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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1956
塔56 6/1 203–205ページ

シベリアの流刑生活

私はドイツ市民権を持つているため,1955年の11月,4年半のシベリヤ流刑生活の後に故国に帰ることができました。でも,ミーメル地区,リスアニア,ラトビア,エストニア,ベサラビア,ウクライナ,そしてロシヤの他の地区からシベリヤに来ている多くのヱホバの証者は,ドイツ市民権を持つていないため,今でも酷寒の地に居ります。それらの証者たちの皆さんは,世界各地にいるヱホバの証者に,シベリアの生活を報告してもらいたいと,私に依頼しました。

ロシヤの軍隊がドイツ各地を占領していた頃,私はミーメルの東プルシアに住んでいました。ヱホバの証者である私は,すでに6年以上もの年月,ヒットラー政権下のいろいろな牢獄や刑務所に入れられていました。ヒットラーがミーメル(現在のクライベダ)撤退を命じたとき,この地方に住んでいた大多数の人々は,ドイツに逃げ込みました。でも私はその時逃げなかつたのです。ヱホバの証者に塗炭の苦しみをなめさせたヒットラー政権に頼ろうなどという気持は毛頭ありませんでした。極悪のヒットラー政権よりは,共産主義者の方が少しは良いだろうと多寡をくくつていたのです。だが,私の見当はまるつきり的外れでした! この世は,たしかに見えざる支配者サタンに導かれ,支配されています。私は,今や一点の疑いもなく,そのことを確信しています。

共産主義者の政府もヱホバの証者を迫害します。この点では,ヒットラー政権と寸分も違つてはいません。ロシヤ人の侵入とともに,牧師たちは逃げ去つて,羊を見棄ててしまいました。ヱホバの証者は,悲哀のどん底にいた人々に神の御国のことを伝道いたしました。ヱホバの証者に,伝道してもらいたいと依頼されたのも再三再四の事柄でした。その結果,この地方に多くの会衆が設立されました。多数の人々はヱホバに献身して,水のバプテスマをうけたのです。当時,手許にあつた二,三部の『ものみの塔』は,定期的な集会で研究されただけでなく,再印刷されて人々に配布されました。しかし,このことは,ロシヤ秘密警察に嗅ぎつけられてしまつたのです。拘引されたことは,数える事ができない程です。そしてヱホバの証者の教えと制度に関する尋問を長時間に亙つて行われてから,釈放される始末でした。秘密警察がスパイを会衆内に忍び込ませて,私たちの話し合う事を探らせたことは確かです。私たちは何も隠しませんでした。私たちは神の御言葉を伝道すると共に,この世の唯一つの希望である神の御国に依り頼んでいました。1949年,私は約300人が出席した集会で講演をすることができたのです。私の使用した聖句は,イザヤ書 25章6-8節aでした。そして,この聖句から,ヱホバは彼に仕える者に豊かな祝福を注がれ,また死は勝利の中に呑まれてしまうであろう,そしてヱホバは地の表より涙を拭い取られると共に,ヱホバの民のはずかしめは地から取り除かれるであろう,まつたくヱホバがこれを語られたのである,と私は指摘しました。

翌日,街を歩いている時,私は逮捕されました。2日間,警察に拘引されていましたが,長時間にわたる尋問の後にやつと釈放されたのです。数日の後,またまた警察に再出頭するよう命ぜられ,今度は,ヱホバの証者の制度に関する正確な報告書を作成せよと命ぜられました。時機に適つた多くの他の真理をも添えて,すでに設立されているヱホバ神の御国についての報告を提出いたしました。また,ヒットラー政権下でヱホバの証者がひどい迫害をうけたことや,1934年10月7日に,多くの地にいるヱホバの証者の会衆からベルリンの国務省に送られた電報のことをも指摘しました。その電報文は次のようです,『ヱホバの証者に対する貴殿の不法なる処置は,全地の善意の人々を驚かせ,神の名を汚している。ヱホバの証者に対してこれ以上迫害することを止めよ。迫害を止めないならば,神は貴殿と貴殿の国家政党を亡ぼすであろう。』

この報告書がモスコーの警察本部に回送されたにちがいありません。1950年9月,ヱホバの証者に対する恐ろしい迫害の第一波がこの地にやつてきました。或る晩,強壮な兄弟や数人の姉妹は,警察によつて逮捕され,ビルナにある国務省刑務所に入れられました。其処に半年拘留されて後に,やつとモスコーから刑の宣告が来ました。その宣告によると,兄弟姉妹の大部分の者は10年間の投獄を言渡されたのです。6ヵ月にわたる容赦ない尋問や迫害をうけた後では,兄弟たちの神経はヘトヘトに疲れ果てていました。それに訊問中にうけた無道な仕打のため,多数の人はひどく苦しみました。その中の或る人々は,刑務所から労働収容所に移されています。多くの人々は,炭鉱の地下で働かせられました。また別の人々は,はるか北にあるボルクタの収容所に送られ,今でもヱホバの証者のある者はここで働かせられています。

ボルクタは,とても寒いところです。その地方では,植物はひとつも生えません。冬は長く,夏は短いのです。多くの兄弟たちは,残酷な共産主義者の課すひどい割当仕事のため,癈人同様の病弱者になつてしまいました。その中のある者は,シベリアにいる家族のところに送られています。

1951年3月の下旬,迫害の第二波が襲いました。以前に逮捕されなかつた老人,女子供たち,そして幼児や,前の逮捕を逃れた他の者たちは,拘引されてしまいました。この時は,一人残らず逮捕され,シベリア行の貨物汽車のところまでトラックで運ばれました。持ち物は,少量の小麦粉,すこしの衣服ぐらいというように,ほんの僅かなものに限られてしまつたのです。少数の人々は,ベッドを持つて行くことができました。その他のものは,みな警察当局に没収されてしまつたのです。そして,共産主義者は,聖書か『ものみの塔』文書がありはしまいか,と荷物を一つ残らず注意深く調べました。

ビルナから,約50台の家畜車がつけられている貨物列車二つが見えました。あらゆるところで逮捕されたヱホバの証者は,みなこの家畜車に乗り込ませられたのです。そして,殆ど生き続けて行くことのできない死の地に運ばれたのです。車輛は,満員で坐る空所はなく,また食べたこともない悪い食物を食べました。でも,このように辛い時でも,ヱホバの証者は天の父に感謝と讃美を捧け,お互いに励まし合いました。ヱホバの御言葉を論じ合うことにより,すべての人は慰めをうけ,どんなことが起ろうとも勇気をもつて押し進もうと決意しました。世の終りに住むこの世の人々に,伝道した慰めの言葉は,今や家畜車にスシ詰めにされているヱホバの証者に大きな慰めを与えました。御国の歌を声高らかに歌いましたが,後にはソヴェットの兵士たちに歌うことも禁ぜられました。

13日間,昼も夜も家畜車に入れられたままで,やつと汽車の旅は終りましたが,しかし,次のように言い渡されました,『お前たちは国家の敵であるからシベリアに流刑する。故郷に帰れるなどと決して思つてはならない。』

ヱホバの証者は,それからトムスクとイルクトスクのあいだにある別々の集団農場,またはさらに遠くの地にある集団農場に入れられ,奴隷労働を課せられました。この苦しい状態に面しても,ヱホバの保護と援助を頂いたために,彼らは勇気を失わなかつたのです。だが,飢餓の生活がすぐやつてきました。私たちの持参した食糧はすぐに無くなつてしまい,それに集団農園の食糧状況はあまり良いものでありませんでした。ソヴェット政権の手先に使われている指導者たちは,次の収穫の時までひもじい思いをして苦しんでいる人々に,全然食物を供給しなかつたのです。『ソヴェット楽園』の中に,福利施設は一つもありません。

しかし,ヱホバの証者たちは兄弟愛ですべてのことをおおいました。兄弟愛によつて,乏しい僅かな食物をも分け合いました。初めの2年の中に,このシベリアに来た多くの人々は,あまりの苦しさのために,死亡しました。女には特に重労働が課せられました。冬中,地上には雪が積つている時に,女は森林に行つて木を切らねばなりません。短い夏に,このことをする時間はないからです。シベリアの冬は,7ヵ月ずつと続きます。春と秋はありません。それに加えて,猛烈な寒波が来ると,気温は零下50度(華氏)に降ります。シベリアではたくさんの燃料が必要ですが,燃料は,シベリア流刑者の悩みの種子です。シベリアには,大森林がたくさんあります。しかし,森林から木を家のところまで運ぶのが,たいへんな仕事なのです。燃料の木を集めるためには,実際には馬とソリが必要なのです。でも,シベリアに流刑されたこれら不幸な人々は,馬とソリを持つ共産主義者に懇願してやつと借りられるという始末です。年寄には,この生活はとうてい堪えることができまん。年寄には力がないため,農業の仕事は無理です。背に木を負つて連ぶ仕事は60歳とか70歳の人にとつて,生易しいものではありません。

シベリアの住宅状態のことを言うと,胸が痛む思いです。流刑期間の大部分,私は子供もいる四つの家族といつしよに一つの部屋で生活しました。それから,小さな台所と,錫でできているお粗末なストーブがありました。このストーブの上で,みんなの食事を料理するのです。雪が融ける時には,家の中は水の氾濫です。しかし,どんな辛い状態にいようとも,流刑されたヱホバの証者は,できるだけ援助し合いました。あるヱホバの証者は,農園で働く時間以外に,自分たちの小さな家を建てました。自分たちの家を造つて,少しは住み良いものにしても,その不便さ加減は全くひどいです。

私がシベリアの奴隷収容所にいた最初の2年間,男女の区別なしに,集団農園の一労働者に対する1日の賃銀は,半キロから1キロの穀物で,つまり1.1ポンドから2.2ポンドの穀物でした。スターリンの死後,生活標準はすこし良くなりました。穀物の配給は増し,少額の金銭も奴隷労働者に与えられるようになりました。それで,今は昔のようには,空腹になつたり寒い思をすることはありません。このような場合でも,ヱホバの証者はあらゆる機会を捉えて神の御言葉を研究し続けます。そして,ヱホバの証者は自分の記憶に頼りながら,何時の時でも互いに語り合い,慰め合つています。でも,『もし聖書と新しい「ものみの塔」さえ,あればなあ!』と皆は望んでいます。

ロシアの奴隷収容所にいるヱホバの証者は,いつもヱホバ神に祈りを捧げており,そして何時の日かこのような状態から救い出される,とかたく信じています。この収容所の内でも,外でも,全ロシアの多くの人々は,真理をいまうけ入れています。ひとりの姉妹は,次のように報告しています。『私は30人ぐらいの女子学生に聖書を教えています。みなさんは,御国について語る私の言葉を熱心に聞き入れてくれます。』今日,神の御国を知りたいと望み,真理を熱心に聞こうとする人々は,ロシアに多くいます。ロシアにいる他の御国伝道者から手紙を頂いて,刑務所内の経験を聞くと,いつもよろこびを感じます。証者が刑務所に入れられていることは,かえつてお互い同志およびヱホバと密接に結ばれるようになります。毎日毎日,すべての人はヱホバの神権制度を,ますます良く理解し,そして伝道を続けることにより,大いなる審判主に対して,忠実の証しを立てよう,と強く決意しています。ヱホバの過分の御親切により,彼らは自分の忠実を保ちかつ永遠の生命をうけるにふさわしき者なることを証明しよう,と決意しています。

1954年11月,モスコーのロシア語新聞プラウダは,有名な共産党指導者の次の言葉を記載していました,『今日,全世界における共産主義はしつかりした地盤を持つに至つたため,いろいろな宗教に対する戦を中止し得る。過去,共産主義が権力を握つて後,この戦が必要であつた。しかし,青年たちが正しい訓練をうけてきた現在,共産主義だけが真実の平和と繁栄を人類にもたらし得ると,すべての人は考えざるを得ない。』しかし,ヱホバの証者はそう考えません。全人類に対する真実の平和と繁栄は,大いなる平和の君,キリスト・イエスの支配下にすでに設立された神の御国によつてのみ実現されると彼らは確信しています。間もなく私は77歳になります。1914年,第一次世界大戦の始まる少し前に,私はものみの塔協会の奉仕者を知るようになり,以来神の奉仕者であり得たことは私の光栄とするところです。ロシアから帰国した私の唯一つの願いは,生涯の残りをヱホバの奉仕に捧げることです。

[脚注]

a イザヤ書 25:6-8は次のようです。『万軍のヱホバこの山にてもろもろの民のために肥たるものをもて宴を設け,久しく蓄えたる葡萄酒をもて宴を設く。髄多き肥えたるもの久しくたくわえたる清める葡萄酒の宴なり。又この山にてもろもろの民のかぶれる面帕ともろもろの国のおおえる外被をとりのぞき,とこしえまで死を吞み給わん。主ヱホバはすべての面より涙をぬぐい,全地の上よりその民の凌辱をのぞき給わん。これはヱホバの語り給えるなり。』

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