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  • 人々でなくて悪を憎みなさい
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1958
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1958
塔58 10/15 396–398ページ

人々でなくて悪を憎みなさい

愛は,ヱホバの顕著な属性です。『神は愛なり』と使徒ヨハネは書きました。ヱホバの愛はあまりにも完全ですから,その愛が敵にまで及ぶのはイエスの言われた通りです。『「隣り人を愛し,敵を憎め」と言われていたことは,あなたがたの聞いているところである。しかし,わたしはあなたがたに言う。敵を愛し,迫害する者のために祈れ。こうして,天の父は,悪い者の上にも良い者の上にも,太陽をのぼらせ,正しい者にも正しくない者にも,雨を降らして下さるからである。あなたがたが自分を愛する者を愛したからとて,なんの報いがあろうか。そのようなことは取税人でもするではないか。兄弟だけにあいさつをしたからとて,なんのすぐれた事をしているだろうか。そのようなことは異邦人でもしているではないか。それだから,あなたがたが天の父が完全であられるように,あなたがたも完全な者となりなさい。』― ヨハネ第一書 4:8。マタイ 5:43-48。

もしヱホバが御自身の敵に対して忍耐を持たれるならば,私たちも持つべきではありませんか。彼らに対して示されるヱホバの愛は,ギリシャ語の「アガペ」で表現されています。そしてそれは,感傷的な愛情よりも範囲において広いものです。ストロング博士の述べているごとく,その愛には,『道義と義務と適正の問題として,特に,分別と意志の慎重な同意が包含されている。』その愛は,敵のためにさえも良き事を願い,たとえ彼らの行為のすべてを是認できなくても,彼らの福祉のために働きます。神の愛は神に対して罪を犯していた者の福祉のために働きました,『まだ罪人であつた時,わたしたちのためにキリストが死んで下さつたことによつて,神はわたしたちに対する愛を示されたのである。』神が罪人の刑執行を待つておられるのは,神がのろいからではなくて,神の愛によるのです,『ある人々はおそいと考えているが,ヱホバは彼の約束に関しておそいのではない。ヱホバはあなた方に忍耐されているのである。というのは彼はひとりでも滅びるのを望まれずすべての者が悔い改めるよう望まれているからである。』神はその御親切と寛容と忍耐とによつて,罪人たちを悔い改めにいたらせようとされているのです,『神の恵みの徳は,あなたを導いて悔い改めにいたらせるということを知らないか。』神は罪を是認されません。しかし,罪人に対しては愛を示されます。―ロマ 5:8,新口。ペテロ後 3:9。ロマ 2:4,新世。

私たちが憎むもの

悪を憎むのは正しいことです。そうすることはヱホバにならうことであり,キリストの模範に従うことになります。ヱホバは,『高ぶる目,偽りを言う舌,罪なき人の血を流す手,悪しき計りごとをめぐらす心,すみやかに悪に走る足,偽りをのべる証人,また兄弟のうちに争いをおこす人』を憎まれます。イエスは,『義を愛し,不法を憎まれ』ました。それでもヱホバとキリストは,罪人の罪を憎みながら彼らに愛を示されました。ですから私たちもそうしなければなりません。―シンゲン 6:17-19。ヘブル 1:9,新口。

愛は罪人の心を変えるかも知れません。私たちは罪を犯す人々に伝道します。しかも愛を持つて伝道します。というのは愛の中に伝道されなければ何にもならないからです,『たとえわたしが,人々の言葉や御使たちの言葉を語つても,もし愛がなければ,わたしは,やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。たといまた,わたしに預言をする力があり,あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても,また,山を移すほどの強い信仰があつても,もし愛がなければ,わたしは無に等しい。たといまた,わたしが自分の全財産を人に施しても,また,自分のからだを焼かれるために渡しても,もし愛がなければ,いつさいは無益である。』私たちは罪に対してではなくて,罪人に愛を示します。―コリント前 13:1-3,新口。

私たちは,人が若いとか年老いているとか,男であるとか女であるとか,背が高いとか低いとか,肥つているとかやせているとか,金髪だとか黒い髪の毛だとか,美しいとかみにくいとかの理由で,人を憎みません。憎しみをさそうのは人の外見や顔かたちではありません。悪いのはその人の行為です。そして私たちが正義を愛するならば,彼の悪を憎みます。もし彼がそれらの行為をやめるならば,私たちの憎しみの原因はなくなり,従つて私たちの憎しみもなくなります。迫害者が迫害をやめて,ヱホバの真理を受け入れる時は,私たちは彼を愛します。彼が悪を行つている間でも,愛を示しなさい。そうすれば,その愛は彼を正しい行いに導くかも知れません。これはヱホバの愛の道です,『また,わたしが悪人に『あなたは必ず死ぬ』と言つても,もし彼がその罪を離れ,公道と正義とを行うならば,すなわちその悪人が質物を返し,奪つた物をもどし,命の定めに歩み,悪を行わないならば,彼は必ず生きる。決して死なない。彼の犯したすべての罪は彼に対して覚えられない。彼は公道と正義とを行つたのであるから,必ず生きる。』― エゼキエル 33:14-16,新口。

罪人は自らの罪を憎む

悪を行う子供はこらしめを受けます。それは彼が愛されているからです,『それヱホバはその愛する者をいましめ給う,あたかも父のその愛する子を戒むるが如し。』子供はいろいろな悪い行いをするかも知れませんが,それでも両親は自分の子供を愛します。親は悪い行為を憎みますが子供を憎みません。そしてこらしめによつて子供を矯正しようと努力します。ヱホバもまたその通りです。ヱホバは,罪深い人が救える可能性がある時にそうされます。人が悪に落ち込むのは,多くの場合肉の弱さのためであつて,その人自身が実際に望むからではないということを,ヱホバはよくご存じです。パウロは,彼自身が犯した罪に対する憎しみをこのように示しています,『なぜなら,わたしは自分の欲する事は行わず,かえつて自分の憎む事をしているからである。それで,この事をしているのは,もはやわたしではなく,わたしの内に宿つている罪であるわたしの内に,すなわち,わたしの肉の内には,善なるものが宿つていないことを,わたしは知つている。なぜなら,善をしようとする意志は,自分にあるが,それをする力がないからである。すなわち,わたしの欲している善はしないで,欲してない悪は,これを行つている。もし,欲しないことをしているとすれば,それをしているのは,もはやわたしではなく,わたしの内に宿つている罪である。』人々が犯す罪の多くは,弱さ,環境,過去における幼年期の不幸な状況が原因していて,真の自分を少しも表現していないのです。ある人は無知のために悪を行つていますから,知識を得るならばすぐに悔い改めるかも知れません。―シンゲン 3:12。ロマ 7:15,17-20,新口。

人が憎しみでかたまつた時

以上のような場合は,罪は実際にその人の内的欲求やあこがれを示すものではありません。ところが,このような人々がいます。つまり自分が悪いことを十分に知りながら,故意に罪を追い求め,それを楽しむほど堕落した人です。彼らは余りにも深く自己の性質を罪の中に没しているので,罪から引き離すことは困難であり不可能です。彼らは,ヱホバの御前にゆるしをこうことができないほど極端に走ります,『人には,その犯すすべての罪も神を汚す言葉も,ゆるされる。しかし,聖霊を汚す言葉は,ゆるされることはない。』啓発的なヱホバの霊に反して故意に,継続的に犯される罪はゆるされません。明らかな霊の働きに対する反抗はゆるされないのです。人が,悪であることをよくよく知らされてもなおかつ悪行に固執し,それが,取り去ることのできない性質の一部となつて根深くしみこんだ時,人は,その罪と悪行を好んで離れない人を憎むべきです。人と罪が離れなくなつて,永久に合同した時,それ以外にどんな方法があるでしようか。―マタイ 12:31,新口。

そのような矯正しがたい人たちは,『悪を憎み,善を愛し』という命令を逆にして,『善を憎み,悪を愛』す者になつたのです。彼らのためにはとりなしはなされません。『あなたはこの民のために祈つてはならない。彼らのために嘆き,祈つてはならない。またわたしに,とりなしをしてはならない。わたしはあなたの求めを聞かない』とヱホバは言われています。神ご自身が,『これ(神)を憎む者にはてきめんにその報いなしてこれを滅ぼしたもう。ヱホバは己を憎む者にはゆるやかならずてきめんにこれに報いたもう』でしよう。ある人々は,どのような強いこらしめにも,悪を離れることができないほどになります。そうなればもう悪だけを滅ぼして人間を救うことができなくなります。分離しないので両方とも共に滅ぼされなければなりません。そのような人々は,神が愛の象徴であるように,悪の象徴となります。邪悪な行いは実際に,矯正不可能な悪い心の表現であり反映です。そのような人々に対してイエスは言われました,『あなたがたは自分の父,すなわち,悪魔から出てきた者であつて,その父の欲望どおりを行おうと思つている。』マタイ伝 23章においてはイエスは,彼らを烈しく非難して尋ねました,『へびよ,まむしの裔よ,なんじらいかでゲヘナの刑罰を避け得んや。』― アモス 5:15。ミカ 3:2。エレミヤ 7:16。申命 7:10。ヨハネ 8:44,新口。マタイ 23:33。

ヱホバを憎む悪者が,その悪と憎しみから離れない時,私たちがどうして彼を悪から離すことができますか。私たちが彼の罪深さを憎むのは正当な事です。『汝悪しき者を助けヱホバを憎む者を愛してよからんやこれがためにヱホバの前より怒なんじの上に臨む。』憎しみが非常に烈しく,心にしみこんでしまつていて,その人から取り去ることができないならば,その憎しみは,愛を持つて忍耐強く交渉できるところのアダムから受けついだ罪もしくは無知に起因する敵意以上のものです。『ヱホバよわれは汝をにくむ者をにくむにあらずや,なんじに逆いておこりたつものを厭うにあらずや。われいたくかれらをにくみてわが仇となす。』― 歴代下 19:2。詩 139:21,22。

これら邪悪の象徴である矯正不可能の人たちは,自らをはつきりと示します。しかし,神から離れている一般の人々に対しては,私たちはキリストが考えられたごとく見なすことができまたそうすべきです,『群衆が飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れているのをごらんになつて,彼らを深くあわれまれた。』私たちは彼らの罪は憎んでも,愛を持つて彼らに伝道することができます。悪を行う矯正可能な人ではなくて,悪を憎めと言われると,それはむずかしいことのように思えるかも知れません。しかし,よく考える時,私たちは過去ずつと自分に対してそのようにしてきたことに気づきます。ですから他の人々に対しても同じように行いましよう。―マタイ 9:36。

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