戦つたが後に妥協したルーテル
マルチン・ルーテルは,聖書をドイツ語に初めて訳した人です。それだけでなく,彼はローマ法王の強力な支配権に敢然と反抗した人としても記憶せらるべきでしよう。しかし,ルーテルは図らずもマッチの火つけ役となり,カトリック主義に対する大反対の爆薬は破裂したのです。
マルチン・ルーテルは,1483年プロシヤ,サクソニーのアイスレーベンで生まれました。ローマの刺殺者に殺されることなく,波瀾万丈の宗教的な生涯を終えて,彼は1546年2月18日安らかな死を遂げました。
1507年ルーテルは清めをうけてローマ・カトリックの祭司になり,後日にはウィテッンベルグ大学の教授たちと交際するようになりました。彼はオーガスチン修道僧であり,また祭司であつたため,1510年にローマに巡礼旅行をしました。ルーテルはローマの祭司たちの中に行われていた腐敗,無宗教,そして悪徳を目撃し,大きな動揺を感じました。何年か後になつて,彼は次のように語つています。すなわち,『10万フロリンかかろうともローマ見物をしたであろう。余は法王に対して不正を行つたように感じたからだ。しかし,我々は見たままのことを語る。』1
ローマからドイツに帰つてから,ルーテルは自分の持つていたラテン語聖書の研究をいたしました。またウィテッンベルグ大学で神学を教え続けました。1512年-1513年の冬ごろまでには,ルーテルの良心は心奥で苦しんでいましたが,遂に基礎的なカトリックの教えを独立して研究するようになりました。そして,1517年10月31日,免罪符を売るカトリック教会の運動に激怒したルーテルは,有名な95箇条をウィテッンベルグの教会の戸に釘づけました。免罪符を売ることは神に賄路することであり,罪のゆるしを売るものである,とルーテルは感じたのです。このことがきつかけになつて,宗教改革が始まりました。これをよろこんだルーテルの多くの友人たちは,発明されたばかりの印刷術を大車輪に用いて,天下を仰天させたこの抗議文を印刷し,広く配布しました。それで,2週間経たぬ中にこのことはあまねくドイツ中にひろまり,正義の心を持つ人々は怒りを感じて,ローマカトリックに反対するようになつたのです。とうとう『大敵を相手に闘う』だけの勇気を持つ人が出てきたのです。彼は表向に示されていない法王の危険な教職制度を明るみに曝露したのです。
ドイツのこの反逆に驚きあわてたローマ法王は,遂に1520年ルーテルに対する破門状を発し,ルーテルをカトリック教会から追放しました。しかし,ルーテルはこの法王の処置を無視してしまい,祭司として説教したり教えたりしました。1520年12月10日,ルーテルはこの法王の勅令を公衆の眼前でことごとく火に投げこんで燃してしまつたのです。また,「ドイツ貴族への話」「教会のバビロン的な束縛」そして「クリスチャン人間の自由」3 のような改革の大論文を広く配布しました。
翌年の1521年,ローマ皇帝チャールス五世はウォームス市に会議を召集し,教会の高職者とドイツの君侯たちを集め,法王の命令に背いたルーテルの抗弁を聞きました。2時間にわたるドイツ語の抗弁,それからラテン語で2時間同じことが述べられて後,ルーテルは次のように結論しました,『聖書の証言か明白な理性により確信が得られないなら ― 余は法王にも宗教会議にも確信は持てぬ。それらがしばしば間ちがいを為し互に矛盾していることは確かである ― 余は引用した聖句を絶対に信じる。余の良心は神の言葉に従う。そして余は何ものをも撤回することができず,また撤回しようとは思わぬ。良心に反する行は安全でもなければ,正しくもない。神は余を助ける。アーメン。』4
ついでですが,1523年4月,グリマに近いイムプチ僧院から9人の尼僧が脱出してウィッテンベルグに逃れ,ルーテルの保護を求めました。ルーテルは,その中の一人キャザリーン・ホン・ボラという尼僧と1525年に結婚しました。それはカトリック教会を更に無視した行です。二人のあいだに3人の息子,3人の娘が生まれました。5
ルーテルの最初の教義見解
その後の年月のうちに,ルーテルは初めて全聖書をドイツ語に訳しました。また,聖書の研究にも大きな進歩を為し,或る場合には極めて正確な聖書の真理を得ていました。ルーテル初期の著作からの次の引用文に注意してごらんなさい。それは印刷されて広く配布されました。
ヱホバ エレミヤ記 23章1-8節の説明の中で,ルーテルはこう述べています『……しかしこのヱホバという名前は,真の神だけに全く属しているものである。』― アイン,エピテスル,アウス・デム,プロフェテン・エレミヤ,ホン・クリスタス,ライヒ・ウント,クリストリヘン・フレイハイト,ゲプレディフト・ドルフ・マルチン,ルーテル,ウィッテンベルグ,1527年。
魂は死ぬもの 『余は法王が彼自身および法王に従う者たちのために信仰箇条をつくるのを許す。―例えば,「魂は人体の本質形態である」「魂は不滅のものである」そして塵と積まれたローマ決議の奇怪な意見集などである。』― アサーティオ,オムニアム,アーティキュロラム,エム,ルーテリ,パー,ブラムレオニス10(ルーテル著作,第2巻フォリオ107,ウィッテンベルグ,1562年)1520年初版。またシオンの『ものみの塔』(英文)1905年,228頁。
死の定義 『故に聖書は死を眠りと呼んでいる。眠る人は,朝になつて目を覚ますとき,どのように眠が生じたか,眠は何であるか,又どのように目を覚ますかを知らない。同じように,我々が終の日に急に甦える時,いつたいどのように死んだのか,また死んでいる最中はどのようなものであるかを知らない。』― キルコポスト,1バンド,29番,9節シド,259。
復活 『墓地に横たわり,地下に眠る者たちは,寝床で眠る我々ほどに熟睡しないのである。ぐつすり熟睡しているなら,十回呼ばれて始めて気がつくことであろう。しかし死者はキリストの最初の召を聞いて,目を覚ますであろう。それについては,この若者とラザロの場合に示されている。』― ルカ福音書 7:11-17,8節。6
死と復活までの状態 『これは素晴らしい煉金術と傑作である。それは銅や鉛を金に変えないが,死を眠りに変え,墓を休息の快い部屋に変える。そして,アベルの死から最後の日までの時間は,極く短いものになるのである。聖書のいたるところに,この慰めが述べられている。』― キルコポスト,1,1バンド,109番,39-47節,シド434-436。
妥協したために真理は失わる
ルーテル自身も,また現在のルーテル尊敬者たちも,ルーテルの提唱したこれらの説や,最初の聖書的な教えを固く守らなかつたのです。残念なことに,ルーテル尊敬者たちは混ぜものをくわえて,妥協してしまつたのです。
例えば,1530年までには,ルーテルの友人でギリシヤ学者のメランフソンは,ルーテルを説得してアウグスベルグ信仰告白という提案に加らせたのです。メランフソンは,この信条書類を書上げて,アウグスベルグに集つた皇帝チャールス5世や君候教職支配者の会議の前に提出しました。かくして,多数のルーテルの弟子とローマ・カトリック教会との間の和解を図つたのです。このようにして,メランフソンとルーテルは法王教会の内部を清め,ある面で教会内部を改革し得る,と希望したのです。しかし,会議はこの提案を真向うから拒絶しました。ルーテルの支持者たちは,結局のところ妥協させられてしまつたのです。かくして,真理は半分だけとなり,またルーテルの取つた初期の正しい見解は否認されてしまいました。
アウグスベルク信仰告白の一部分は,三位一体と永遠に苦しむ悪しき者の魂について次のように述べています,『我々の教会は全員の賛同の下に,神性の一致と三位に関するニケア会議は真実である,と教える……三位の本体は同じであり,同じ力を持つ。また父,子,聖霊は共に永遠である。……世の終末において,キリストは裁きのために表われ,すべての死人を甦えすであろう。キリストは敬虔な者で選ばれた者に永遠の生命と永久のよろこびを与える。しかし,不敬虔な者と悪魔は,終りなき苦悩に罰せらる。』― 箇条,第1そして第17。
今日の多くのルーテル派は,このアウグスベルク信仰箇条という妥協の犠牲に基いています。それで,真理の為になしたルーテルの偉大な戦も,非聖書的な妥協により著しく汚されてしまいました。
[参照]
1 シャフ著『キリスト教会史』(英文)第6巻105,109,111,112,125,126,130頁。
2 同135,156頁。
3 同206,213,220,227,247頁。
4 同287,305頁。
5 同456,462頁。
6 ジェー,リー著『ルーテルと最終の宗教改革』(英文)30,31頁。
7 シー・バーゲンドフ著『アウグスベルグ信仰告白の成立と意味』(英文)33,76頁。