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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1958
塔58 10/1 367–369ページ

記憶力は神からの賜物

神は,土のちりから人間の体を造られた時,その中に特殊の働きをする多くの複雑な器官を備えられました。それらの中でも最も複雑な脳は,記憶力というすばらしい賜物を与えられました。これによつて人間は,心に伝えられた事がらを何でも,将来の使用に備えてたくわえることができます。

神は人間の記憶力に制限を加えませんでした。つまり,いつぱいになるとそれ以上何もはいらない器のように,人間の頭脳を造られなかつたのです。それとは反対に,神は頭脳を,いつぱいにならない,中にいれたものを何も失わないで,好きな時に引きだせる貯蔵器に造られました。

記憶力という賜物なしでは,人間は生きて行くことができません。それは,人間の創造者に誉をもたらす驚くべきものであつて,そのことだけでも,神に次のように言うことができます,『われなんじに感謝す,われは畏るべく奇しくつくられたり。』― 詩 139:14。

記憶する力はさまざまに異なります。ある人が他の人より健康な体をもつているように,ある人は他の人よりよい頭をもつています。でもこれは,記憶力は改善できないという意味ではありません。努力するならできることです。運動によつて体が発達するように,記憶力も知力の練習によつて改善できます。神が,人間の頭に与えられた測り知れない能力に気づいている人は少ないようです。頭は人々が普通考えているよりも遙かによく記憶することができます。

長い歴史中には,その働きのすばらしさを示した人が少なからずいました。一例としてトマス・マコレイを考えてごらんなさい。彼は英国の議会で長い討論を聞くことができました。そして幾日もたつてから,一語一語くりかえして言うことができました。また,リチャード・ポーソンがいます。この人は,セクスピヤ,ミルトン,ギボンの作品はむろんのこと,ホーマー,シセロ,ホレス,バージルなどの本を全部記憶することができました。これは少なからぬ業績でした。

リスアニアのラビ,ザウンのエリヤも並はずれた記憶力を持つていました。彼はタルマド,ミドラッシュ,その他多くのユダヤ教の書物と同様に,聖書全部を暗記することができました。そして合計約3000冊の本を暗記したのです。

中世紀には,ボゴミルスと呼ばれた宗派が,その会員に記憶力を発達させてそれを使わせようとしました。会員は,聖書の大部分を暗記するよう要求されたのです。そしてその中の4000人は聖書全部を暗記し,しかも全部の会員は,少なくともギリシャ語聖書を暗記した,とドラゴマノブという歴史家は言つています。

これらの例は,記憶力の目覚しい働きが異様にさえ見えるかも知れませんが,それでも,多くの例の中のほんの二,三にすぎないのです。彼らは,神が人間の心に授けられた驚くべき記憶力を証明しているのです。それはまた,神のみわざの偉大さを示しています,『ヱホバよ汝のみわざは大なるかな汝のもろもろの思いはいとふかし。主(ヱホバ,新世)よもろもろの神の中に汝にひとしきものはなく汝のみわざにひとしきものはなし。』― 詩 92:5; 86:8。

聖書記述者たちの記憶力

聖書を書くために用いられた人々は,よい記憶力を持つた人たちでした。彼らが見た事や聞いた事がらを記録するためにすわる時は,詳細な点に至るまで思い出すことができたのです。使徒ヨハネが第4の福音書を書いた時は,イエスが死なれてから65年も後の事でしたが,それでもその中には,詳細な会話が記録されています。そして,イエスがご自身の追随者たちや反対者たちに言われた事,彼の行つた事がら,彼の上に起つた事がらが記録されています。それは細部に渡つた記録です。ヨハネはこれらの事がらから,あざやかな印象を受けたが故に記憶したのです。そして神の聖霊の助けによつて,それらを明確に思い出すことができました。

キリストの行われた奇跡を見たり,彼の教えるのを聞いた人々は,自分の見聞きしたことを記憶せずにはいられない理由があつたのです。つまり彼らはイエスの話された言葉が,命の言葉であることを知つていたのです。『シモン・ペテロが答えた,「主よ,わたしたちは,だれのところに行きましよう。永遠の命の言葉をもつているのはあなたです。わたしたちは,あなたが神の聖者であることを信じ,また知つています。」』― ヨハネ 6:68,69,新口。

聖書の記述者マルコとルカは,キリストの話されるのを直接聞いたわけではありませんでした。にもかかわらず,彼らが本に書いた事がらは,起つた事がらの正確な記録でした。彼らは,キリストの話を聞いた人々から多くの資料を集めることができました。その人々はイエスの教に関心をもち,それらを記憶するのを主眼としていたのです。

聖書記述者の時代以降,多くの人々が驚くべき記憶力をもつていたという事実にかんがみて,聖書記述者たちが,彼らの記録した多くの詳細な点を思い出すことができたということは,少しも不思議ではないようです。それに彼らは,霊感を与える神の霊をもつていて,心をとぎ澄ましていたことも忘れてはなりません。

この20世紀においてさえも,なみなみならぬ記憶力をもつた人たちがいました。たとえば,テオドル・ルーズベルトは,1頁を一度読んだだけでその読んだことをほとんど一語一語くり返すことができました。彼にこれができた以上は,聖書の記述者たちが,彼らの聞いたことを同じようにすることができたとはお考えになりませんか。

記憶力を発達させる

記憶力を発達させ,この神の賜物を最大に活用することは,今日の神の僕たちの強い望でなければなりません。神の御言葉の中には,神の誉と栄光のために,記憶して用いるべき多くの事がらがあり,また,忘れてはならない多くの御命令があります。『それを忘れることなく,またわが口の言葉にそむいてはならない,知恵を得よ,悟りを得よ。』『あなたがたは,わたしのもろもろの戒めを思い起して,それを行い,あなたがたの神に聖なる者とならなければならない。』― シンゲン 4:5。民数 15:40,新口。

この夏ニューヨーク市で開かれたような神の民の集まりがある時は,記憶しなければならない沢山の知識が与えられます。それは,出席する人々が,努力して忘れないように心に銘記しなければ,憶えられるものではありません。たとえ自分のすでに知つている知識が反復されても,決して心をゆるめてはなりません。記憶するには関心をもつことが先決問題です。これがなくては,神の賜物の記憶力も効果的に働くことができません。関心の不足こそ,多くの人々が,物を記憶するのに困難を感ずる一つの理由です。自分に関係のある事がら,自分の読む物聞く物に十分の関心をよせないからです。

観察

観察力に欠けていることも,記憶力の弱いもう一つの理由です。一般の人は,すばやくまた正確に物事を観察しません。見る物に注意を集中しないので,なまはんかに観察するだけです。そうすると心にはぼんやりとした印象が残るだけで,見た物を思い出そうとする時は,あい分りのしない幻影を思い呼べるだけです。思い出せない事は想像で間に合わせます。最初から心にはつきりときざみつけていない事をどうして記憶できるでしようか?

あなたは人に紹介される時,むとんじゃくにちよつと相手を見るだけで,ろくに名前にも注意を払わずにおいて,後で,どうしてあの人の顔と名前が思い出せないのだろうと思いますか。それはあなたの頭が人を憶えられないのではなくて,むしろ紹介されている時に,あなたが注意を払わなかつたからです。その人を覚えたいと思わないからです。

必要なのは,紹介される時の,観察と,注意力の集中だけです。背の高さ,体格,顔の形,目や髪の色,耳や鼻やあごや口の形などをよく観察しなさい。きずまたは欠陥に注目しなさい。名前を注意深く聞き,それに心を集中しなさい。名前で容ぼうを連想するようにしなさい。そして会話の中でその人の名前を数回使いなさい。夜になつてその人の像や名前を思いかえしてごらんなさい。心にはつきりと印象づけることだけによつてその人を思い出すことができるのです。これはあなたが見るもの何についても同じ事が言えます。何か見るときは,詳細な点まで見なさい。それに全く注意を注ぎなさい。鋭い観察力を持つ感覚を訓練しなさい。

使徒パウロは,観察力の鋭い人のよい例でした。彼はアテネに行きましたが,その街を歩く時にも見る物によく注意を注ぎました。彼はこまかい点,たとえば,その街にあつた多くの崇拝の対象物に混ざつて,知られない神にささげられた祭壇が一つあつたのさえ見逃しませんでした。『アテネの人たちよ,あなたがたは,あらゆる点において,すこぶる宗教心に富んでおられると,わたしは見ている。実は,わたしが道を通りながら,あなたがたの拝むいろいろなものを,よく見ているうちに,「知られない神に」と刻まれた祭壇もあるのに気がついた。』― 使行 17:22,新口。

連想

読んだり聞いたりすることを,自分がすでによく知つていること,もしくはすでにもつている知識と結びつけて考えると,物を思い出す力がとても強くなります。そして新しく学んだ事がらが,必要な時により容易に思い出せます。なぜかというと,それと結びつけておいた熟知している事がらがカギのように働いて,それを引き出すからです。

仮にあなたがイタリヤのだいたいの輪郭を憶えたいとするならば,イタリヤの国の形を,ボートの形に連想すると,容易に記憶することができます。またもし,ヘブル語聖書から,直接ギリシャ語聖書に引用されている聖句の数を憶えたいならば,365の引用句を1年の日数と結びつけることができます。

また,事物を心にありありと描くことも,物を思い出すのに役立ちます。これは,記憶すべき事がらを視覚心像と結びつけることです。たとえば,紹介された人の名前が有名なスープの商標に似ていれば,その人がそのスープの特大罐をかかえている姿を心に描くことです。次にその人に会う時は,直ちに名前を思い出すでしよう。名前は普通かなりたやすく心像化することができます。

その日の中にどうしてもしなければならない仕事がある時,それを思い出すのにどうしてノートを使うのですか。どうして自分の記憶力を信頼しないのですか。記憶力は訓練がいるのですから,訓練してやりなさい。この神の賜物に対して,ノートブックは貧弱な代用品です。実際に,頭に入れるべき知識を,手帳や印刷した頁に頼りすぎる傾向があります。この悪い習慣は,物を憶える力を増進させる助けにはなりません。あなたは自分の記憶力を信頼することを練習しなければなりません。

しなければならない仕事や,買いたいと思う物をはつきりと心に思い浮べ,それから,ぐるりと部屋をひと回りしながら,部屋の中のよく見なれた物品を通してそれらを連想してごらんなさい。よく知りつくしているそれらの物品は,記憶しなければならない事物の整理だなの役目をしてくれます。一組の事について二,三回それを繰返し,それらに注意を集中してそれらを働かすならば結びつきをもつて来るでしよう。それから,どうせよく忘れる沢山のノートなどにわずらわされないであなたの記憶を信頼し,せつせと仕事にはげみなさい。

黙想

聖書時代の神の僕たちが,よい記憶力をもつていたひとつの理由は,彼らが黙想したということです。彼らは学んだ事がらを心で復習しよく考えました。聖書はイサクがこれをしたことを述べています。『イサク黄昏に野に出て黙想をなしたりしが……』(創世 24:63)彼は静かな所でひとりになろうと営を出ました。そしてそこで記憶の中に貯えた知識に心を集中し,神の言われた事,なされた事がらを思いかえして,それらをいつそう深く心に刻みつけたのです。ダビデもこのことをしました,『わたしはいにしえの日を思い出し,あなたが行われたすべての事を考え,あなたのみ手のわざを思います。』― 詩 143:5,新口。

今日の神の僕たちは,これら忠実な人たちの模範に従わなければなりません。創造者とその目的について学んだ事がらを,折々心の中で復習して見なければなりません。特殊の事がらについて黙想しながら,細部にわたつて再吟味しなさい。

大会に出席する時は,一日の終りに,講演から学んだ事がらを再検討する習慣をつくりなさい。そしてはつきりとした印象を心に刻みつけるように努力しなさい。これによつて,学んだ事がらはあなたの記憶に残るでしよう。注意力の集中についでたいせつなものは復習です。注意力の集中によつて憶えたい事がらが心にはいり,復習がそれらを心に結びつけるのです。

記憶力という神の賜物は,それを与えた方の誉となるものです。それは驚くべきものであり,祝福であり,あらゆる努力を払つて発達させる価値あるものです。それを賢明に用いなさい。そうすれば記憶力はあなたに大きな助けとなります。

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