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聖書に対する洞察,第1巻
洞-1 「アレクサンドリア」

アレクサンドリア

(Alexandria)

イエスや使徒たちの時代のエジプトの主要な都市で,広く知られた大都市。現代のアレクサンドリア(アラビア語ではアル・イスカンダリヤと呼ばれる)は,古代の都市の跡に立つ海港都市ですが,古代の都市の面影はあまり残っていません。

[153ページの地図]

地図: 古代アレクサンドリア,エジプト

この都市の名前は,西暦前332年か331年にこの都市を創建したアレクサンドロス大王にちなんで付けられました。やがてアレクサンドリアはエジプト第一の都市となり,プトレマイオス朝つまりエジプトのヘレニズム期の王たちのもとで,エジプトの首都となりました。同市は西暦前30年にローマの支配下に入るまで首都の地位を維持し,その後もずっと西暦7世紀にアラビア人に征服されるまで,ローマおよびビザンティン時代を通じてエジプトの行政上の中心地としての役割を果たしました。

ユダヤ人は長い間アレクサンドリアの人口のかなりの部分を占め,最も多い時期には50万人に達していたと思われます。それらユダヤ人の多くは,西暦前607年のエルサレムの陥落後エジプトに逃れて来た人々の子孫でした。ティベリウスの時代に,ユダヤ人は同市の人口のおよそ3分の1を占めていたと言われています。ユダヤ人は,同市の北東部にあった独自の居住区に住み,独自の律法にしたがって生活し,独自の統治者を持つことを許されました。

ヘブライ語聖書の最初の翻訳であるギリシャ語セプトゥアギンタ訳が出来上がったのはここアレクサンドリアでのことでした。これはアレクサンドリアのユダヤ人の手で生み出されたもので,その訳業はプトレマイオス(2世)・フィラデルフォスの治世(西暦前285-246年)中に始められたようです。

アレクサンドリアは聖書の中で簡単に言及されているにすぎません。ステファノが審理に付される前に論じ合った者たちの中に,「アレクサンドリア人」,つまりアレクサンドリアから来たユダヤ人がいました。アレクサンドリアは,雄弁なアポロの生まれた都市でした。また,パウロが囚人となってローマに向かう旅をした際に乗船した船のうちの2隻はアレクサンドリアからのものでした。これはアレクサンドリアの大船団に属する大型の穀物船であったと思われます。この船団は地中海を横断してイタリアのポテオリまで航海しましたが,時には小アジア沿岸の港伝いに航行することもありました。―使徒 6:9; 18:24; 27:6; 28:11。

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