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  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1957
塔57 9/1 328–329ページ

聖書の映画は聖書に無学なことを暴露する

ハリウッド製作の『十誡』は聖書的に正確である事が,製作者であり監督者であるセシル・ビー・デミルによつて吹聴されました。ハリウッドのことならなんでも云いなりになる人と同じに,沢山の牧師達は彼の側につき賞讃をあびせました。映画評論家も大体それに調子を合せました。

しかし事実はこれらのどの人々も真理には無頓着か,又は真理を知らない者であると決論を下さざるを得ません。

そのフイルムの前半は歴史的背景があると主張されてはいますが,大部分は実際の話ではありません。後半は聖書に記されているモーセの生涯に関するもので聖書に忠実に従つているものとして,宣伝されました。デミル氏は『これ等の事柄はすべて私が聖書の中から見つけた通りのものである』と云います。

しかし実は,それとは全く正反対なのです。デミル氏が聖書の記録によく従わなかつた事は明らかなのです。又,殆んどの評論家が聖書を読む為に時間を費さなかつた事は明らかです。もし彼等が,4時間近くすわつて映画を見てから1時間だけでも聖書を読んだなら,評論家達も大失敗をしでかすということもなく,自分たちが聖書に無学なことを暴露しなかつたでしよう。

ある批評家達は騙されない

映画批評家達すべてがデミルの宣伝や牧師の調子を合わせる賛同の言葉に迷わされているわけではありません。洞察力のある評論家達は,聖書的な点で映画の不正確な点を一つ一つ選り出さなかつたにしても,ハリウッドのけばけばしい魅力や拝金主義の悪臭をかぎつけました。それらのために,画面に出るべき霊的芳香はすつかり消し去られてしまつたのです。

1956年,11月5日のニューズウィーク誌にこう書いてありました,『宗教的な感情に深いデミルは旧約の事柄を取り上げて,(古代歴史家のピロとヨセハスの作品を一寸見て後に)自分に適当と思れわるように,いろいろと組み合わせ,そして一つの物語りをつくり上げた。その物語は時には聖書の歴史に忠実であるが,しかし多くの場合に宗教映画についてのデミル自身の幻想に忠実である。聖書的材料は殆んど出エジプト記から採られた。彼の語るのは主に,蒲の茂り合う処よりシナイの板に至るモーセの生涯である。彼の仕事の典型的な面はこうである。「十誡」の語る多くの話の中でも,デミルが拵えあげた仮定的な,そして悲劇に終るように前もつて定められたモーセと魅惑的なエジプト王女ネフレテリとの間の情事に一番の注意を惹かせるという事である。』評論が今少し続いてからこう結論されています,『自分の仕事は感銘的なものだという評判を取ろうとするなら良くない印象をあたえる事に対しても責任を取るべきだ。そのどちらも一杯ある。』

1956年,11月12日号のタイム雑誌では,映画に費やした時や金又努力について簡単に述べて後にこう云つてます,『そして此の途方もない努力の結果は? 何か8フィートもある合唱団の少女ともなぞらえられる様なもの ― 一緒になるととても綺麗だが,さてあまり大きすぎて安つぽく派手である。このデミルは時にはみかけ倒しと云うよりもつとひどいものだ。

そんな馬鹿でかい金の犢が宗教指導者から反対されずに建立されたりした例は,他に見当らない。とてもとても深い敬虔な気持で聖書が生きていた時分の「元の形にもどつて聖書を翻訳」しようと試みた,とシネモガル・デミルは主張する。でも実際そのやつた事は,今までそう試みた者の約二層倍程も長い時間に映画観客者達の目に性をなげかけて欺いたことだ。』

タイムは大変的確な非難でこう結論しています『実際,七番目の誡の〔『汝姦淫するなかれ。』〕のところだけが,とてもデミル氏に興味深いと感じたと思える時が何度かある,出エジプト自体はまるで性エジプト記だ ― モーセの悲恋の生涯の結末(しかしそれは全く架空のもの)これは冒瀆であるか。技術的には,そうではない,しかし,時には悪趣味と神聖冒瀆との間の明確な線を引くのがむずかしい場合がある。

神が燃える棘の中からモーセに語る時,大きくて滑らかな低音の声が聞える。しかしそれは丁度,テレビのアナウンサーが,どこかのお葬式で話しをしているのと大差ない。そんな瞬間,たとへ映画製作者が意図しないにしろ,主の名を妄に取つていると印象をうけざるを得ないものだ。』

聖書に無学なことが露見さる

聖書はパロが,イスラエルの人口増加を制するために赤子を殺したと示しています。しかしデミルの映画は,モーセが赤子であつた時,解放者,モーセを殺す為と云います。―出エジプト 1:9,10。

聖書はモーセが始めから自分がヘブル人である事を知つていたと示しています。そう知つて居つたから彼は,ヘブル人の一兄弟を撃つて居たエジプト人を殺しました。彼はエジプトからのがれました。しかし映画では,彼が成長した時にヘブル人である事を知り,パロの息子と,おなじ女を愛した為に追放される事になります。―出エジプト 2:11,12,15。

聖書は予言者エレミヤの時代になつて初めて,律法が人間の心に書かれるべき事を述べていますが,デミルはこの事につき先き走る事900年です。

つまり燃ゆる棘の中でそのことをモーセに告げてます。―エレミヤ 31:31-33。

聖書の説明は,イスラエル人達がヱホバという神の名を使つた事,その事が特にモーセと論議された事を出エジプト記 6:3に示しますが,映画では繰返し神の名はイスラエルの人達には未知のものであると云つて,映画の中には遂に現われません。

聖書では,使徒行伝 7:23-30でモーセが40歳の時エジプトにのがれ,ミデアンから帰る時は80歳であるといつています。しかし映画では,そういう時の経過をえがかずに恋愛の挿話を含めて登場人物はすばらしく若い人物です。しかし,モーセはもゆるしばのところで奇蹟的にも一時に年を取りました。

聖書はエジプトに於けるモーセの敵は,彼がもどつた時に死んだといつていますが,映画では,一番わるい敵をパロとして王の位に坐らせています。―出エジプト 4:19。

聖書はエジプトの初子を殺すという第10番目の災を送らんとする神の決定を語ります。しかし映画では初子を殺す事はパロの考えです。彼はイスラエル人にこうする事を考えました。ところが神は形勢を逆転させてエジプト人の初子を殺しました。―出エジプト 11:1-5。

聖書の記録はパロが後に奴隷の労力をとりかえす為にイスラエル人を追つたと述べます。しかし,デミルは,それはモーセがパロの妃の愛寵をはねつけたからだと云います。―出エジプト 14:5,6。

パロが,紅海まで自分の軍勢と共に出かけたかどうかについては,異論がありますが,若し出かけたものなら,聖書に依れば,彼はそこで死んだはずです。でも映画ではその水の決潰に生き残らせ,エジプトに帰しています。―出エジプト 14:28。

ダタンはシナイで金の犢の崇拝をそそのかして始めましたか,又その為に彼とその他の者達も地に呑まれましたか。デミルは「そうだ」と云つて,聖書は否と云います。この犢崇拝者は一体この様な方法で死にましたか。いいえ,劔とわざわいで死にました。ダタンはその中に含まれませんでした。なぜなら,彼とその他の反逆者達はずつと後になつて又全く異なる罪のために地に呑まれたからです。―出エジプト 32:27,28,35。民数紀略 16:1-3,12,25-32。

皮肉な事にデミルが特別,聖書から離れて居ると云つた所は,かえつて聖書の通りなのです。彼は,人々は金の犢を崇拝する時に裸で踊つたが,彼は着物を着せましたと云います。現代翻訳によれば明らかに,彼等は裸で踊つたのではなく,何の拘束もなくただ無法にだらしなくしていたと示しています。―出エジプト記 32:25。

今,御自分で,答えて下さい。一体デミルは聖書の記録にどれ程忠実だつたろうか。一体,映画を感動的,崇高な,精神的,又霊感を受けたものだといつた牧師達はどれ程正しいですか。又ある牧師の云う様に本当に神はデミルを使用してこの任務の遂行をゆだねましたか。

[329ページの図版]

牧師 製作者 批評家 聖書 『十戒』

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