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  • 今では,生きていてよかったと思っています
  • 目ざめよ! 1997
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目ざめよ! 1997
目97 4/22 20–23ページ

今では,生きていてよかったと思っています

「死んでしまうんですよ。分かっているんですね」と医師は言いました。皮肉なことに,私は以前に死を救いと思い,死にたいと思ったことが2度あります。しかし,今度はそうではありません。そのことについてご説明しましょう。

私は,ニューヨーク市郊外のロングアイランドで育ちました。父はその地で人気のあるカーレーサーでした。完全主義者で,競技を生きがいにしていました。また,気難しく,とても機嫌の取りにくい人でもありました。母のほうはもっと穏やかで,もの静かな人でした。母は,父がレースに出るのがとても怖く,レースを見に行けませんでした。

幼いころから兄と私は,家では目立たないようにしていることを覚えました。それは母がすでに行なっていたことでしたが,かなり努力のいることでした。皆は父を恐れて暮らしていました。そうした事情のために,自分が何かをまともに行なえると感じたことは一度もありませんでした。十代の初めに,家族の友人とされていた人から性的ないたずらを受け,私はいよいよ自尊心を失いました。自分の感情に対処できなくなって,自殺を図りました。これが,死を救いと感じた最初のときです。

自分が無価値で,愛されていないと感じ,摂食障害に陥りました。自尊心をなくした若い女性によくあることです。私はスリルを追い求め,薬物の乱用,淫行,妊娠中絶といった生活を送るようになりました。歌の文句にもあるとおり,「誤ったところにひたすら愛を求め」たのです。オートバイ,自動車レース,スキューバ・ダイビングに夢中になり,またギャンブルをしに何度もラスベガスに行ったりもしました。また,心霊術に伴う危険も知らず,占い師に助言を求め,面白半分にウィジャ盤を使っていました。―申命記 18:10-12。

スリルを求めて,麻薬の取り引きや万引きなど違法な行為にかかわるようにもなりました。愛されたい,認めてもらいたいとの願いは結局,次々とボーイフレンドや婚約者をこしらえてゆく結果になりました。こうした事柄すべてが相まって,自分が意識していたよりはるかに危険な生き方になっていました。

ある晩,レース場のピットでアルコール飲料と麻薬をいっしょに飲み,愚かにも,ボーイフレンドに車で家まで送ってもらうことにしました。私が車の助手席で意識を失った後,彼も同じようになったようです。衝突の衝撃ではっと気づきました。体じゅうにけがを負って入院しましたが,やがて回復でき,右ひざに傷が残っただけでした。

より良いものへの願い

自分の命に対する感謝の念の薄かった私でしたが,子供や動物の安全や権利,また環境の保護にはとても関心がありました。より良い世界を見たいと切望し,そうした世界を造り出そうといろいろな組織で活動しました。エホバの証人であった仕事仲間の語った事柄に初めて引き付けられたのも,より良い世界に対するそうした願いからでした。その同僚は,仕事のことで何かうまくいかなかったりすると,いつも不満げに,「この体制」と言っていました。どういう意味なのかと聞くと,生活に全く思い煩いのない日が間もなく来ると説明してくれました。私は彼女をとても尊敬していたので,関心をもって耳を傾けました。

残念ながら,私たちは接触の機会がなくなりましたが,彼女の語ったことは決して忘れませんでした。神に喜ばれるには,いつか自分の生き方を大きく変えなければならないことに気づいていました。しかし,その用意ができていませんでした。それでも,結婚相手となりそうな人たちには,自分はいつかエホバの証人になる,それが気に入らないなら,今のうちに別れましょう,と告げたものです。

その結果,最後のボーイフレンドは,君に関心があることならきっと自分も関心があると言ってもっと知りたがりました。それで,私たちは証人たちを探しはじめました。ところが,証人たちのほうが戸口に訪ねて来て,私たちを見つけてくれたのです。聖書の研究が始まりました。しかしやがて,ボーイフレンドは研究をやめ,自分の奥さんのところに戻って行きました。

聖書の研究はいつもきちんとできたわけではありません。命の神聖さに対するエホバの見方を認識できるようになるまでには時間がかかりました。しかし,いったん考えが調整できると,スカイダイビングの旅行は取りやめ,喫煙もやめなければならないことに気づきました。命の貴重さがさらに分かるにつれ,もっと落ち着いた生活をして,危険なことはもうやめようと思うようになりました。1985年10月18日,私はエホバへの献身の象徴として水のバプテスマを受けました。が,そのすぐ後に自分の命が危うくなるなどとは少しも知りませんでした。

再度死を願う

数か月後の1986年3月22日の晩,私が自宅の前にいて,洗濯してきたものを車から取り出していたその時,猛スピードで走ってきた車にはねられ,30㍍余りも引きずられました。ひき逃げに遭ったのです。頭部にけがを負ったものの,その時ずっと意識はありました。

暗い道のまん中にうつ伏していた私は,もう一度車にひかれてしまうかもしれないという恐怖でいっぱいでした。あまりに激しい痛みで耐えられないほどでした。それで私は,死なせてくださいと何度もエホバに祈りました。(ヨブ 14:13)そこへ一人の女性が現われましたが,その人はたまたま看護婦さんでした。私は,その人に両脚の位置を直してくださいと頼みました。脚がつぶされていたのです。その人はそうしてくれました。そして,自分の服の一部で止血帯を作り,複雑に骨折した一方の脚から流れ出る血を止めてくれました。私のブーツは一区画も離れたところで見つかりましたが,血でいっぱいでした。

通りがかった人たちは,私が歩行者だったとは気づかず,車はどこなのかとしきりに尋ねます。自分がどれほど引きずられたのかを知らず,まだ車のそばにいるものと思っていました。救急医療隊員は到着したとき,私が死ぬと思ったようで,警察官を呼びました。車で人を死亡させた場合,重罪になるからです。結局,運転者は逮捕されました。警察は,犯行の現場としてその周辺一帯にロープを張り,私の車を証拠物件として押収しました。車の片側のドアは二枚とももぎ取られていました。

危機に直面する

その間に私は地元の外傷センターに運ばれ,酸素マスクをつけられても,「輸血しないでください。輸血しないでください。エホバの証人なんです」と繰り返していました。最後に覚えているのは,衣服を切る大きなはさみが背中をのぼっていくのを感じたこと,医療チームの人たちが懸命になって大声で指示を飛ばしているのが聞こえたことです。

目が覚めたとき,自分が生きているので驚きました。意識と無意識の間をさまよいました。目を覚ますたびに,私と聖書を研究してくれていた夫妻に連絡を取ってほしいと家族の者に頼みました。家族は,私がエホバの証人になったことを快く思っていなかったので,その夫妻に連絡するのを都合良く「忘れた」のです。でも,私は願いつづけました。目を開けるといつも,まず頼んだのはそのことでした。頼みつづけたかいがあって,ようやくある日,目が覚めると,そこに二人がいました。本当にほっとしました。エホバの民は,私がどこにいるかを知っていてくれたのです。

しかし喜んだのもつかの間,血球数が下がりはじめ,高熱が出ました。感染を引き起こしているとみなされた骨が切除され,4本の金属棒が脚に入れられました。しかし,またすぐに高熱が出て一方の脚が黒ずんできました。壊疸がはじまったのです。助かるには,その脚を切断しなければなりません。

輸血をするようにとの圧力

血球数が激減し,輸血なしには手術はできないと考えられ,私を説得するために医師や看護婦,家族,昔からの友人たちが呼ばれました。それから,病室のドアのところでひそひそ話が始まりました。医師たちが何かを計画しているのを耳にしましたが,それがどんなことなのか分かりませんでした。幸い,そのとき見舞いに来ていた一人のエホバの証人が,私に無理やり輸血させようという計画を耳に挟みました。彼女はすぐに地元のクリスチャンの長老たちに連絡し,長老たちは助けに来てくれました。

私の精神状態の鑑定のために精神科医が雇われました。それは法的無資格者と診断して,私の願いを無効にするためであることは明らかでした。その計画はうまくゆきませんでした。それから,自分でも輸血を受けたことのある僧職者が呼ばれ,血を取り入れてもよいのだということを私に納得させようとしました。最後に,私の家族がむりにでも輸血をさせようとして裁判所の命令を取り付けようとしました。

午前2時ごろ,医師の一団,裁判所の速記者,執行吏,病院側の弁護士,そして判事が病室にずかずかと入ってきました。裁判が始まりました。私は事前に何の連絡も受けておらず,聖書もなく,代理人もおらず,おまけに痛み止めの薬を大量に投与されていました。裁判の結果はどうだったでしょうか。判事は,それまでにもましてエホバの証人の忠誠に深い感銘を受けたと述べ,裁判所命令を出しませんでした。

ニュージャージー州カムデンの一病院が私の件を扱うことに同意してくれました。ニューヨークのほうの病院管理者はひどくいきり立っていて,鎮痛剤の投与を含めすべての治療を取りやめ,私をニュージャージーの病院に運ぶヘリコプターの着陸許可も出しませんでした。ニュージャージーの病院までは救急車で運ばれましたが,感謝すべきことに,無事それに耐えることができました。「死んでしまうんですよ。分かっているんですね」という,この話の冒頭の言葉を耳にしたのはその病院に着いた時のことでした。

手術の成功

私はとても弱っていて,手術の許可書に同意するXマークを付けるにも看護婦の助けがいるほどでした。右脚は,ひざ上のところで切断しなければなりません。しかしその後,ヘモグロビン値が2より下がり,医師たちは重い脳障害が出たのではないかと疑いました。耳元で,「バージニア,バージニア」と呼んでも返答しなかったからです。それは入院許可書に記入されていた私の名前でした。ところが,それからしばらくして,「ジンジャー,ジンジャー」と優しくささやく声を聞き,目を開けると,それまで一度も会ったことのない紳士がいました。

ニュージャージーの地元のエホバの証人の一会衆から,ビル・ターピンが来てくれたのです。この人は,ニューヨークの証人たちから,ジンジャーという私のニックネーム ― それまでずっとその愛称で知られていた ― を聞いていたのです。彼は,私がまばたきだけで答えられる質問を考えてくれました。私には呼吸装置がつけられていて,全く話せなかったからです。「これからも私に来てもらいたいですか」,「あなたのことをニューヨークの証人たちに伝えてほしいですか」と尋ねてくれました。いくらまばたきしても,し足りない気持ちでした。ターピン兄弟はあえて目立たぬようにして病室に来てくれたのです。私の家族が,証人たちの見舞い客にはだれにも会わせないようにしたからです。

入院して6か月たっても,自分だけでは,食事を取ったり歯を磨いたりといった日常の基本的な活動しかできませんでした。やがて,義足をつけてもらい,歩行器を使って少し歩き回れるようになりました。1986年9月に退院して自分のアパートに戻りましたが,その後半年ほどは,ヘルスワーカーの人がアパートに寝泊まりして,私を助けてくれました。

兄弟たちからの助け

自宅に戻る前にも,クリスチャンの兄弟関係の一部であるとはどういうことかを深く認識するようになりました。(マルコ 10:29,30)兄弟姉妹たちは,身体面の必要だけでなく,霊的な面で必要なものについても愛をこめて世話してくれました。その兄弟姉妹たちの愛情深い援助を受けて,クリスチャンの集会に再び出席でき,やがて,補助開拓宣教と呼ばれる奉仕の活動にも参加できるようになったのです。

車の運転者を相手に起こした私の民事訴訟は,普通なら公判日程にのるだけで最低5年はかかるのに,数か月で解決し,弁護士も驚くほどでした。和解金で,自分にとってもっと住みやすい家に引っ越すことができました。さらに,車いす用リフトや手だけで運転できる装置の付いたワゴン車を購入しました。こうして,1988年に正規開拓者の隊伍に加わり,宣べ伝える業に毎年少なくとも1,000時間をささげています。これまで幾年もの間,ノースダコタ州,アラバマ州,ケンタッキー州の区域での奉仕を楽しみました。ワゴン車で15万㌔以上を走破しましたが,そのほとんどはクリスチャン宣教のためです。

電動三輪スクーターでの楽しい経験もたくさんあります。旅行する監督の夫人と奉仕していた時に,スクーターをひっくり返してしまったことが二度あります。一度はアラバマでのことですが,スクーターで小川を飛び越せると考え違いをし,結局は地面に倒れて泥まみれになりました。それでも,ユーモアのセンスを持ち,自分のことをあまり深刻に考えないことによって,いつも積極的な態度を保つことができました。

確かな希望によって支えられる

時には,健康上の問題で圧倒されそうになることもあります。数年前,二度にわたり開拓奉仕を中断しなければなりませんでした。もう一方の脚も切断しなければならないかと思えたからです。自分の脚を失う恐れは今でも絶えずあり,最近5年は車いすに座ったきりの生活です。1994年には腕を骨折しました。入浴,着替え,料理,掃除に助けが必要になり,どこへ行くにも運んでもらわなければなりませんでした。しかし,兄弟たちの援助のおかげで,こうした後退の間も開拓を続けることができました。

これまでの人生で,私はスリルと思えたものを求めてきましたが,今では,最もスリリングな時代はこれから前途にあることを知っています。足早に近づくご自分の新しい世において,神が現在の疾患すべてをいやしてくださることを確信しており,それは今生きていることを幸福にしてくれます。(イザヤ 35:4-6)その新しい世で,私はクジラやイルカと一緒に泳ぎ,ライオンの親子と山を探検し,あるいは浜辺を歩くといった簡単なことをするのも楽しみにしています。神が私たちを創造し,その地上の楽園で楽しめるようにしてくださったすべての物事を行なっているところを思い描いてみると,本当にうれしくなってきます。―ジンジャー・クラウスの語った経験。

[21ページの図版]

ギャンブルに明け暮れていたころ

[23ページの図版]

神の約束は私の支え

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