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目ざめよ! 1998
目98 8/8 22–24ページ

ウィリアム・シェークスピアについての謎

英国の「目ざめよ!」通信員

ウィリアム・シェークスピアは,歴史上最も偉大な劇作家として一般に称賛されています。新ブリタニカ百科事典は,シェークスピアを「あらゆる時代の中で最も偉大な劇作家とみなす人は少なくない。彼の戯曲は……今日,他のどんな劇作家の作品よりも頻繁に,また多くの国で上演されている」と述べています。それらの作品は70以上の言語に翻訳されています。

シェークスピアが書いたとされる数多くの作品に関して,ワールドブック百科事典は,「著名なシェークスピア学者で,シェークスピアが戯曲や詩を書いたことを疑う人はいない」と述べています。ところが,それに異議を唱える人もいます。なぜでしょうか。

シェークスピアは,1564年にストラトフォード・アポン・エイヴォンで生まれ,52年後の1616年にそこで亡くなりました。基本的な,そして興味をかき立てる一つの疑問を解くため,長年忍耐強い研究を行なった後にシェークスピアのことを書いたという本は無数にあります。その疑問とは,作者の名前がシェークスピアとなっている文学作品を書いたのはウィリアム・シェークスピアなのか,というものです。

基本的な問題

シェークスピアの戯曲は,世間で得た並外れて豊かな経験を資本にしたものです。例えば,シェークスピアは,法律に精通しており,法律用語や判例を見事に使いこなしています。1860年にジョン・バックニル卿は,「シェークスピアの医学知識」(英語)という本の中で,シェークスピアは医学に造詣が深かったと述べています。狩猟や鷹狩りなどのスポーツ,それに宮廷の礼儀作法に関する知識についても同じことが言えます。シェークスピアは「あらゆることを知っていた作家」だったと,シェークスピア史家ジョン・ミシェルは言います。

シェークスピアの戯曲の中で難船のことが5回出てきますが,海事用語の使い方は,作者が経験ある船乗りだったことを示唆しています。シェークスピアは外国に行ったのでしょうか。海軍に徴兵されたのでしょうか。1588年にスペインの無敵艦隊を破る海戦に参加したのでしょうか。いずれもシェークスピアが作者であることを示すもののように思えますが,その証拠となるものはありません。軍事に関係した問題や歩兵ことばに精通していたことについても状況は似ています。

シェークスピア作品には,聖書からの引用が目立ちます。シェークスピアはそれを母親から教わった可能性もありますが,母親が字の読める人だったという証拠はありません。シェークスピアに聖書の知識があったということは,彼が受けた教育についての疑問を生みます。

文人?

ウィリアムの父親ジョンは,手袋商であり,毛織物を商い,そしておそらく肉屋でもあったと思われます。字は読めませんでしたが立派な市民でした。ストラトフォードのグラマースクールには在籍名簿はありませんが,今日の権威者のほとんどは,若者シェークスピアがそこに通っていたと考えています。何年か後,ウィリアムの友人で劇作家のベン・ジョンソンは,彼が「ラテン語を少し,ギリシャ語はもっと少し」しか知らなかったと述べています。これは,ウィリアムが初等教育しか受けていなかったことを暗示するものかもしれません。

それでも,それらの戯曲を書いた作家は,ギリシャやローマの古典,またフランス,イタリア,スペインの文学作品 ― そしておそらくそれらの言語 ― に精通していたと思われます。語彙も豊富でした。今日,十分な教育を受けた市民でも,会話をする際の語彙数が4,000語を超えることはほとんどありません。17世紀の英国の詩人ジョン・ミルトンは,その作品の中で約8,000語用いています。ところが,ある権威者は,シェークスピアの語彙は2万1,000語を下らないとみているのです。

書籍と原稿

シェークスピアの全財産は,3ページに及ぶ遺言書に注意深く記述されましたが,書籍や原稿には全く触れられていません。それらは長女スザンナに残されたのでしょうか。そうだとすれば,スザンナの末裔たちに分配されたに違いありません。この謎に興味をかき立てられた18世紀の一人の牧師は,ストラトフォード・アポン・エイヴォンの半径80㌔以内にある個人の蔵書をすべて調べました。しかし,シェークスピアの蔵書は1冊も見つかりませんでした。

戯曲の原稿は,さらに大きな疑問を生みます。原本が何も残っていないのです。戯曲36作品を載せたファースト・フォリオが,シェークスピアの死から7年後の1623年に出版されました。シェークスピアの生存中に海賊版が多数出版されていました。抜け目のない商人だったにもかかわらず,シェークスピアはそれらの出版の差し止めを求める訴訟を起こしていないのです。

ロンドンへ ― そして名声

劇団の巡業はエリザベス朝時代のごく普通の特色で,その幾つかが1587年にストラトフォード・アポン・エイヴォンにもやって来ました。もしシェークスピアが劇団に加わっていたとしたら,彼はその年の秋にはロンドンにいたことになります。シェークスピアが,後に国王一座として知られるようになるロンドンの主要な劇団,宮内大臣一座の一員になったことは分かっています。彼の運命は,首都に到着したときから変わったのです。シェークスピアは長年にわたり,ロンドンとストラトフォード・アポン・エイヴォンで不動産を購入しています。しかし,1583年から1592年 ― 重要な「失われた年月」― にかけての彼の活動に関する明確な記述はありません。

1599年,サザックにグローブ座が建てられました。それ以前に,シェークスピアの名のついた戯曲は,ロンドンで知られていたものの,彼がその著者として重視されることはありませんでした。ベン・ジョンソンやフランシス・ボーモントといった他の劇作家は,多くの儀式をもってロンドンのウェストミンスター寺院に埋葬されましたが,シェークスピアが死んだときには,盛大な葬儀は行なわれませんでした。

候補者たち

本当の作者,あるいは作者たちの名前を隠すために,シェークスピアの名前が使われたのでしょうか。人々は候補者と思われる人物を60人以上示唆してきました。その中には,劇作家クリストファー・マーロウ,a またウルジー枢機卿やウォルター・ローリー,エリザベス女王といった意外な名前も含まれています。理論家たちは,だれを一番有力視しているのでしょうか。

最初の候補者は,ケンブリッジ大学で教育を受けたフランシス・ベーコンです。ベーコンはシェークスピアより3歳年上で,著名な法律家また廷臣であり,多くの文学作品を書きました。シェークスピア作品の著者はベーコンであるという説が最初に唱えられたのは1769年ですが,その説は80年近く無視されていました。1885年,この論議を促進するためにベーコン協会が設立されて,その主張を支持する数多くの事実が提出されました。例えば,ベーコンはロンドンの北約32㌔にあるセント・オルバンズの近くに住んでいました。その町はシェークスピア作品の中に15回登場します。ところが,シェークスピアの故郷ストラトフォード・アポン・エイヴォンは一度も出てきません。

第5代ラトランド伯ロージャー・マナーズと,第6代ダービー伯ウィリアム・スタンリーの両者にも支持者たちがいます。二人は良い教育を受け,宮廷生活についても幅広い経験を持っていました。しかし,二人ともなぜ自分の作品を隠すのでしょうか。1939年にラトランド派の主張を論じた際,P・S・ポロホフシコフ教授は,「ラトランド伯の最初の幾つかの作品は匿名で,他のものは筆名のもとに出版された。それは単に,貴族が一般の劇場用に執筆するのは受け入れられていなかったからだ」と述べています。

シェークスピア作品は,幾人もの人がそれぞれの専門知識を加えながら書き上げたものではないか,と言う人もいます。一方,熟練した俳優だったシェークスピアは,他の人の戯曲を舞台用に編集したのでしょうか。シェークスピアは自分の原稿から『一行も削除した』ことがない,と言われています。もし,彼がほかの劇作家から贈られた原稿をわずかに手直しして編集していたとすれば,これもあり得ることです。

ある人々は,シェークスピアが原作者であることを疑いますが,その最大の理由は何でしょうか。ワールドブック百科事典は次のように指摘しています。人々は,「ストラトフォード・アポン・エイヴォン出身の俳優がそれらの作品を書くことができたとは信じないのだ。ごく普通の田舎を背景に持つシェークスピアは,それらの戯曲を書いた天才のイメージとは合致しなかった」のです。原作者と目される人たちは大抵,「貴族や上流階級に属する人物だった」と,同百科事典は付け加えています。ですから,シェークスピアが原作者であることを疑問視する人の多くは,「教養のある,社会的地位の高い,洗練された人にしか,それらの戯曲は書けない」と考えています。しかし,この記事の最初で述べたように,多くのシェークスピア学者は,シェークスピアが書いたと考えています。

この論争は間もなく解決するのでしょうか。そうではなさそうです。原本が見つかるとか,失われた年月を埋める事実が発見されるなどの新たな証拠が見つからない限り,「この最大の言葉の天才」ウィリアム・シェークスピアは,興味をかき立てる謎の人物のまま残るでしょう。

[脚注]

a 初期のシェークスピア劇が,クリストファー・マーロウの影響を受けていることは明らかですが,マーロウは1593年,29歳の時にロンドンで死去しました。マーロウが居酒屋でけんかをして殺されたという話は隠ぺい工作で,彼はイタリアへ行き,執筆を続けたのではないかと言う人もいます。マーロウの葬儀や埋葬に関する記録はありません。

[24ページの囲み記事]

読み書きの能力とその名前

ウィリアム・シェークスピアが6回署名したと思われる4通の書類が残っています。彼の名前は,部分的にしか読めませんし,スペルも一致していません。権威者たちの中には,シェークスピアの代わりに弁護士が遺言に署名したのではないか,と言う人もいます。それは一部の人に,ウィリアム・シェークスピアは字が読めたのか,という扱いにくい疑問を提起するものとなります。彼が書いた原稿は残っていません。娘のスザンナは,自分の名前を署名できましたが,それ以上のことができたという証拠はありません。シェークスピアと親密だったもう一人の娘ジュディスは,署名の代わりにマークを描きました。ジュディスは字が読めませんでした。シェークスピアがなぜ子供たちに,文学がもたらすお金では買えない益を楽しめるようにさせなかったのか,だれにも分かりません。

[23ページの図版]

初期のシェークスピア肖像画,しかし,実際にどのような顔をしていたのか分かっていない

[クレジット]

Encyclopædia Britannica/11th Edition (1911)

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