情報化時代に対応する
わたしたちは,1990年代に入ってからの情報化時代が今後も数多くの気がかりな面を生むであろうという点を受け入れてゆかなければなりません。ほとんど,あるいは全く御しがたい面もあります。一方,すべてではないにしても,そうした気がかりをかなり除くためにできることもいろいろあります。ですから,情報化時代を生き抜くのは,やりがいがあり,しかも報いのあることと言えるでしょう。
情報の受け手と与え手
自分についてそのような見方をしたことがあってもなくても,わたしたちは皆,生涯を通じてある程度まで,情報の受け手にも与え手にもなっています。一方,わたしたちの頭は,情報を様々な方法で受け取り,処理しています。一つの方法には,意識せずに情報を処理するという,脳の驚嘆すべき能力が関係しています。
別の方法には,例えば会話している時のように,意識的に情報を処理することが関係しています。受け手としても与え手としても,この種の情報処理はかなりの程度まで制御できます。無意味な会話に関して言えば,聖書は,「何もしないでいるだけでなく,うわさ話をしたり,人の事に手出ししたりする者となって,話すべきでないことを話(す)」人たちについて警告しています。(テモテ第一 5:13)つまり,無意味なこと,さらには有害な情報について話して取り留めなく時間を費やすようなことのないように,ということです。次から次へとうわさを追って過ごす人になってはなりません。貴重な時間とエネルギーの浪費であり,自分にも他の人にも不安を与えかねません。問題の多いこの世界を生き抜くため真に建設的で重要な情報を吸収し,また他の人に伝えるという機会を失うことにもなるでしょう。
読書によって収集された情報は,意識的に処理されるので,最も時間がかかります。「読みたいものが全部読めない」という焦りにかられた嘆きをよく耳にします。読むべきものが多すぎ,読む時間が少なすぎると感じますか。読むのは時間がかかるので,情報が即座に手に入る現代にあって,その技術と喜びは失われがちです。テレビに専ら時間を奪われている人はあまりにも沢山います。しかし文字となった言葉はやはり,想像力を刺激し,情報やアイディアや概念を伝達する上で最も強力な方法です。
読むべき物が非常に多くあり,テレビ,コンピューター・ゲーム,その他の娯楽ともかち合う時にはどうすればよいでしょうか。答えは,ふるい分けることです。聞いたり,見たり,言ったり,読んだりする必要のある事柄でも,それをふるい分け,より分け,あるいは優先順位を定めるなら,情報不安の多くを取り除けることでしょう。効果的なふるい分けは,二つのレベルで行なうことができます。
ささいな事柄がそれほど必要ですか
何が必要かについてのわたしたちの意識は,他の人の意見や,必要と思い込ませるメディアの宣伝技術によってゆがめられていることが少なくありません。入り組んだこの情報の迷路を通り抜けるには,簡素にするという基本ルールを適用することです。リチャード・S・ワーマンはそのことをこう述べています。「情報を処理する秘訣は,情報の分野を自分の生活に関係したものに狭めることである。……選択肢が多いほど適切な行動が取れ,より大きな自由を持てるというのは誤った通念だと思う。むしろ,選択肢が増えると不安も増すように思える」。
ですから,本を読んだりテレビを見たりする際に,自分の習慣を吟味してみるのは良いことです。こう自問してください。『これは自分の仕事や生活に必要だろうか。世界の有名人やいわゆる名士たちについてのささいな話やゴシップをすべて知る必要が本当にあるのだろうか。このテレビ番組を見ないなら,あるいはこの本やあの雑誌を読まず,新聞にそれほど多くの時間をかけないなら,自分の生活はどう変わるだろうか』。読み物やテレビの習慣を調べ直して,自分の思考や家庭をさえ乱していたものを取り除けた人もいます。そのような人は,例えば,購読する新聞を一紙だけにしました。大抵の新聞はいずれにしても,基本的には同じニュースを掲載しています。自分が求めたわけでもないダイレクトメールは郵便受けに入れないでほしいと具体的に要請した人もいます。
生活を簡素ですっきりとしたものにしておくことは,これまでに生存した中で最も偉大な人と言うべきイエス・キリストが説いた点でした。(マタイ 6:25-34)アジアの多くの文化圏では簡素さが奨励され,たたえられていますし,西欧社会でもそれを優れた生き方と認める人は少なくありません。著述家のドウェイン・エルギンは,「簡素を求めて生きるとは,いっそうの目的意識を持って,気を散らす不要なものを最小限にして生きることだ」と述べました。
さて,自分に何が必要かについて情報を取り入れる順位を定めたなら,何に関心があるかという点からもそれを行なってください。関心は学習の動機となるからです。とはいえ,ここで問題になるのは,あなたが本当に関心を持つ事柄と,他の人,例えば職場の同僚などを喜ばせるために関心を持つべきだと考えがちな事柄とを区別することです。いずれにしても,他の活動を計画するのと同じようにして,読み物の時間,またテレビやコンピューターに費やす時間を計画できるなら,真に関心のある物事を中心に置くことによって生活がずっと快適になり,不必要な不安を持たずにすむことに気づくでしょう。
では,情報不安にどのように対応できますか。それを全く除くことはできないかもしれませんが,これまでざっと述べた幾つかの簡単なルールに従うことが大いに役立つでしょう。簡素さを保ち,自分自身の必要と関心にしたがって,情報を類別してください。情報に接する面での不安も含め,生活上の煩雑な事柄すべてが過去のものとなる時が来ようとしています。しかしそれまでの間は,現代の科学技術のさまざまな驚異をそのあるべき位置にとどめてください。それらを目的のための手段としてください。その僕となったり,それをあがめたりしてはなりません。そうすれば,有益な情報は,建設的で,励みを与え,益をもたらすものとなり,不安をもたらすようなことはないでしょう。
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バランスをとる
「ケーブル・テレビを解約し,……月々それと同じ額[のお金]を数冊の良書にあてる。本はテレビとは反対である。ゆったりしていて,人を引きつけ,ひらめきを与え,知性を刺激し,創造力をかき立てる」。
「インターネットの利用を毎週一定の時間に制限することや,少なくともインターネットに費やしたのと同じ時間を読書にあてることもできる」。―「データ・スモッグ ― 情報過多を生き延びる」。
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僕ではなく,主人になる
「テレビを消そう。生活のペース,家庭の平和,思考の内容を手早く取り戻すには,あまりにも多くの人の生活の雰囲気を作り出しているその装置を切るのが一番だ。オフスイッチを押すことからくる平穏と充実感を発見しているアメリカ人は無数にいる。それによって新たに得られた多くの自由な時間については言うまでもない。それを使って,以前には全く時間がなくてできなかった事柄をあれこれ始められるのである」―「データ・スモッグ ― 情報過多を生き延びる」。
[12ページの囲み記事]
インターネットにご用心
不道徳な人たちはインターネットを利用して倒錯した性を求め,喜んで相手になる人やだまされやすい世間知らずの人と接触しようとします。自分の個人的な話題を展開するためにインターネットを利用している人たちもいます。背教者たちもウェブ上にサイトを開設し,経験の浅い人を捕らえようとしています。
インターネットを利用する際には細心の注意が必要です。子供がそれを使う時には,当然ながら親はしっかり監督すべきです。調査用の書庫,書店,ニュース・チャンネルなど,有用な情報源は確かにたくさんあります。例えば,ものみの塔協会も最近,ウェブに独自のサイト(http://www.watchtower.org)を開設したことを発表しました。これは,エホバの証人についての事実に即した情報を提供するためのものです。とはいえ,インターネット上には,ポルノや背教をはじめ,極めて有害な影響を与えるものもあることを認めていなければなりません。
クリスチャンはパウロの次のような助言を銘記しているべきです。「それゆえ,わたしは主にあってこのことを言い,また証しします。すなわち,あなた方はもはや,思いのむなしさのままに歩む諸国民と同じように歩んではいません。……彼らはいっさいの道徳感覚を通り越し,貪欲にもあらゆる汚れを行なおうとして,身をみだらな行ないにゆだねたのです。しかしあなた方は,キリストがそのようであるとは学びませんでした」。(エフェソス 4:17-20)また,「聖なる民にふさわしく,あなた方の間では,淫行やあらゆる汚れまた貪欲が口に上ることさえあってはなりません。また,恥ずべき行ない,愚かな話,卑わいな冗談など,ふさわしくない事柄があってもなりません。むしろ感謝をささげなさい」とも述べられています。(エフェソス 5:3,4)不道徳で不正直な意図を持つ人たちによって開設されたサイトも多いことを認めなければなりません。また,チャット・グループなど,不道徳でも不正直でもないとはいえ,明らかに時間の浪費となるサイトも少なくありません。そうしたものすべてから離れていましょう。