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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1955
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ヱホバの證者の近代歴史

その12 予言されていた幸福の時代開始

1926年以降,ヱホバの証者は,偉大な霊的幸福,繁栄,制度的祝福の時代に入つています。(ダニエル 12:12)1922年にオハヨー州シーダーポイントで開始された大会にひきつづいて次々に7つの国際大会が開催されましたが,その聖書の予言成就上の意義には,協会も当時気付いておりませんでした。つづいて,英国ロンドンのアレキサンドラ・パレースの地で,1926年5月25-30日まで第5回目の大会が行われました。日曜日の公開集会には大きなローヤル・アルバァート会館が契約されています。会場の戸が開かれてから,僅かの11分間のあいだに,この会館は人々で一パイになつていました。『何故世界勢力はぐらついているか ― その解決策』という題のもとに,協会の会長は尨大な聴衆に呼びかけました。この講演の全文は,当時80万の配布数をもつていたロンドンの新聞『ザ・ディリー・ニューズ』に翌日記載されました。この講演のむすびにあたり,決議が通過しました。それは『証言』という題で,後日には,パンフレットの形式で刊行され,5000万という数量が全地に配布されています。イギリス帝国の分離と崩解も前以つて警告され,国際連盟の落日の運命にあることも宣言されました。この起訴状によつて,イギリスのみならず各地における大反響がまきおこされました。ロンドンが『獣の座』であると1926年に唱えたのは,他ならぬヱホバの証者であることは,今日に至るまで,人々の記憶のうちにあります。(黙示 16:10)この年にまた,ブルックリン・ベテルの家と工場を拡大する建築計画が実行に移されました。

この審判宣明期間における第6番目の大規模な大会は,1927年7月18日から25日まで,カナダのトロントで開催されています。8000名が毎日の集会に集り,最終の美を飾つた公開集会には,1万5000名の聴衆が参集しました。このものみの塔協会の大会のときに初めて,ラジオの連鎖<チエーン>放送がなされて,其の場には居合せませんが,目に目えぬ尨大な国際的ラジオ聴衆者も,この大会の話をききました。この連鎖<チエーン>放送はその当時では最大のもので,53局も加入し,このトロントの大会では,アメリカ合衆国全国放送会社が特にその任にあたつています。講演の題は『人々の自由』でした。また大会では『キリスト教国の人々へ』という決議が通過され,後日に,『人々の自由』という名称の冊子になつて発行されています。この冊子は,10月につづいて行われた特別運動中,5セントで配布されました。キリスト教国内の人々に肝要な知らせを告げるこの冊子は,189万8796も配布されています。1927年の年の春ひらかれた記念式には,8万8544名が全世界では出席しましたが,しかし,このうち1万8602名のみが家から家の御国宣明者です。

ミシガン州デトロイトは,連続国際大会の第7番目のものであり,またその最終のものであります。大会は1928年7月30日から8月6日まで開かれ,1万2000名が出席しました。大会は最後の日曜日のルサフォード判事の講演会で最高潮に達しました。と同時に,106ヵ所のラジオ放送局を利用したものみの塔の電話設備によつて,この『人々の統治者』という題の講演は全世界へと伝えられました。この話のむすびに当り,聴衆は,響わたるような決議『サタンに抗いヱホバの側に立つ宣言』を湧き立つような熱意のうちに迎えました。この決議とこの講演は,『人々の友』という冊子となつて,アメリカ合衆国及びその他の国に於いて,遂には,540万冊も配布されました。この大会に,『政府』という本も公やけにされました。その本はヱホバの神権政府を擁護し,この古い世の誤謬と亡びの運命をばくろしました。この1928年の証言は見る者の目を見はらせるものであり,背教の宗教界の反響も亦大いなるものがありました。

このようにして,ヱホバの証者は,活き活きとし,勇敢に,しかも活潑に,真の崇拝の復興に携わつていました。彼らは霊的に自分たちを清め,聖書の理解をヱホバの思に依存しただけではなく,目に見えぬ王,イエス・キリストの指導のもと,新しい制度の取極めも進歩の過程にありました。1927年の初期に,アメリカ国内では,日曜日に家から家の伝道が行われ,書籍と冊子を実費の寄付にて配布していました。1900年時代にも,ものみの塔協会の働き人のなした活潑な活動は,牧師たちの頭痛の種となつていました。1922年以後の今日になつては,ヱホバの審判宣明の業が全世界にあまねく,おしすすめられて来ています。そのため,牧師たちは,彼らの偽りの教えや,あからさまの背教を公やけにも個人的にも暴露する暴風雨や洪水の証言により夜も日もなやまされている感があります。今や,キリスト教国はその量の足らざるものと審判され,ヱホバから見捨てられ,ただ破滅を待つばかりとなつています。しかし愛あるヱホバは,忠節な証者の小さい一群をおこし,人類のざわめき立つ海のような混乱のうちを無事に通り抜けさせ,ヱホバの記された審判を宣言する使命を果させておられます。彼の証者は勇敢に立ち上り,神権的な使徒的な方法にもとづいて地上に真の崇拝を復興しています。

ヱホバの民は1922年から1928年までも,前と同様に神から与えられた使命を果し,『我らの神の報い』を宣言し,背教したキリスト教国に向い記された審判を発表するのに努めてきました。この間,サタンと彼の目に見えざる仲間の側にも,ある運動が動き始めて,これら『神の誠命を守る』人々にいどみかかり,1928年以後には,出来うれば,この崇拝者を壊滅させようと狙つておりました。次につづいたものは全面的戦いでしたが,それによつて,ヱホバの戦う証者は崇拝の自由の揺がぬ戦士として世の注目を浴びてきました。1919年から1922年の1290日に亘る証者の育成時代につづいて起きたことを,黙示録は次のように予言しております。『そして蛇(サタン)は,女(地にあつて,油そそがれ,組織された証者によつて代表されている)の後ろに,口から河のように水(ファシスト,ナチスとか,アメリカの『クリスチャン戦線』と呼ばれるカトリック行動派の群)を吐き出して,その川で女を殺そうと図つた。しかし地(民主主義国家のうちで善意をもつ統治者)は女を助けに来て(崇拝の点で証者に保護を与え,法的の勝利を与えた)その口を開き,龍が口から吐き出した河(ファシスト,ナチス,及び『クリスチャン戦線』)を呑み干した。(彼らは民主主義国家の手により第二次世界大戦の末期に完全に敗北を喫した)』― 黙示 12:15,16。新世。

サタンは,期を逸することなく,大宣伝を起して,民主主義の世界,キリスト教国をおびやかす力を急速に貯えていた新勢力を産み出していました。1919年にベニトー・ムソリーニはファシスト党を創設し,それは急速に力を得て,1922年,勢に乗じた彼は,ローマへ入城し,全イタリーへのファシスト的統治権を確立しました。1929年に,ローマ・カトリック教会とムソリーニの軍隊とのあいだに,ラテラン条約がむすばれ,バチカンと新しい全体主義政府との協力態勢がととのいました。一方1919年には,アドルフ・ヒトラーは国家社会党をドイツに創設し,1923年ムニッヒにおいて政治的権力を得ようと努力しましたが不成功に終りました。しかしながら,ドイツのカトリックの密謀と策謀とにより,1933年1月30日ヒトラーはドイツの首相となつたのです。同年,はやくもヒトラー政府とバチカンとのあいだの妥協運動が枢機官パセリー(6年後に法王ピオ12世となつた)によつてすすめられ,それも直ちに署名されています。

1920年の初期のころ,色々の半宗教的な群をも抱含していたカトリック行動派の運動が盛んになされ,数多くの国々にその旗を押し進め,社会的及び政治的方面においてローマ・カトリックの思想を影響させようと努めていました。1921年以後にも,この運動の幾つかのものはアメリカ合衆国内で活潑になりました。その一つは『クリスチャン戦線』として知られている,ファシストのような運動で,1930年代には,デトロイト(ミシガン)の神父,コウリンによつて指導され,1500万名もの信者を擁していました。これら全世界にその触手をのばしていたバチカンは,法律を利用し,暴民を用い,投獄したりして,ヱホバの証者に害を及ぼしていました。ヱホバの証者は,古代のダニエルのようにびくともせず,生ける神を崇拝する自由を守り,妥協を拒絶し,神の録るされた誡命に服従して行つたのです。―ダニエル 6:16-18。

1928年頃には,ヱホバの民の会衆の奉仕制度も充分発達してきていました。ヱホバの御国を家から家に伝道するには,日曜日が最適の日であると彼らは悟つてきました。過ぐる幾年ものあいだ,日曜自発奉仕者は,日曜日の朝,家の軒下とか,教会の入口のそばで,パンフレット『聖書研究者』の無料配布に規則正しくたずさわつてきました。しかし人々の戸口に立ち,口頭でもつてする日曜日の伝道はまだ実行されておりませんでした。ヱホバの証者の日曜日の業が拡大されたとき,早速,法律上の圧迫が加えられ,1928年,日曜日に伝道していたヱホバの証者の最初の逮捕が行われました。場所は,ニュージャーシイ州南アムボイです。これが10年間も継続した『ニュージャーシイの戦』の戦端が開かれた時です。それはやがて,コネクチカッチ州,ペンシイルベィニヤ州及びその他に拡大していきました。それらの地には,カトリックの行動派の群が出来る限りの法的手段に訴えて,ものみの塔協会の伸長しつつあつた証言の業を喰い止めようと策謀をめぐらしていたのです。『上なる権威』という問題についての機にかなつた新しい真理の光は,1929年の6月1号及び6月15日号に記載され,ヱホバ神とイエス・キリストこそ我らのしたがうべき真の『上なる権威』であることが明瞭に示されました。(ロマ 13:1)この新しい理解は,崇拝の自由に関連して法廷から受けていた猛攻に対し,ヱホバの証者が勇敢に立ち向う力を増し加えました。

1930年代に行われた崇拝の戦いで,協会のラジオ放送施設を大規模に使用したことは,特筆するに価します。近代的なラジオ通信は1920年に登場しています。ヱホバの証者は,ヱホバのしるされてある全地に対する審判を口頭で伝えるのにラジオは素晴らしい方法であることを知つていました。協会が公開の壇からの話を中継放送したとき,それは世の人々の耳目を驚かしたものです。ペンシルベニィヤのフィラデルヒィヤの新聞『レコード』に1922年4月17日付でもつて掲載された記事を見ましよう。

新しい千年統治時代が来るとラヂオは報じている。ルサフォード判事の講演は市のオペラ劇場から放送され,中継される。その音信は,何哩ものベル・テレフォン・ワイヤーにより,ファレット局まで伝達される。―『ものみの塔』1922年。

その後まもなく,即ち1922年の終ろうとする頃,協会はニューヨーク市のステーテン島に土地をもとめ,その敷地に,最初のラジオ放送局の建設を開始したのです。完成をまつて,政府からのWBBR放送局としての許可もおりました。1924年の1月24日,日曜日の夕,この500ワットの出力をもつた放送局から初めて,ルサフォード判事の声が流れて行きました。最初の放送の題は『ラジオと神の予言』という題です。それから30年以上を経過した今日に至るまで,この営利を図らぬ教育の放送局からは,絶えず御国の音信が放送されつづけ,沢山の聴衆者は感謝をしています。現在の放送室はニューヨーク・ブルックリン・コロンビヤハイト,124番地のベテルの建物内にあります。今では近代的の鋼鉄製方向性アンテナと5000ワットの出力ある中継所が,ステーテン島のものみの塔協会所有の以前と同じ場所にあります。(つづく)

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