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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1954
塔54 6/15 236–239ページ

金持ちとラザロ

譬話しですか? それとも実際の話しですか?

キリスト教国にある非常に多くの宗派は,火の燃える地獄で永久に苦しむことこそ,悪い者の運命であると信じています。金持ちとラザロについてイエスは話しをしましたが,その言葉はルカ伝 16章19-31節に書かれています。そして,これは地獄の火のくるしみという教えを支持する証拠の一つであると,キリスト教国の人は言い,このイエスの言葉は,一つの出来事を語つており,実際に行われたことについての話しであると主張しています。この考え方をしている一人の人は,冊子を出版してこういいます『主イエスが金持ちとラザロの物語りを話すのを聞いたすべての人は,次のことを当然に考えたとは思いませんか? すなわち,幸福に死のうと,禍いの中に死のうと,死んだ後に,人は意識を持つたまま存在し続けるということをイエスは教えられようとしたのである。』

論議のために,かりにイエスの言葉を聴いた者たちが,それは実際の出来事であつたと考えたのだと仮定しても,そのことはその考えを証明するどころか,全然反対のことを証明しているのです。どうしてそうですか? イエスが譬話しで話しをした理由は,人々が理解するためですか? いいえ,人々が理解することのできないためであると,イエスは明白に語つておられます。次のイエスの言葉に注意してごらんなさい『あなたがた(弟子たち)には,神の御国の聖なる秘義を理解するよう許されている。しかし,他の残りの者たちには,譬話しが与えられるであろう。それは,彼らが見ても,見ることができず,聞いても意味を得ることができないためである。』(ルカ 8:10,新世)イエスの言葉を聴いた者が,その譬話しからどんな意味を得たにせよ,それは必らず間違つたものであるということは明白です。

これは譬話しであるとイエスは多く言つてはいないという理由で,ある人は更に反対いたします。どの度ごとにも,これは譬話しであるとイエスは言わねばなりませんか? それに,『譬話しを用いなければ,彼は彼らに話そうとはしなかつた。』とはつきり書かれてはいませんか?(マタイ 13:34,新世)名前が言われていたとしても,それは譬話であることには間違いありません。その話しを文字通りにとることは,理性と常識を全く無視し,神の言葉の他の残りの部分と矛盾することであると,すべての証拠は証明しているのですから,その話しは譬話に違いありません,

道理に合わない

簡単に言うと,この譬話しの内容はこうです。紫色で細糸織の布を着ていた金持ちは,ぜいたくな生活をしていたが,ラザロという乞食は,その金持ちの門のところに坐つていた。ラザロは腫物が一杯で,金持の食卓から落ちてくるパン屑を食べたいと願つていた。時が過ぎて,金持ちもラザロも両方とも死んだ。ラザロは,天使たちによつて,アブラハムのふところのところへ連れて行かれた。しかし,金持ちは葬られ,ハーデス(地獄)で苦しみをうけ,その場所からラザロを見たと言うのです。―ルカ 16:19-23。

ラザロが良い人であつたとか,また彼が信仰を持つていて,その信仰を,行いによつて証明したなどということについて一言も言われていないことに注意しなさい。これらのことは,永遠の生命を得るのに,是非必要なものです。(ヘブル 11:6。ヤコブ 2:14-26)たんに,みじめなこと,貧亡,そして病気が救いを保証するものでありえますか?

また,金持ちが悪い人であつたなど一言も言われていません。人が70年の間,この世の良いことを十分に楽しんだから,燃える地獄でくるしみを何万年の間,そうです永遠に亙つてうけねばならないとは,一体どういう考え方でもつて,また公正の原則をもつて言えるのでしようか? 堕落した不完全な人間ですら,公正が行われるためには『犯罪に相当する刑ばつ』ということを認めています。そして,神は人間よりもずつと公正であることに間違いありません。アブラハム,ダビデ,ソロモン,アリマタヤのヨセフは非常な富を持つていました。それだから,彼らは永遠のくるしみを受けねばなりませんか?

さらに,ユダヤの宗教指導者たちと論議をした時,イエスは他に比べることのできない一番素晴らしい論理を表わし言われました。それですから,罪の代価についてそのような非常な警告をイエスは話しながら,罪ということを言わないでしようか? 信仰と従順の報いを話しながら,信仰という言葉や従順という言葉を言わないことがあり得るでしようか? イエスの言葉を聞いている者たちに,永遠のくるしみについて警告したいとイエスは思われたならば,彼は必らずそれらの点を強調したことでしよう。しかし,彼は全然しませんでした。

そればかりでなく,ラザロはアブラハムのふところに運ばれたと書かれています。救いを得るすべての人は,アブラハムのふところにいだかれるのですか? それは比喩的な言い方であると認めなるらば,金持ちの身の上に起つたことは文字通りのことであるとなぜ主張するのですか? 物語りの一部を文字通りにとり,他の別な部分を比喩的にとるとは全く意味をなしません。

意識があるということと,くるしみをうけるということがハーデス(地獄)に結びつけられているところは,聖書の中でここだけであるということに注意してください。また,イエスの死ぬ前には,ハーデスには二つの区割があり,一つは良い人のものであり,他の一つは悪い人のものであつたとは全く言えません。そして,イエスがこの譬話しを話した時には,彼は死んでいなかつたのであるから人間の罪のためにイエスが死んだ後になつて,良い人は天に行つたなどということも全くできません。ハーデスが比喩的に用いられていることは,黙示録 6章8,9節から明白に判ります。その聖句によると,ハーデスは馬の背に乗つていると示されています。また,黙示録 20章14節では,ハーデスが火の池として示されているのではなく,火の池の中に投げこまれるものとして示されています。

聖書の教えと違う

罪の罰と死人の状態について,神の言葉の残りの部分が言つていることと,比較する時,金持ちとラザロについてのイエスの言葉を文字通りにとることは全くできないことです。アダムは,永遠のくるしみをうけると警告されませんでした。そして,罪を犯した時には,簡単にそしてはつきりとこう言われました。『お前は塵であるから,お前は塵に戻るであろう。』(創世 3:19; 2:17,新世)『お前の体は,塵に戻るであろう』とヱホバ神は言いませんでした。そうではなく,お前アダムは塵に戻るであろうとヱホバ神は言いました。聖書の明白な証言については,少しの疑いや間違いはありません。『罪の払う代価は死である。』― ロマ 6:23,新世。

それでは,死とは何ですか? 死んだ人の状態は何ですか? ― くるしみを意識していますか? それとも幸福を意識していますか? いいえ,人間が死ぬのは獣と同じです。死んだ者は,何も知りません。シエオール(ハーデスと同じ意味のヘブル語)には意識がありません。人間の『気息いでゆけば,かれ土にかえる。その日かれがもろもろのくわだては亡びん。』ダビデは,『我ここを去りてうせ』ないように,生命を救けていただきたいと神に祈りました。ペテロは,悪い者たちを,朽ちて死んで仕舞う野生の獣になぞらえました。野生の動物は,死後にくるしみをうけることはありません。―詩 146:4; 39:13。伝道之書 3:19-21; 9:5,10。ペテロ後 2:12,

その他に死者は,正しい者も正しくない者も両方の者に復活があると保証されているではありませんか? 死んだ時に,人間はその永遠の報いをうけるならば,なぜ復活の必要がありますか?(使行 24:15。ヨハネ 5:28,29)マリヤとマルタの兄弟であり,またイエスの友であつたラザロが死んだ時,ラザロは死んではいないとイエスは言つて,二人の女を慰めましたか? いいえ,イエスはそう言いませんでした。しかし,ラザロは死からよみがえるだろうと言つてイエスは彼らをなぐさめました。ラザロは『終りの日の復活の時によみがえる』だろうということを姉妹たちは知つていました。そして,イエスがラザロを呼んだ時,アブラハムのふところから呼びましたか? または煉獄から呼びましたか? それとも火の燃える地獄から呼びましたか? いいえ,イエスは墓からラザロを呼びました。それにまた,ラザロがそんな場所にいて意識を持つていたならば,4日間も死んでいたのですから,その珍らしくすばらしい経験を友人たちに必らず話したに違いないでしよう。この点について,何も言つていないということから,ラザロは意識を持つていなかつたということを,全く疑いなしに証明する強い証拠です。―ヨハネ 11:22-44。

『天から降りてきた者,すわち人の子の外には,誰も天に昇つた者はいない』と言つたイエスの言葉を考えて見る時,アブラハムが天に居たということはどのように説明できますか? 五旬節<ペンテコステ>の日に,ペテロは次のことを聞く人たちに指摘しませんでしたか? すなわち,ダビデは『死人で葬られ,彼の墓は今日にいたるまで私たちの中にある。実際にダビデは天にのぼらなかつた。』(ヨハネ 3:13。使行 2:29,34,新世)キリスト・イエスが来る以前には,神の僕たちに対して天の報いは全くさしのべられませんでした。それですから,キリストの復活の後であつても,使徒たちは地上の御国を待ち望んでいたのでした。―詩 45:16。使行 1:6-8。

譬話しに戻りましよう。次にこう書かれています。金持ちは『父アブラハム』を呼んでラザロを遺し,指先さに1滴の水をつけて救つていただきたいと願つています。そこで,アブラハムは。ラザロの持つていたものと比較して,金持ちが生活していた時に楽しんだ良い物について,金持ちに思い起させます。それに,アブラハムと金持ちとの間には大きな淵があつて,誰もその淵を渡ることはできないと言います。金持ちはお願いして,ラザロを彼の5人の兄弟たちのところに遣わし警告するようにと言います。しかし,彼らはモーセと予言者たちとを持つており,もしこれらの者に聞かないならば,死から甦えされた者に聞かないであろう,と言われます。―ルカ 16:24-31。

聖書によると,天とハーデス(シエオール)は,反対の両極端です。(詩 139:8。ルカ 10:15)一方の場所にいる者が,他方の場所にいる者を見て,会話をするなどと想像できますか? それに,もし金持ちが火の燃える地獄の中にいるのならば,その舌を冷やすのに,ほんの1滴の水だけを求めるということがあり得ますか? 1滴の水は,どれ程の救いをもたらしますか? 金持ちのところへ来るまで,その1滴の水は保ちますか? 1滴の水をもつて,火の燃える地獄に,人は果して近づくことはできますか? アブラハムのふところと同じように,これは比喩の話しであるということは明らかなことです。そうですこの場合のイエスの言葉の残りの部分もみな比喩の話しです。

譬話の意味

金持ちとラザロについてのイエスの言葉は,譬話しであるということは,間違いのない結論です。それでは,それは何を説明していますか? その意味は何ですか? 簡単に言うとこうです。イエスの時代であつても,現在であつても,真理を伝道することによつて,二つの級の人々が,その適応する地位に変化があるということをこの譬話しは語つています。

金持ちは霊的な備えもので,豊かに恵まれていたユダヤの宗教指導者たちを良く表わし示しています。彼らは紫色の衣をまとい,御国の子供たちであると自ら考えていました。彼らは自らを義しい者とし,細糸織の布を着ていました。そして,アブラハムの子孫であるということに自慢していました。(ロマ 3:1,2。マタイ 8:12; 23:27,28。黙示 19:8。マタイ 3:9)乞食ラザロの名前は,『神は助ける者』を意味し,ユダヤの一般民衆を良く表わし示しています。彼らは,宗教指導者たちによつてけいべつされ,また,なおざりにされていましたので,霊的に病気であり,そして正義に飢え渇いていました。彼らは,大いなる医師キリスト・イエスの必要なることを認めていました。―ヨハネ 7:49。マタイ 5:6。マルコ 2:17。

金持ちとラザロが死んだということは,これら二つの級の相応せる地位に行われた変化を表わし示しました。これは,なにも驚くにあたらないことがらです。

なぜならば,生きていても,死んでいる,または死んでしまつた人間について,聖書は多くのところで語つているからです。その意味は,人間の生涯において変化が行われたことなのです。(コリント前 11:30。コロサイ 3:3。テモテ前 5:6。ユダ 12を見なさい)。イエスの伝道はユダヤの宗教家たちの,偽善やどん慾や,偽りの教えをあばき,彼らの生涯に変化をもたらせました。(マタイ 23。ルカ 16:14。マタイ 15:1-9)自己満足をして,ぜいたくで楽な状態から,彼らはくるしみの状態に入れられました。それほどまでに苦しみましたので,神の子を殺してしまうまで,平和がありませんでした。―マタイ 21:45,46。

ラザロによつて表わし示された人々,すなわち神にたいして信仰を持つたユダヤの一般民衆の人々は,イエスの伝道によつて同じようにその状態に変化を経験しました。それはユダヤ人のうちから霊的な残れる者となることでした。彼らの名前としての『ラザロ』は,神により助けられ,慰められ,そして神の天の御国に入る希望を与えられたことを示しています。そうです。貧しくて霊的に病気であつた淫売婦や税金取立人たちは,神の御国に入り,神の恵みをうけました。そのことは,アブラハムのふところにいるということから表し示されました。パリサイ人たちが彼らの上に置いた重い荷は,このようにして取り除かれ,彼ら自身は『アブラハムの裔』の部分となりました。彼らによつて,地上の全家族は祝福をうけるでしよう。―マタイ 11:6; 21:31。ガラテヤ 3:7,26。マタイ 23:4; 11:28-30。

そして,二つの級の間の大きな淵とは? これは,変ることのないヱホバの正義の裁きを表わし説明します。級として宗教指導者たちは,聖霊に反対して許されることのない罪を犯し,彼らの運命をかたく定めました。真理の伝道を減小させることによつて,ほんの僅かでも良いから,その苦みを取去つてもらいたいという彼らの願いは,決して許されないでしよう。―マルコ 3:29。使行 5:27-32。

金持ちの5人の兄弟とは,ユダヤの宗教指導者たちと交る者たち,すなわち,パリサイ人として同じ精神を表明したものを,良く説明しています。これらの者は,イエスを信ずることを拒絶しましたので,実際にはモーセと予言者たちの言つたことに注意を払つていないということを示しました。そして,人が死からよみがえつたとしても,彼らは信じないであろうということは,マリヤとマルタの兄弟であるラザロが実際に死からよみがえつた時に,はつきり証明されました。―ヨハネ 7:47,48; 5:46,47; 12:10,11。

私たちの時代においても,この譬話しの成就として,これらすべての事実と似たものが見られるのです。長い間キリスト教国の偽善的な,どん慾な,そして言伝えに従う牧師ちは,自分勝手なことをしてその群を扱い,霊的なことに関心を全然払いませんでした。そして,油注がれた霊的イスラエル人の残れる者を,病気している乞食であつて,街の犬とつき合うのに適している者であると見なし,取扱いました。しかし,ヱホバの御国の良いたよりが伝道されると共に,これら二つの級には変化が行われました。そして,1919年以来,かつては軽べつされ,無視されたこの油注がれたクリスチヤンの残れる者たちは,高く揚げられ,大いなるアブラハムであるヱホバ神の恵みをうけました。そして,人類を祝福するために,神が新しく設立された政府の良いたよりを伝道するという,素晴らしい御国の福祉を与えられました。そのようにして,残れる者ではない他の者たちも慰めを分け与えられることになるでしよう。そして,それは今日本当になされているのです。―エゼキエル 34:1-16。マタイ 24:14。

今日,ヱホバのクリスチヤン証者たちは,大きな証言を与えていますので,牧師たちは苦しみを感じています。しかし,善意を持つ『一般信徒』は慰めをうけ大いなるアブラハムであるヱホバ神より恵みをうけました。1953年のヱホバの証者の国際大会のときに,これらの人々はその喜びを経験しました。伝道の仕事を止めることによつて,牧師たちの苦しみを軽くさせることは決してないでしよう。また,牧師の商業的,政治的同盟の者たちに対し,この音信はヱホバ神からのものであると確信させる特別なしるしは与えられないでしよう。

このように考えてみる時に,ルカ伝 16章19-31節にあるイエスの言葉は,よく判り現代においても価値があつて,ぴつたり適合し,聖書の他の部分と調和するものです。

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詩篇を書いた人は,『河あり,その流れは神の都をよろこばす』と言つています,この河からの水は,支那にいる兄弟たちのところに流れ続けています。個人的な連絡や通信はあまり良くありませんが,しかしこの国にいる人々が,生命を与える真理の水を深く飲むことはできます。支那からの報告は,ちようど一つの会衆の報告のようです。それは,全地の5分の1の人口を持つこの大きな支那での全部です。しかし,ヱホバの証者のこの一つの会衆は上海にあつて固く立ち,良いたよりを伝道しています。年鑑(英文)より

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