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目ざめよ! 1995
目95 10/22 12–16ページ

私の人生を変えた一発の銃弾

親が子供にしてやれる最善のことは,創造者に関する知識と,創造者に仕えたいという願いを子供の心に浸透させることです。私がこの事実を認識してきたのは,まだ十代だった時に私の身に降りかかった悲劇のためでした。

その時,つまり今から20年余り前にあることが起きたのですが,それを説明する前に,米国南部での私の生い立ちについて少しお話ししましょう。それは,私が打ちのめされそうな逆境にどう対処し得たかということに直接関係があるからです。

私の人生を形造ったもの

私は,1955年1月にアラバマ州のバーミングハム ― 人種差別の見られる米国最南部地方 ― で生まれました。私がまだ8歳だった時,我が家の近くで爆弾が爆発し,日曜学校が開かれていた教会は粉砕されました。私と同じ年ごろのおびえた黒人の子供が大勢,悲鳴を上げながら外に飛び出しました。血を流している子,うめいている子もいました。4人が死亡しました。白人たちに殺されたのです。

南部では,そういった悲惨な出来事は珍しくありませんでした。翌年の夏には,ミシシッピ州で市民権運動の活動家が3人殺されました。当時は人種騒動の生じる恐ろしい時代で,私たちはみな影響を受けました。

母はエホバの証人でした。1966年には,父もエホバの証人になりました。間もなく私たちは家族全員で,聖書に基づく平和な新しい世の希望を近所の人々に伝えるようになりました。(詩編 37:29。箴言 2:21,22。啓示 21:3,4)1960年代の終わりごろには,夏になると毎週土曜日に,バーミングハム郊外のまだ一度も伝道されていない区域へ出かけて行って宣べ伝えました。区域の人々は,エホバの証人についても,私たちの伝える王国の音信についても聞いたことが全くありませんでした。エホバという神のみ名さえ知りませんでした。(詩編 83:18)問題の多い当時の世の中で,この腐敗した古い世を地上のパラダイスに置き換えるというエホバの目的について人々に話すのは,私にとって本当に楽しい経験でした。―ルカ 23:43。

人生の目標を定める

1969年12月,私はエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けました。私はエホバに祈り,全時間宣教を生涯の仕事として追い求めることが心からの願いであることをお話ししました。それから数週間後,父は,バーミングハムから数キロ離れたアダムズビルにある,小さな会衆を援助するよう割り当てられました。このように区域が変わったことで,開拓者,つまり全時間奉仕者になりたいという気持ちはますます強くなりました。高校在学中はずっと,機会があるたびに一時開拓奉仕を行ないました。この奉仕をするには,毎月少なくとも75時間を宣教に充てることが必要でした。

私は,卒業後に行なう全時間宣教に備えて技術を身につけることにしました。しかし,高校の最終学年のとき,一つの難問にぶつかりました。優秀な成績を収めた生徒のグループがあって,私もその中に入っていました。それで,ある日のこと,幾つかの学力テストを受けるため,近くの大学に連れて行かれました。その後,指導教官室に呼ばれました。指導教官は私のことで興奮し,喜んでいました。「あなたの成績は抜群だったわ。どんな大学でもより取り見取りですよ」と叫ぶように言いました。そして,すぐに奨学金申込書に記入するようにと言いました。

そんなことを言われるとは思ってもいなかったので,私は動揺しました。それですぐに,全時間奉仕者になる計画を立てていること,普通のパートタイムの仕事を探して自活しながら宣教を行なうつもりでいることを説明しました。また,将来は,ほかの証人たちのように,外国で宣教者として奉仕できるかもしれないということも話しました。ところが,私の話は指導教官の耳に入らなかったかのようでした。教官は,私に科学を専攻することを勧め,もし,地元の大学へ行くのであれば,科学センターでの仕事を世話してもいいと言いました。

教官は,「グロリア,宗教活動は週末だけになさい。それでも,ご両親はあなたを誇りに思われるはずよ」と言いました。私が両親に言われて全時間宣教という目標を立てたと思い込んでいる様子だったので,私は侮辱されたように感じました。教官は,私がこの大きなチャンスをとらえようとしないで,黒人全体に背を向けているかのように,私に圧力を感じさせたのです。それでも,私は自分の立場を固く守りました。卒業後は,大学教育を追い求めることはせずに,パートタイムの秘書の仕事を始めました。

私は開拓奉仕のパートナーを探しましたが,見つかりませんでした。旅行する監督が会衆を訪問してくださったとき,私はその問題を兄弟に話しました。兄弟は,「パートナーはいりませんよ」と言って,予定表を書いてくださいました。それに従えば,世俗の仕事の責任も果たせますし,開拓奉仕をする時間も十分にとれます。申し分のない予定表だと思いました。私は大喜びで,1975年2月1日を,開拓奉仕開始の日と決めました。

ところが,それから数日後の1974年12月20日のことです。コンビニエンスストアから歩いて帰宅する途中,私は流れ弾に当たりました。

生死の境で

地面に倒れていた私には,流れ出る自分の血が実際に見えました。自分は死ぬんだ,と思ったのを覚えています。私はエホバにお願いしました。エホバに仕えることに全精力を傾けている家族にもこうした壊滅的な事故が起こり得るということを,せめて母に分からせてあげる間だけでも私を生かしておいてください,と。私たちは,「時と予見しえない出来事とは彼らすべてに臨む」という聖句はよく知っていましたが,これほどの大惨事に対処する心構えはできていないと思ったのです。―伝道の書 9:11。

銃弾は私の首の左側に当たり,脊髄神経を切断してしまいました。言語と呼吸に影響が出ました。生きていられるとしても二日が限度と思われていました。その次には「2週間」と言われました。しかし,私は生き長らえました。肺炎を起こしたので,さらに複雑な人工呼吸装置のほうへ移されました。やがて容態は安定するようになり,リハビリテーションの計画が立てられました。

リハビリテーションという試練

最初の数週間は,私は落胆していませんでした。感情が麻痺していて何も感じなかったのです。バーミングハムにあったスペイン・リハビリテーションセンターの人はみな親切で,私のために尽力してくれました。医師の予想では,私はこれから一生,全身麻痺で寝たきりになるということを,私はセンターの職員から聞いて知るようになりました。私は,重度C2の四肢麻痺患者とされました。ということは,一生,人工呼吸装置を着けたままになり,話もささやく程度にしかできないだろうと考えられていたということです。

私は,医師たちが私の気管に埋め込んだ管を通して呼吸していました。後に,肺の専門医が少し小さめの管を入れ,それで私が話せるようになるかどうかを見ました。しかし,管の大きさを変えても何の変化もなかったので,医師たちは,私が話せないのは神経の損傷に原因があると考えました。私が落ち込むようになったのはそのころです。だれが何を言っても,気分は晴れませんでしたし,優しい言葉をかけられても,侮辱されているように感じました。ですから,よく泣いていました。

私は,何かのために霊性が落ちているときは,二つのことが助けになることに気づきました。あきらめずにエホバに祈ることと,宣教に打ち込んで聖書の真理を他の人に伝えることです。(箴言 3:5)祈るほうは簡単でした。私にもできました。でも,私のような状態で,どうすれば宣教にもっと活発に携われるでしょうか。

私は家族に頼んで,「ものみの塔」誌や「目ざめよ!」誌のほか,「とこしえの命に導く真理」,「真の平和と安全 ― どこから得られるか」,「今ある命がすべてですか」など,その時宣教で用いていた聖書研究の手引き書を持ってきてもらい,部屋のあちこちに置いておきました。職員の人たちはよく,かわいそうにという表情で私を見ては,「何かしてほしいことはない?」と尋ねました。

私は1冊の文書のほうに視線をやり,唇だけを動かして,その文書を読んで聞かせてほしい,とその人に頼みました。そして,その人が文書を読んだ時間を自分の宣教の時間に数えました。本を読んでもらったお礼に,私は大抵,本や雑誌をプレゼントし,それを自分の文書配布数に入れました。だれかがもう一度本を読んで聞かせてくれた場合は,それを再訪問として数えました。こういう方法で宣教にあずかることに加えて,心温まるカードやお花をいただいたり,クリスチャンの兄弟姉妹が大勢お見舞いに来てくださったりすることで,私はいつも元気づけられました。

リハビリを始めて数か月すると,頭をほんの少し上げられるようになりましたが,私はもっと動けるようになってみせる,と考えていました。それで,物理療法や作業療法の時間を増やすことをお願いしました。車椅子に乗りたいと言ったところ,それは不可能だと言われました。まっすぐ座れるほど自分で首をきちんと支えられないからです。でも,私は,とにかくやってみてくださいと頼みました。

医師の許可が下りたので,療法士の責任者が,私を起き上がらせ,車椅子に乗せるのを手伝ってくれました。私は胸からウエスト,腿から膝,膝から足の先まで,エース印の包帯でぐるぐる巻きにされました。まるでミイラのような格好でした。これは,私の血圧を安定させ,ショック症状が起きないようにするための事前の策でした。何と,試みは成功でした。とはいえ,車椅子に座るのを許されたのは,1回に1時間だけでした。それでも,57日間も寝たきりだったのが,座れるようになったのです。

ついに我が家へ

5か月という長い月日を経て,ついに,気管に入っていた管が取り外され,帰宅許可が下りました。それは,1975年5月のことです。その後は,リハビリテーションセンターに通って治療を受けました。1975年の夏には早くも,車椅子でクリスチャン宣教に出かけるようになりました。たくさんのことはできませんでしたが,少なくとも,友人たちと一緒に宣教に出ることができたのです。

1976年の初めごろ,私のリハビリの資金を提供している機関,VRS(社会復帰職業訓練サービス)による再評価があるので,それを受けに行くようにと言われました。私は,自分では良くなっていると思っていました。筆を口にくわえて絵を描くことを学んでいましたし,同じように棒を使ってタイプを打ったり,鉛筆で幾らか字を書いたりすることも学び始めていたからです。VRSは私の治療費のほとんどを負担していましたから,私が就職口を見つけて,社会の生産性に貢献する人の一人になるのを手助けしたいと考えていました。

最初のうち,アドバイザーは理解があるように見えましたが,やがて,私にもっと大きな声で話してみるようにと言い始めました。その時の私は,ささやくよりはほんの少しましぐらいの声でしか話せなかったのです。それからその人は,「まっすぐ座れないの」と尋ねました。

それもできませんでした。

「指を1本だけ動かしてごらん」と言いました。

私がそれもできないことが分かると,その人は持っていたペンを机にたたきつけ,いらいらした口調で,「この役立たず!」と言いました。

私は,家に帰って電話連絡を待つように言われました。私にはその人のジレンマが分かりました。スペイン・リハビリテーションセンターの患者で,できることが私ほどひどく限られている患者はかつて一人もいなかったのです。同センターで使用されている設備は非常に高くつきましたし,決定をゆだねられていたこのアドバイザーには,これほど何もできない患者をどう扱うべきかについてのガイドラインがなかったのです。それでも,役立たずと言われて私の心は傷つきました。自分でもそう思い始めていたからです。

数日後,私がリハビリプログラムから外されたとの電話がありました。私は見捨てられたように感じました。そしてこのことで,またひとしきり落ち込むことになりました。

失意を克服する

私はそのとき,「あなたの重荷をエホバご自身にゆだねよ。そうすれば,神が自らあなたを支えてくださる」という,詩編 55編22節の聖句のことを考えました。私が心配だったのは,両親に金銭的な負担をかけることでした。それで,そのことをエホバに祈りました。

気落ちした状態は,体にも悪影響を及ぼしました。それで,その夏の地域大会の時にはまっすぐに座ることができず,横になってプログラムを聴きました。1976年のその大会で補助開拓奉仕の取り決めが発表され,私は聞き耳を立てました。宣教に毎月わずか60時間,つまり1日平均ほんの2時間費やすだけで,補助開拓奉仕が行なえるのです。私にもできると思いました。その後,私は妹のエリザベスに,補助開拓をするのを助けてくれるように頼みました。妹は私が冗談を言っていると思っていましたが,私が8月に補助開拓奉仕の申込書を提出すると,妹も申込書を出しました。

エリザベスは朝早く起きて,私の身の回りの世話をしてくれました。それから,二人で電話での証言を始めます。これは,人々の家に電話をかけ,神がご自分の王国の支配のもとで人々のために用意しておられる祝福について話し合うという奉仕です。また私たちは,特に慰めを必要としている人々に手紙を書きました。週末になると,家族か友人が,私を車椅子に乗せて家から家の宣教に連れて行ってくれました。もちろん,私は手足が全く使えませんから,王国の音信を語ったり,聖句を引用したり,ほかの人に聖句を読んでもらったりする以外は,何もできませんでした。

その月の最後の日になって,要求の60時間を達成するまでに,あと6時間奉仕する必要がありました。その日はエリザベスに助けてもらえなかったので,母に頼んで,車椅子の背もたれを一定の位置にして,私がまっすぐ座っていられるようにしてもらいました。それから,棒を口にくわえ,タイプライターで6時間手紙を書きました。驚いたことに,何も悪い症状は出ませんでした。ただ,くたくたになっただけでした。

祈りが聞き届けられる

翌週,私は車椅子にまっすぐに座って,スペイン・リハビリテーションセンターへ検査を受けに行きました。その年の初めに私がリハビリプログラムから外されて以来,久しぶりに私に会った担当医は,目を丸くしていました。私の回復ぶりが信じられなかったのです。「何をしていたんですか」と医師は尋ねました。私がまだ宣教のことを話し終わらないうちに,担当医は仕事を紹介してくれました。

担当医の助手は私との面談で,私が宣教でどんなことを行なっているかを知り,感心していました。そして私に,モデル患者プログラムと呼ばれる計画に加わることを求めました。このプログラムに入ると,ある患者に自分を合わせて援助することになります。その助手は私たちの宣教に触れ,「いずれにせよ,これはあなた方がなさっていることよね?」と言いました。私は,私と同じくらいのことしかできない,ある患者さんを援助する割り当てを受けました。

私が家族の助けを借りながら宣教で成し遂げている事柄が,なぜかVRSの耳に入りました。VRSはたいそう感銘を受け,私をリハビリプログラムに復帰させることが提案されました。つまり,私の家族は,私が活動を続けてゆくのに必要な特別な設備や介護に支払うお金を支給されることになるのです。私は,神が私の祈りを聞き届けてくださったのだと思いました。

容態が安定する

私は,首を上げたり回したり,また,まっすぐに座ったりできるほど回復しました。感謝すべきことに,言語能力もほとんど完全に回復しました。棒を口にくわえてものを書いたり,タイプを打ったり,スピーカーホンを操作したり,絵を描いたりすることができます。私の作品の中には,口で描いた絵の展覧会に出品されたものもあります。また,あごで操作できるモーター付き車椅子に乗って動き回ってもいます。我が家のバンには電動リフトが付いていて,それが私の車椅子を持ち上げてバンに載せてくれます。このリフトのおかげで,私は事実上,どこへでも行きたい所へ連れて行ってもらえます。

私には呼吸器系の問題が幾つもありました。肺炎の脅威はいつもつきまとっています。夜,酸素が必要になることもあります。1984年には,病菌感染から来た合併症のため,もう少しで死ぬところでした。何度か入退院を繰り返しましたが,それ以後,健康は回復しました。1976年から,年に一,二回,何とか補助開拓奉仕を行なうことができました。それでも,まだ満たされない気持ちでした。十代のときに抱いていた,そしてあの銃弾に邪魔されてしまった計画のことを考え続けていたのです。

目標に到達する

1990年9月1日,ついに私は全時間開拓者の隊伍に加わることができ,子供のころからの念願がかないました。冬の寒い時期には,手紙を書いたり,スピーカーホンを使ったりして証言しますが,暖かい季節になると,家から家の宣教にも参加します。また,一年を通じ,家からスピーカーホンを使って聖書研究を司会しています。

私は,パラダイスとなる地上でのすばらしい将来を待ちわびています。その時,キリスト・イエスとエホバ神は,私をこの車椅子から解放してくださるのです。みなぎる健康や,『雄鹿のように登って行く』力を約束してくださったエホバに日々感謝しています。(イザヤ 35:6)私は,どこまでもどこまでも,これまで長いこと走れなかった分まで,走れるだけ走るつもりです。その次には,乗馬も習うつもりです。

その時を待ちながら,エホバの幸福な民の一人であり,また,宣教に十分あずかれることから来る,言い尽くせぬ喜びを今でも味わっています。―グロリア・ウィリアムズの語った経験。

[15ページの図版]

私のクリスチャン宣教 ― 家から家の訪問,電話による証言,手紙を書くこと

[16ページの図版]

私の作品は,口で描いた絵の展覧会に出品された

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