包帯を巻かれた人たちがベッドに横たわっています。殴られた跡が青黒いあざになり,腫れ上がり,あばら骨や脚の骨が折れていて,だれなのかほとんど見分けがつかないくらいです。母親のコンジェラ姉妹はひどい殴打を受けていました。父が彼らの世話をしていました。そして帰る前に意味深い言葉を口にしました。『ああ,神よ。私はこんなに健康で元気なのに[父は当時45歳で,病気一つしたことがありませんでした],あなたのために苦しむ特権はありませんでした。どうしてこのようなことが高齢の姉妹の身に起きたのでしょうか』。父は何が自分を待ち受けているのか知るよしもありませんでした。
「日が沈むと,私たちは2マイル(約3㌔)離れた家に戻りました。家は50人の武装した男たちから成る一団にすでに取り囲まれていました。ビンツェンチュク家族も家の中に入れられ,全部で9人になりました。一人一人,『お前はエホバの証人か』と尋ねられました。はい,と答えると殴打されました。それから,残虐な男たちの中の二人が,聖書を読んだり伝道したりするのをやめるかと問い詰めながら,代わる代わる父を打ちのめしました。彼らは父が教会に行って罪を告白するかどうか知りたいと思ったのです。そして,『今日にでも,お前に司教の職を授けよう』と言って父をあざけりました。父は一言も口をききませんでした。うめき声一つ上げませんでした。父は羊のように静かに拷問に耐えました。明け方,宗教を理由にしたこの虐待行為が終わって約15分後に父は死にました。徹底的にたたきのめされたのです。しかし彼らは立ち去る前に,次に私を標的にしました。私は当時17歳でした。殴られている間に,何度か意識を失いました。殴打の結果,上半身は青黒いあざだらけになりました。私たちは6時間虐待を受けました。エホバの証人であるというだけでです」。
忠実な妻の支え
「私は100平方フィート(約10平方㍍)足らずの薄暗い監房の中に2か月間拘禁された22人のエホバの証人の一人でした。その期間が終わるころには,配給される食物の量が減り,毎日少しばかりのパンと,小さなコップに一杯の苦いコーヒーしか与えられませんでした。冷たいコンクリートの床の上に横になって眠れるのは,夜間にだれかが連れて行かれて尋問される時だけでした。
「私はクリスチャンとして活動したため,刑務所に5回,合わせて8年間入れられました。特別な受刑者として扱われました。私個人に関する記録の中には,『再び活動する意欲を失うほどクレシャを苦しめよ』という内容の注意書きがしてありました。しかし私は,釈放されるたびにクリスチャンの奉仕に携わりました。当局は,妻のウルシュラと二人の幼い娘たちの生活も難しくしました。例えば,執行吏は妻が苦労して稼いだ収入の一部を10年にわたって差し押さえました。私が聖書の出版物をひそかに編集していることに対する税金だというわけです。生活必需品とみなされるもの以外はすべて没収されました。このような苦しみを共に耐え,その間ずっと私の大きな支えになった勇気ある妻がいてくれたことを私はエホバに感謝しています。
「私たちはここポーランドにおいて霊的な勝利を経験してきました。今ではワルシャワ近郊のナダジンに,合法化された,ものみの塔協会の支部事務所があります。何十年にも及んだ迫害の末,今では10万8,000人を超えるエホバの証人が1,348の会衆と交わっています」。
殉教者がこれほど多いのはなぜか
この20世紀におけるエホバの証人の忠誠を書き記すと,何冊もの本ができあがることでしょう。マラウイ,モザンビーク,ファシズム体制下のスペイン,ナチの時代のヨーロッパ,共産主義体制下にあった東ヨーロッパ,第二次世界大戦中の米国などで殉教したり,投獄,虐待,強姦,略奪等の被害を受けたりしたエホバの証人は幾万人にも上ります。なぜなのか,という疑問が生じます。人殺しを学ぶことを拒み,政治活動にも一切加わらない,聖書によって訓練された誠実なクリスチャンの良心に,頑固な政治や宗教の指導者たちは敬意を示すことを好まないからです。キリストがヨハネ 15章17節から19節で予告しておられたとおりです。「わたしがこれらのことを命じるのは,あなた方が互いに愛し合うためです。もし世があなた方を憎むなら,あなた方を憎むより前にわたしを憎んだのだ,ということをあなた方は知るのです。あなた方が世のものであったなら,世は自らのものを好むことでしょう。ところが,あなた方は世のものではなく,わたしが世から選び出したので,そのために世はあなた方を憎むのです」。
世界の至るところでこのように迫害されたにもかかわらず,1943年に54の国や地域に12万6,000人いたエホバの証人は,1993年には229の国や地域に450万人近くいます。彼らは死に直面しても勝利を経験してきました。そしてエホバが終了を宣言されるまで,王国の良いたよりを告げ知らせるという独特の教育活動を続ける決意を抱いています。―イザヤ 6:11,12。マタイ 24:14。マルコ 13:10。
[脚注]
a 忠誠とは,「厳格な道徳あるいは倫理の規範をしっかりと守ること」です。―アメリカン・ヘリテージ辞典,第3版。
[6ページの囲み記事/図版]
ドイツにおける殉教
アウグスト・ディックマンは,SS隊の隊長ハインリヒ・ヒムラーの命令で,ザクセンハウゼン強制収容所の他のエホバの証人全員の前で射殺されることになったとき,23歳でした。目撃者のグスターフ・アウシュナーはこう伝えています。「彼らはディックマン兄弟を射殺し,私たちに,もし信仰を放棄するという声明書に署名しないなら全員銃殺されると言いました。一度に30人ないし40人が砂掘り場に連れて行かれ,全員が射殺されることになります。翌日,親衛隊員が私たち一人一人に,署名するための用紙を持って来ました。署名しなければ銃殺ということです。しかし,署名する者は一人もおらず,立ち去る彼らのいかにも憂うつそうな顔をご覧にいれたく思いました。彼らはその公開処刑によって私たちを脅かせると考えていたのです。しかし,私たちは彼らの銃弾よりもエホバの不興を買うことを恐れていました。それ以後私たちのうちのだれも公に銃殺されることはありませんでした」。
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最大の犠牲
時には,死に直面して勝利を得るために最大の犠牲を払う必要があるかもしれません。南アフリカのナタール州北部にあるヌセレニ会衆から寄せられた手紙には,悲惨な出来事が記されています。「私たちの愛するモーセス・ニャムスア兄弟の死についてお知らせするためにこの手紙を書いています。ニャムスア兄弟は車の溶接と修理の仕事をしていました。ある時,一政治団体から自家製の銃の溶接を依頼されましたが,兄弟は断わりました。その後,1992年2月16日にこの団体は政治集会を開きましたが,その際,敵対している団体との間で争いが起きました。その日の晩,闘争が終わって帰る途中,ショッピングセンターに向かっている兄弟を見つけました。彼らは槍で兄弟を刺し殺しました。なぜでしょうか。『お前がおれたちの銃の溶接をしなかったせいで,闘争の最中に仲間が何人か死んでしまった』というのが理由です。
「この出来事は兄弟たちにとってたいへん大きなショックでした」と,会衆の書記ドゥマクデ兄弟は語っています。さらに,「しかし,私たちはこれからも宣教を続けます」とも述べています。
[11ページの囲み記事/図版]
ポーランドにおける殉教
1944年にドイツ軍が足早に撤退し,前線がポーランド東部のある町に近づいていたとき,占領軍は一般市民に対戦車用の塹壕を強制的に掘らせようとしました。エホバの証人たちはそれに加わることを拒みました。バプテスマを受けて2か月しかたっていなかった一人の若い証人ステファン・キルイウは無理やり作業班の中に入れられましたが,勇敢に同様の中立の立場を取りました。キルイウ兄弟の忠誠を破らせようとして様々な手段が講じられました。
裸にされて沼地の中の木に縛り付けられ,ぶよなどの虫のえじきにされました。兄弟がそうした幾つもの責め苦に耐えたので,彼らは拷問をやめました。ところが高官が作業班の視察に来た時にだれかが,頑として命令に従わない者が一人いるとその高官に告げたのです。ステファンは塹壕を掘るよう3度命令されますが,シャベルを手に持つことさえ拒みました。兄弟は射殺されました。それを見ていた幾百人もの人が兄弟を個人的に知っていました。キルイウ兄弟の殉教は,エホバが強い力を与えることができるということを証しするものとなりました。
[7ページの図版]
アナーニー・グローグル
[10ページの図版]
イェジー・クレシャ