ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 目01 11/8 14–18ページ
  • カルタゴ ― ローマを脅かした都市

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • カルタゴ ― ローマを脅かした都市
  • 目ざめよ! 2001
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 都市の創建
  • 帝国の揺らん期
  • バアルの加護の下で
  • 覇権をめぐる激しい争い
  • ポエニ戦争
  • 「デレンダ・エスト・カルタゴ!」
  • “アフリカのローマ”
  • 子供の犠牲 ― なぜそれほど忌むべきことか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1986
  • その6 ― 6番目の世界強国 ― ローマ
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1988
  • これほど多くの宗教団体がみなクリスチャンととなえるのはなぜですか
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1983
  • 聖書を破壊する
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1962
もっと見る
目ざめよ! 2001
目01 11/8 14–18ページ

カルタゴ ― ローマを脅かした都市

フランスの「目ざめよ!」執筆員

アフリカの北岸,チュニジアの首都チュニスの外れに,古代都市カルタゴの廃墟があります。大して目を引くものもないので,観光客がそれにまったく気づかないとしても,無理のないことかもしれません。とはいえ,ここには,もう少しで強大なローマを撃ち破るまでになった,古代世界屈指の都市の遺跡があります。ローマの歴史家リウィウスによると,「世界で最も富裕なこの二つの都市の戦闘の行方を,王たちも人民も固唾を呑んで見守った」ということです。それもそのはずです。まさに世界の覇権がかかっていたからです。

都市の創建

西暦前2千年紀,フェニキア人は,現在のレバノン,およびその南北に伸びる地中海沿いの細長い土地に居住を限定されていました。しかし熟練した船乗りであったこの民は,金,銀,鉄,すず,鉛などを求めて西方に目を向けました。それらと交換する貿易品としては,木材(有名なレバノンスギなど),赤紫に染めた布,香料,ぶどう酒,スパイス,その他の加工品がありました。a

フェニキア人は西へ行くにつれ,アフリカ沿岸,シチリア島,サルデーニャ島,そして聖書中のタルシシュではないかと考えられているスペインの南部に植民地を建設しました。(列王第一 10:22。エゼキエル 27:2,12)伝承によると,カルタゴの創建は,宿敵ローマの建設よりも60年ほど前の西暦前814年です。古代北アフリカ史の専門家セルジュ・ランセルはこう述べています。「西暦前9世紀終わりごろにおけるカルタゴの創建は,何百年ものあいだ,地中海西部の政治的・文化的運命を決定する要素となった」。

帝国の揺らん期

カルタゴは,歴史家フランソワ・デクレの表現を借りれば,「大きな錨を海面に投じた」ような形の半島に帝国を築き始めました。先祖のフェニキア人が据えた土台の上に,金属類の輸入を中心とする交易網を発展させて大々的な寡占状態を作り上げ,強力な艦隊と傭兵部隊によって,その独占権を強化していきました。

多少の成功に決して甘んじなかったカルタゴ人は,新しい市場を求めて絶えず目を光らせていました。西暦前480年ごろ,航海者ヒミルコは,すずの豊富なブリテン島のコーンウォールに上陸したと考えられています。またその約30年後に,カルタゴの有力門閥出身のハンノは,新しい植民市を形成するため,3万人の男女を乗せた60隻の船隊を率いたようです。ジブラルタル海峡を抜け,アフリカ沿岸を南下したハンノは,ギニア湾,さらにはカメルーン沿岸にまで到達したのかもしれません。

このように冒険心に富み,商才にもたけていたカルタゴは,古代世界で最も富裕な都市と言われるまでになりました。「カルタゴ」(英語)という本は,「[西暦前]3世紀初めまでに,その専門知識や艦隊,……また商業上の体制によって,同市は世界に冠たる場所になっていた」と述べています。ギリシャの歴史家アッピアノスは,カルタゴ人について,「力ではギリシャ人に,富ではペルシャ人に匹敵した」と述べました。

バアルの加護の下で

フェニキア人は地中海西部全域に展開していましたが,信教の面では結ばれていました。カルタゴ人は,フェニキア人の父祖たちからカナンの宗教を受け継ぎます。何世紀ものあいだ,カルタゴは毎年ティルスに代表団を送り,メルカルトの神殿でいけにえをささげました。カルタゴの主神は,「火鉢の主」を意味するバアル・ハモン,およびアスタルテと同一視されているタニトからなる夫婦神でした。

カルタゴの宗教の最も悪名高い特徴は,子どものいけにえでした。ディオドロス・シクルスの伝えるところによると,西暦前310年,カルタゴ人はその都市が攻撃されていた時に,バアル・ハモンをなだめる目的で貴族階級に属する子弟200人以上をいけにえにしました。「宗教百科事典」(英語)はこう述べています。「罪のない子どもを身代わりとしてささげることは,神々をなだめる究極の行為だった。おそらく,家族と共同体双方の繁栄を保証しようとするものだったのだろう」。

1921年,考古学者たちは,聖書の列王第二 23章10節とエレミヤ 7章31節の表現にちなんで,トフェ(トフェト)と呼ばれるようになった場所を発見しました。発掘現場からは,埋葬用の壺が幾層にもわたって発見されました。それらの壺には動物(代用の犠牲)や幼児の黒焦げになった遺骨が入っており,祈祷文の刻まれた石碑の下に埋められていました。トフェには,わずか200年という期間にいけにえにされた2万人を超える幼児の遺骨が埋まっていると推定されています。今日,見直しの議論をする人たちの中には,トフェは,死産した,もしくは共同墓地に埋葬するにはあまりにも幼くして死んだ幼児の埋葬所だったと唱える人もいます。しかし,前出のランセルが述べているように,「カルタゴの人身御供の真実性を全面否定することはできない」でしょう。

覇権をめぐる激しい争い

西暦前6世紀にティルスが衰退すると,カルタゴは西方のフェニキア人の旗手としての地位を引き継ぎました。しかし,カルタゴの台頭に抵抗する勢力がなかったわけではありません。初期のころ,カルタゴやギリシャの商人たちは制海権をめぐって激しく争い,西暦前550年ごろには戦争が起きています。西暦前535年,カルタゴ人は同盟関係にあったエトルリア人の手を借りて,ギリシャ人をコルシカ島から追い出し,サルデーニャ島を手中に収めました。b その結果,戦略上のかぎとなるシチリア島の支配権をめぐるカルタゴとギリシャの衝突は,いよいよ激しさを増しました。

同じころ,ローマが頭角を現わすようになりました。カルタゴとローマの間で交わされた条約は,カルタゴの交易上の特権を保障し,ローマ人のシチリア島上陸を禁じました。しかし,ローマはイタリア半島を配下に置くと,イタリアから目と鼻の先で勢力を伸ばしつつあったカルタゴを,脅威とみなすようになりました。西暦前2世紀のギリシャの歴史家ポリュビオスは次のように述べています。「カルタゴ人がすでに,アフリカcだけでなくスペインの大部分を手中に収め,サルデーニャ海とティレニア海のすべての島々に君臨しているのを見て,……ローマ人は恐れをなした。もしカルタゴがシチリアの支配権を掌握すれば,イタリアの全沿岸を包囲して全土を脅かす,非常に厄介で危険な隣国になるからだ」。ローマ元老院の一部の党派は,商業的理由から,シチリアへの介入を要求していました。

ポエニ戦争

西暦前264年,シチリアで危機が生じたため,ローマ人は干渉の口実を得ました。ローマは協定に違反して軍を派遣し,こうして第一次ポエニ戦争の火ぶたが切られました。古代史上有数の海戦が繰り広げられたこの戦争は,20年以上も続きました。西暦前241年,カルタゴ軍はついに敗れ,シチリアからの撤退を余儀なくされました。ローマはさらに,カルタゴの支配下にあったコルシカ島とサルデーニャ島も奪いました。

こうした損失を埋め合わせるため,カルタゴの将軍ハミルカル・バルカスは,スペインに帝国を建設して,カルタゴの国力を回復させようとしました。“新カルタゴ”,つまりカルタヘナがスペイン南東部の沿岸に建設され,数年のうちに,カルタゴの国庫はスペインでの鉱業がもたらした富によって再び潤いました。この発展は,必然的にローマとの衝突を招き,西暦前218年,再び戦争が勃発しました。

カルタゴ軍の総司令官は,ハミルカルの息子ハンニバルでした。その名前には,「バアルの恵み」という意味があります。西暦前218年5月,ハンニバルはカルタヘナを出発し,アフリカ人とスペイン人からなる軍隊,ならびに40頭近くの象を率いて,スペインとガリアを通り,アルプスを越えるという,かの有名な大行軍を始めました。不意をつかれたローマ人は,数回にわたって惨たんたる敗北を喫しました。西暦前216年8月2日,“ローマ軍にとって未曾有の災難”となったカンネーの戦いで,ハンニバルの軍は,倍の兵力で立ち向かってきたローマ軍をせん滅しました。敵軍約7万人を打ち倒したのに対して,失った自軍の兵士は6,000人にすぎませんでした。

あともう少しでローマに手の届くところまで来ていました。しかし,ローマ人はあきらめず,それから13年間というもの,消耗戦でハンニバルの部隊を悩ませました。ローマがアフリカに軍隊を送ったとき,カルタゴは同盟国に見捨てられ,スペインとシチリアで敗北を喫していたため,ハンニバルを呼び戻すほかありませんでした。翌年の西暦前202年,ローマの将軍スキピオ・アフリカヌスはカルタゴ南西のザマでハンニバル軍を破りました。カルタゴは,艦隊の引き渡しを迫られ,軍事的独立を認められず,償還期間50年の巨額の賠償金を課されました。ハンニバルはというと,のちに亡命し,西暦前183年ごろ自殺しました。

「デレンダ・エスト・カルタゴ!」

平和はカルタゴに新たな繁栄をもたらし,賠償金をわずか10年で支払うことを申し出るまでになりました。そのような活力は,政治上の改革とも相まって,カルタゴの仇敵にとって大きな脅威と映りました。ローマの老政治家カトーは,死ぬまでの2年近くのあいだ,元老院で行なったどの演説も,「デレンダ・エスト・カルタゴ!」つまり「カルタゴは滅ぼさねばならぬ!」という言葉で締めくくりました。

西暦前150年,条約違反の疑いが生じ,ローマ人に探し求めていた口実を与えました。“せん滅の戦争”とも言われる戦争が布告されました。ローマ人は3年間,カルタゴ市の全長約30㌔の城壁 ― その一部は高さ12㍍を超えていた ― を攻囲しました。西暦前146年,ついに突破口が開けます。ローマの部隊は,石と矢が雨あられと降り注ぐ狭い道を進みながら,血なまぐさい白兵戦を交えました。古代の記録を裏付ける恐ろしい証拠として,考古学者たちは散乱したがれきの下に無数の人骨を見つけました。

悪夢のような六日間ののち,ビュルサと呼ばれた丘の上のとりでに立てこもっていた5万人ほどの飢えた市民は降伏しました。処刑,または奴隷にされることを拒んだ他の人たちは,エシュムン神殿に閉じこもって,そこに火を放ちます。ローマ人は都市の残りの部分を焼き払いました。カルタゴは完全に破壊され,儀式的に呪いをかけられ,だれもそこに住んではならないとされました。

こうして120年足らずで,ローマはカルタゴの帝国主義的な野望を打ち砕きました。歴史家のアーノルド・トインビーは,「来たるべき普遍的ヘレニズム国家が,カルタゴ帝国の形を取るか,ローマ帝国の形を取るか,それがハンニバル戦争の真の争点だった」と述べました。ユニベルサリ百科事典(フランス語)は,「ハンニバルが勝っていたなら,アレクサンドロスの帝国のような普遍的帝国を築いていたに違いない」と指摘しています。しかし結果的に見ると,ポエニ戦争はローマ帝国主義の始まりを告げるものとなりました。やがてローマが世界支配を果たします。

“アフリカのローマ”

こうしてカルタゴは決定的な結末を迎えたかに見えました。しかし,わずか100年後,ユリウス・カエサルはその場所に植民市を建設することにしました。カエサルの栄誉をたたえて,コローニア・ユーリア・カルターゴーと呼ばれました。ローマの土木技師たちは,巨大な台地を造るため,また過去の痕跡をぬぐい去るために,おそらく10万立方㍍もの土砂を移して,ビュルサの頂上を平らにしました。その上に,神殿や華麗な公共建造物を建てました。時の経過と共に,カルタゴは“ローマ世界屈指の富裕な都市”となり,西方においてローマに次ぐ大都市となりました。30万人の住民の必要を満たすため,野外劇場,円形劇場,巨大な共同浴場,全長約132㌔に及ぶ水道橋,ならびに観客6万人を収容する屋外大競技場が建設されました。

キリスト教は西暦2世紀の中ごろにカルタゴに伝わり,その地で急速な成長を遂げました。教会の高名な神学者で,護教家であったテルトゥリアヌスは,西暦155年ごろカルタゴで生まれました。その著作によって,ラテン語は西方教会の公用語となります。3世紀のカルタゴの司教で七つの階級からなる聖職位階制度を考案したキプリアヌスは,西暦258年に同地で殉教しました。別の北アフリカ人で,古代キリスト教会の最も偉大な思想家と呼ばれるアウグスティヌス(西暦354-430年)は,教会の教理とギリシャ哲学を融合させる面で重要な役割を果たしました。北アフリカの教会の影響力は,ある聖職者をして,こう言わしめるほどでした。「おおアフリカよ,なんじこそ,だれにも勝る熱意をもって我々の大義を推し進めている。なんじの決定はローマの是認を受け,世の諸侯の従うところとなる」。

しかし,カルタゴの命運は尽きようとしていました。そしてまたしても,カルタゴとローマの運命は切っても切れない関係にありました。ローマ帝国の衰退と共に,カルタゴの勢力も衰え,西暦439年,カルタゴ市はバンダル族に占領され,略奪を受けます。1世紀後,ビザンティン帝国に征服されますが,しばしのあいだ滅びを免れました。しかしカルタゴは,北アフリカを席巻したアラブ人を食い止めることはできませんでした。西暦698年,同市は攻め落とされ,のちに,その石材はチュニスの町を建設するのに使われました。続く何世紀ものあいだ,このローマ帝国の都市を飾った大理石や花崗岩は,略奪されて国外へ運び出され,イタリアのジェノバやピサの大聖堂を建てるため,そしておそらくイングランドのカンタベリー大聖堂を建てるためにも使われました。富と権力を欲しいままにした古代都市,あと一歩で世界の覇権を手にするところだった帝国カルタゴは,ついにはだれにも気づかれない,がれきの山と化したのです。

[脚注]

a フェニキアという名称は,「赤紫」,また「やしの木」という意味のギリシャ語フォイニクスに由来します。このフォイニクスからラテン語のポエヌスという語が派生し,現在の「ポエニ」(英語,Punic)という語に至っています。「ポエニ」とは「カルタゴ人」という意味です。

b 数世紀に及ぶカルタゴ人とエトルリア人との緊密な関係について,アリストテレスは,その二つの国民があたかも一つの国家を形成しているようだったと述べました。エトルリア人について詳しくは,「目ざめよ!」誌,1997年11月8日号,24-27ページをご覧ください。

c 「アフリカという名称は,カルタゴ人がカルタゴ周辺の領域につけた名前である。それはのちに,同大陸のすでに知られていた地域全体を指すようになった。ローマ人がこの領域をローマの属州にした時,その名称はそのまま用いられた」。―「古代史辞典 ― 神話,文学,文明」(フランス語)。

[14,15ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

ローマ

地中海

カルタゴ(廃墟)

[14ページの図版]

ローマ風の共同浴場の跡

[15ページの図版]

フェニキア船によるレバノンスギの輸送

[クレジット]

Musée du Louvre, Paris

[15ページの図版]

幸運のお守りとしてこれらのガラスのペンダントを身に着けていた

[クレジット]

Musée du Louvre, Paris

[16ページの図版]

カルタゴ人は邪霊を追い払うため葬式用のマスクを墓に入れた

[クレジット]

Musée du Louvre, Paris

[16ページの図版]

幼児供犠はカナンの崇拝の一部で,カルタゴ人に受け継がれた。これは,いけにえとしてささげられた幼児の墓標

[17ページの図版]

西暦前146年にローマ人によって打ち倒されたカルタゴ市の廃墟

[17ページの図版]

ハンニバルは史上まれにみる戦術家とされている

[クレジット]

Alinari/Art Resource, NY

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする