ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目98 10/22 31ページ
  • 彼はあきらめなかった

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 彼はあきらめなかった
  • 目ざめよ! 1998
  • 関連する記事
  • 彼らはあきらめないことを決意した
    目ざめよ! 1999
  • 生きることが容易でない時
    目ざめよ! 1994
  • 私は信仰によって,脳外科手術に立ち向かうよう助けられた
    目ざめよ! 1990
  • 医療上の緊急事態に臨む
    目ざめよ! 1996
もっと見る
目ざめよ! 1998
目98 10/22 31ページ

彼はあきらめなかった

マット・タピオは脳幹にできた腫瘍を摘出する手術を受けました。それは1995年10月5日,14歳の時でした。その結果,悪性腫瘍であることが分かりました。マットはこの手術をはじめとして,その後2年半にわたり何度も手術を受け,化学療法と放射線治療がそれに続きました。

マットは米国ミシガン州に住んでいて,公立学校とクリスチャンの集会に行っていました。機会をとらえては,自分の信仰について教師やクラスメートに話したり,公の宣教で他の人を訪問したりしていました。マットは入退院 ― 人生最後の2年半の間に18か月入院した ― を繰り返しましたが,入院中に出会った人たちに聖書文書を何百冊も配布しました。

マットはもうだめかもしれない,と思えることが何度もありました。しかし,その度に持ち直しました。一度,病院に向かう途中で発作を起こし,呼吸が停止したことがあります。ただちに心肺蘇生術が施され,再び呼吸をするようになりました。マットは意識が戻ると,泣き出し,「僕は闘うんだ。闘うんだ。あきらめないんだ」と大きな声で言いました。マットがこれほど長く生きられたのは,神への信仰があったからだと人々は言います。

1996年1月13日に念願がかない,マットはエホバ神への献身の象徴としてバプテスマを受けました。感染の危険があったため,個人のプールでバプテスマが施されました。その数日後,マットはまた手術を受けるために病院に戻りました。1997年8月,マットは何週間も嘔吐が止まりませんでした。しかし,さらに手術を受け,病状が安定するようになりました。

こうした間中,マットは優れたユーモアのセンスを示し,医師や看護婦たちと冗談を言ったりしていたのです。医師や看護婦たちは,どうしてマットがすばらしいユーモアのセンスを持てるのかが理解できませんでした。一人の医師はマットにこう言いました。「マット,もしわたしが君だったら,カーテンを閉め,毛布を頭からかぶって,あっちへ行けとみんなに言っているだろうな」。

1998年2月にマットは病院から自宅に戻りましたが,それが自宅に戻る最後の機会となりました。マットは自分が生きていること,そして自分の家に居られることにひどく興奮し,玄関に入るなり,「ものすごくうれしいよ。お祈りしよう」と言いました。それから,祈りの中で自分が幸福だということをエホバに言い表わしたのです。その2か月後,4月19日にマットは結局ガンのために亡くなりました。

マットが亡くなる前,テープに録音されたマットへのインタビューが,エホバの証人の地元の王国会館の集会で流されました。マットに次のような質問がされました。「ある程度健康に恵まれている人たちに対して,宣教やクリスチャンの集会に関して何か言いたいことがありますか」。

マットはこう答えました。「今自分にできることを行なってください。……何が起きるか分かりません。……でも,どんなことが起きても,エホバについて証言するのを止めないでください」。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする