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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1959
塔59 1/1 14–19ページ

善意者を教える

『それ故に,あなた方は行つて,すべての国民を弟子として,あなた方に命じておいたいつさいのことを守るように教えよ。』― マタイ 28:19,20,新口。

1 (イ)古い世の教育制度の顕著な失敗は何ですか。(ロ)古い世と共々に滅びるのを防ぐ為,善意者はどんな手段を採つていますか。

この世は不適当な教育をしている為,ハルマゲドンの戦のときに生命を失うでしよう。学校が十分の数の科学者や技術者を産出し得なかつた為に,永遠の安全が脅かされているのではありません。彼らは神を恐れることを教えないために,滅亡を受けるのです。ホセア書 4章6節の言葉は,昔のイスラエルに適用されるだけでなく,現代のキリスト教国にも適用されます,『我が民は知識なきによりて亡さる……なんじ己が神の律法を忘るるによりて,我もなんじの子らを忘れん。』しかし,幾十万という善意者は,ヱホバの新世社会に頼ることにより,より高い源からの教育を受けたいという願望を表わし示しています。彼らは『我ら汝らと共に行くべし。そは,我ら神の汝らと共にいますを聞きたればなり。』と言います。彼らは学びたいと欲します。彼らに教えられる事柄は,「イエスの命じた事柄です。」そして,彼らを教える一番効果的な方法は,イエスと使徒たちの為した方法の中に見られます。―ゼカリヤ 8:23。

イエスの教え

2 イエスの教えた顕著な事柄のいくらかは何ですか。

2 簡単に言つて,いつたいイエスは何を教えましたか。先ず,彼は御父なるヱホバについての真理の証をなし,彼を崇め,彼の御名を知らせる為に来ました。(ヨハネ 17:4,26; 18:37)イエスは神の御国に大きな強調を置きました。人々は神の御国を祈り求め,確信を置かねばなりません。彼は御国を第一に求めるように弟子たちを教えました。(マタイ 6:10,33)彼らは救いをもたらす神の御準備について学びました。愛と謙遜の必要は,彼らの心に銘記されました。信仰の業によつて信仰を表明し,真理を教える者になるようにと,彼は彼らを教えました。そして,聖書に対する信仰を持つと共に,他の人々を援助して聖書への信仰を持たせるようにと,彼は教えました。

3 私たちがイエスの教えた方法に従うなら,どんな結果が生じますか。

3 イエスの教えた方法を注意深く調べる時,私たち自身の教える能力は改善し,宣教における私たちの産出性は増加するでしよう。すべての人が私たちの言葉に耳を傾けると期待すべきではありません。すべての人がイエスの言葉に耳を傾けたわけではないのです。しかし,羊は彼の声を認めて,正しい羊飼なるイエスの後にしたがいました。私たちがイエスの行つた事柄を教え,またイエスの行つた仕方で教えるなら,羊は私たちを通しても正しい羊飼の声を認めることができるでしよう。そして,熱心に向を変え,私たちに従わず,彼に従うでしよう。―ヨハネ 10:16。

4,5 (イ)伝道することと教えることとの相違は何ですか。(ロ)御父についてのどんな事柄をイエスは弟子たちに教えましたか。

4 他の人に告げること,つまり伝道することと,人を教える,つまり人を援助して理解を得させ,信じさせることとは全く違う事柄です。イエスは御父について弟子たちに忍耐づよく教えました。なぜなら,御父についての知識を採り入れることは生命を意味すると知つていたからです。『ヱホバを畏るることは,智恵の根本なり。聖者を知るは,聡明なり。』(シンゲン 9:10)彼らがヱホバを知つてヱホバに対する正しい恐れを持つとき,智恵を示します。彼らは学んだ事柄について何を為すべきかを知ります。なぜなら,智恵とは知識を用いる能力だからです。

5 イエスは,御父に祈りを捧げるよう彼らに告げただけでなく,その仕方をも示しました。(マタイ 6:5-15)彼は神に依頼するよう,そして天の御父からの御準備として生命を支える事柄を受け入れるよう彼らに教えました。(マタイ 6:25-34)彼は聖書から引用し,また聖書を説明することにより,神の言葉なる聖書に対する彼らの確信を建て起しました。或る都市とか或る山だけに神の崇拝を限定することは,悪いとイエスはサマリヤの女に説明しました,なぜなら『神は霊であるから,礼拝をする者も,霊とまことをもつて礼拝すべきである。』(ヨハネ 4:24,新口)神に対する人間の関係から判断して,人間の業は自己を高めるためになされるべきでなく,神を賛美する為になされるのが正しいと,イエスは指摘されました。『そのように,あなた方の光を人々の前に輝かし,そして,人々があなた方の良い行いを見て,天にいますあなた方の父をあがめるようにしなさい。』(マタイ 5:16,新口)イエスは御父を崇めるため,そして善意者を援助して御父との関係を悟らせる為に来ました。それでこれらの諸点が弟子たちの思いと心に深く刻みつけられるよう念には念を押されたのです。

6 「御国を第一に求めよ」という意味を示す為に,イエスはどんなたとえ話を用いましたか。

6 「神の御国を第一に求めなさい。」それは言うには易しいものです。しかし,その意味が理解され,かつ聴く人の生命を支配するような仕方で,その点を表現するには,どうすれば良いですか。学ぶべき事柄を聞く人の生活とか,毎日の経験および聞く人の欲求とか習慣から例証するなら,その事柄は極めて簡単に理解されると,イエスは知つていました。彼の話を聞く者は,その話の事柄を光景に想い浮かべることができたからです。イエスは,その御国に対する熱烈な欲求を,丁度土の中に埋められた宝を見つけた人が,その地所を買うために持ち物全部を売つてしまう気持になぞらえました。(マタイ 13:44)イエスは,御国の力を持つて臨在いたします。その臨在を示すしるしを見分ける能力は,季節の変りを見得る人間の能力に比較されました。人は学ぶ気持があるなら学ぶことができます。(マタイ 24:32,33)御国に来るようにとの招待に対する感謝の不足は,婚姻の御馳走に招かれた人々の無関心な態度で説明されました。これらの人々は,王によつて招待されましたが,他の事柄に専念していて,出席を断つたのです。支配者に対して尊敬を示さぬその返答により,彼らは罰を受けました。―マタイ 22:1-14。

7 偽りの教職者たちに対してイエスは,どのように警告し,またすべての者が御国を相続しないことをどのように示しましたか。

7 明らかに分ることですが,すべての人は御国を相続するわけではありません。イエスはその点を理解させる為に,二人の息子の態度を引合に出されました。片方は表て向きには父親に敬意を表していましたが,従いませんでした。他の一人は,最初父親の言いつけ通りすることを渋つていましたが,その間ちがいを悔い改めて従うようになりました。『二人の中どちらが父の望みどおりにしたか。』とイエスは問われ,『あとの者です』と彼らは言いました。表て向きは義者らしく見える宗教指導者たちは,洗礼者ヨハネの教えに答え応じなかつたが,以前は神の言葉に答え応じなかつた罪人たちは悔い改めていまは御国に入れるようになつた,という論議に対するなんと強力な紹介の言葉でしよう!(マタイ 21:28-32)偽わりの宗教指導者たちのところに行つて,霊的な食物を求めるのは望ましくないことを示す為に,彼は偽りの宗教指導者たちを汚い皿にたとえられました。汚い皿からは誰も食べたいとは思わないでしよう。イエスの言われたように,たしかに彼らは表てむきは『白く塗られた墓』のごとく,良く見えます。しかし,誰もその内部の腐敗の一部になりたいとは欲しません。(マタイ 23:25-28)漁夫の網から取り捨てられる魚という話から,他の人々はその点がもつと良く理解できるでしよう。それで,イエスは曳網のたとえ話を用いました。(マタイ 13:47-50)そのような適切なたとえ話により,イエスは聞く者の心に音信を生き生きとしたものにしたのです。

8 どのような方法を用いることにより,イエスはヱホバの救いの手段を受け入れることを,心にひびかせるようにしましたか。

8 彼らが学ばねばならぬ別の点とは,神はイエスを通して救いを施されるということです。その考えはすべての人に受け入れられず,多数の人にとつてイエスは『つまづきの石,妨げの岩』でした。(ペテロ前 2:8)しかし,イエスはその事柄を極めて巧みに提出されたため,聞く者の気持にピンと響き,かくしてその人の永遠の祝福をもたらすことになりました。毎日,井戸から水を汲み出すという辛い仕事をしていたサマリヤの女に対しては,イエスはその毎日の仕事と信仰の恩恵とを結びつけました。『「私が与える水を飲む者は,いつまでも,かわくことがないばかりか,私が与える水は,その人の中で泉となり,永遠の生命に至る水が,わき上るであろう。」女はイエスに言った,「主よ,私がかわくことがなく,また,ここにくみにこなくてもよいように,その水を私に下さい。」』(ヨハネ 4:14,15,新口)彼女は興味を持ちました。そしてイエスは更に説明をいたしました。イエスに反対した他の者たちに対しては,彼はなかなか忘れることのできない事を描写しました。彼らがイエスを拒絶したことは,ぶどう園を栽培していた者の不正な行いに,比較されています。それらの者たちは所有主に支払うべき物を支払わず,その事柄を調べる為に遣わされた所有主の息子を殺す事すらしたのです。―ルカ 20:9-18。

9 どのように,そしてなぜ彼は愛とけんそんを彼らに教えましたか。

9 新しい世の生命を得る為に,愛と謙遜はぜつたい必要であるとイエスは知つていました。それらのものを得る為には,心の教育が必要です。それらのものの表現を見ることによつて一番良く学べるのです。それで,イエスはヱホバが彼らの上に注がれた無数の愛の表現に彼らの注意を惹きました。彼らは又,イエスの態度と宣教の中に,彼の教えた者たちに対して感じた『やさしい愛情』の中に,天の御父に捧げられた彼の祈りの中に,またイエスが彼らの足を洗われたとき,そして人類の為に自分の生命をよろこんで捨てられたとき,愛とけんそんを目で見ることができました。見聞きした事柄を回想するとき,その教えは彼らの心に深く入り,心を柔くし,心に反応をなさしめたのです。『私たちが愛し合うのは,神がまず私たちを愛して下さつたからである。』― マタイ 9:36。ヨハネ第一書 4:19,新口。

10 イエスの宣教記録の中には反論についてのどんなすばらしい例が見出されますか。

10 イエスが弟子たちを遣わされたとき,その仕事の為し方について注意深い指示を与えました。彼は何を言い,何を為すべきかを告げました。彼は,彼らの会う反対について弟子たちに準備せしめ,そして彼らの持つすばらしい祝福を銘記せしめました。(マタイ 10:1-28)教えるということは,善意者に真理を提供するだけでなく,敵共の不誠実な攻撃をしりぞけることであると,彼らは知つていました。彼らはイエスを観察している中,ぶつかつた状況に対してイエスがどのように取り扱われたかを学びました。彼の立場は強いものでした。彼は真理を持つていました。彼の論議の簡潔さと力強さの例は,マタイ伝 9章11-13節に見出されます。パリサイ人たちは,『なぜ,あなた方の先生は,取税人や罪人などと食事を共にするのか』とイエスの弟子たちに尋ね,彼らに不安な気持を与えようとしました。イエス御自身がその質問にこう答えました,『丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である,「私が好むのは,あわれみであつて,いけにえではない」とはどういう意味か,学んできなさい。私が来たのは,義人を招くためではなく,罪人を招く為である。』別の時に,イエスが安息日に病人を癒したことが問題となりました。それに対するイエスの答えには,反論することはできません,『あなたがたのうちに,一匹の羊を持つている人があるとして,もしそれが安息日に穴に落ちこんだなら,手をかけて引き上げてやらないだろうか。人は羊よりも,はるかにすぐれているではないか。だから,安息日に良いことをするのは,正しいことである。』(マタイ 12:9-12,新口)学びたいという気持を持たずに質問がされたときは,彼の答えは極めて短いものでした。しかし,聞く人々の内で正直な心を持つ人は,イエスが真理を教えたと認めることのできるような仕方で,その答えはなされたのです。

11 何がイエスの教えをかくも説得力のあるものにしましたか。

11 イエスの言葉に,そのような力を与えるものは何ですか。彼の話は,なぜ説得力を持ちますか。先ず第一に,彼は真理を教えたからであり,またヱホバの御霊を持つていたからです。また,イエスは聞く人が容易に理解できる言葉を用いて伝道しました。彼が魚と網についての話をなして諸点を説明したときに,漁師はその点がすぐに分つたでしよう。農業について知つている人ならば,誰でも収穫とか,ぶどう畠で働く人々,ひなどりを持つ牝鶏,穴で捕まつた動物,そして天候についてのイエスの言葉を十分に理解し得たでしよう。家庭の雑事をしていた人々は,イエスが着古した衣服のつぎ,パンに及ぼすパン種の影響,汚い皿,そして子供たちの行う事柄でもつて説明したとき,その音信を良く理解することができたのです。他の者たちにとつては,賃銀のこと,エルサレム市の塵芥所であるゲヘナなどに言及されたことは,考えというものを明瞭に理解することができました。イエスは真理を提供されるときに一本調子でなく,適応性を持つものでした。音信そのものはすこしも変わつていませんが,イエスは自分の教えた人々に興味を持つていましたから,彼らを理解することができました。そして人々の見地から事柄を採り上げました。彼は聞く者の反応を見守り,それから後の話の中にその反応を考慮に入れられたのです。呑みこみがむずかしい諸点については,人々の良く知つている事柄とむすびつけました。彼は明白な対照を用いることにより,助言をはつきり示しました。イエスは,私たちの見ならうべき先生です。

パウロはユダヤ人と異邦人を教えた

12 ユダヤ人に対する話の中で,パウロはキリストに対する信仰という事柄をどのように提供しましたか。特に何が彼の論議を聴衆の心に強くひびかせましたか。

12 イエス・キリストの熱心な使徒パウロは,真理を教える業に心をこめて専念しました。そして,彼の宣教の記録の中にも,有益な諸点がたくさんあります。使徒行伝 13章16-41節は,パウロがユダヤ人に述べた聖書の話で,これは私たちの従うべき良い模範です。それは,心に強くひびくもの,説得力のあるもの,要点をついたものです。冒頭のところで,パウロはユダヤ教の優越性についての論議を避けているのに注意しなさい。パウロは,彼らに向かい『神を敬うかたがた』と呼びかけ,そして『この民イスラエルの神は,私たちの先祖を選び』と認めたのです。しかし,彼はあまりに巧みであつたため,真理の提供に失敗するということはありませんでした。彼はその民のかたくなな態度を示す一般周知の歴史的な事実を述べることにより,メシヤについての論議を行う為の土台の部分を置いたのです。洗礼者のヨハネに言及することにより,パウロは当時の世の著名な人はキリストを受け入れたと示しました。支配者たちがキリストを拒絶しても,それはキリストの不名誉にならないとパウロは論じます。むしろ,そのことは予言を成就したのであつて,キリストに対する彼らの信仰をかためるべきであると彼は論じます。彼はイエスに対する信仰を,愛されたダビデ王を受け入れることと巧みに結びつけました。そして,イエスの立場の優越性を示しました。彼は,彼らの知つている事柄,彼らの信じている事柄について論議を建てて行きました。心を強く動かす結論では,彼は不信な態度で嘲笑をなす者について述べる予言の成就に加わらぬよう強くすすめました。正直な心を持つユダヤ人で,自分の民の歴史に通じ,神の予言者たちの書いた事柄を誠実に信じている人なら,誰一人としてこの論議に背を向けることはできませんでした。

13 聖書を受け入れない者に対しても,パウロの真理の提供が心にひびくもの,そして効果的なものであつたのは,何によりましたか。

13 パウロは,諸国民の為に主なる神より良いたよりを委ねられた者であると自ら語つています。諸国民に伝道することは,ユダヤ人に伝道する場合とは全く異る問題を提出しました。使徒行伝 17章22-31節には,良いたよりがそれらの人々に提供される仕方についての例が書かれています。そして,今日同様な任命を持つ者に対して良い指針となつています。パウロは自分の奉仕した人々に興味を持つていて,彼らの生活の仕方を観察していました。パウロの切り出しの言葉は,彼らの宗教的な献身について興味深く述べ,それから彼らの崇拝の場所の一つに註解をしました。彼は真の崇拝に結びつけてゆきますが,その時に彼らの偶像崇拝とは結びつけず,知られざる神を崇拝したいという彼らの正しい欲望と結びつけます。多数の人々は多くの神々を崇拝しましたから,パウロは彼が神と言う場合にその神とはどういう方であるかを注意深く説明しました。この世界の創造者なる御方は,偶像でなく,また人間の手でつくつた宮に住まないと,パウロは論じています。いまこそ,私たちは神の目的を知り,神の目的に一致すべきであるとパウロは論じます。それは,裁きの日に私たちが良い恵みの立場を持つ為です。彼らが自分たちの神殿で聞いたものと,この音信をごちやまぜにすることはあり得ません。それは巧みなものでしたが,また要点をついたものでありました。神が誰であるか,神は私たちの前にどんな希望を置かれているか,そして私たちは何をすべきか,が明白に示されました。あなたの聖書の話は,それと同じほどに良く提供されますか。

現代において真理を教える

14 教会で同じことを学びますという家の人を,どのように巧みに援助し得るかを例証しなさい。

14 それで今日のヱホバの証者は,すべての国民を教えて彼らに『御国の良いたより』を知らせよというイエスの命令に従い,人々の家庭を訪問します。彼らは,人々が真実に学ぶように,そしてヱホバの証者が聖書からもたらす音信と,普通のキリスト教国の説教壇から述べられる教えとの相違を見ることのできるよう欲します。教会に行く一般の人々に,私たちは信仰を持たねばならぬと告げるなら,そんなことは教会で聞いているとその人は答えるでしよう。神についての知識を採り入れねばならぬと告げれば,そんなことは知つていると言うでしよう。まつたくのところ,神の御国にも信仰を持つている,とその人はあなたに言うでしよう。教える資格を持つ奉仕者は,これらの事柄を家の人に告げるだけで自分の仕事が完了したとは感じません。人が進んで聞こうとする態度を示すなら,奉仕者はその人が真実に音信を理解するようにいたします。それですから,奉仕者は神をよろこばす為の必要な信仰とは単なる信仰以上のものであると指摘します。その信仰は神の御言葉の正確な知識に基づかねばなりません。(ヘブル 11:1,6)神について語る時,神はヱホバという御名を持ち,神を真実に知るために聖書中に記されている神の目的を理解せねばならぬと指摘することができます。(詩 83:18)また,御国は天から運営されている真実の政府で,間もない中に地上から悪を拭いさるもの,そして神の御国の支配下で永遠の生命を得たいなら,私たちの生活を神の要求に沿わせねばならぬと明白に説明することができます。―ダニエル 2:44。

15 初期のクリスチャンの場合と同じく,今日のヱホバの証者のなす教えが効果的なのは,何によりますか。

15 今日,教会員は聖書を持つており,多数の人々は聖書の言葉を聞いています。彼らは丁度イエス時代のユダヤ人のようです。そのときのユダヤ人は聖書を持つていて聖句の朗読をしばしば聞きました。しかし,彼らは聖句の意味を悟ることができなかつたのです。イエスと使徒たちが人々を教えたとき,彼らはその教えに驚嘆しました。イエスや使徒たちは,宗教牧師のような教え方をしませんでした。彼らは誠実であつて,自分たちは真理を教えていると知つており,神の聖霊は彼らを助け支えました。(使行 4:13)同じく今日,ヱホバの証者が人々の家庭で宣教を行うとき,彼らは聖書を巧みに用います。適当な聖句を読み,それからその聖句内にある教訓の諸点に特別な注意を惹き,そして現代におけるその適用について註を述べます。彼らは伝道するだけでなく,また神の言葉を教える者でもあります。

16,17 興味を持たない人に会うとき,どのように宣教を行うべきかについて,聖書はどんなすばらしい助言を与えていますか。このことは私たちの教えることにどんな効果をもたらしますか。

16 或るサマリヤ人の村で,人々はイエスを快く迎えないことがありました。ヤコブとヨハネは激怒して,こう言いました,『主よ,いかがでしよう。彼らを焼き払つてしまうように,天から火をよび求めましようか。』(ルカ 9:54,新口)イエスは2人を叱りました。私たちはそのことを心にとめるべきです。無関心とか公然とした反対に会おうとも,私たちが興奮してしまう理由はありません。パウロの助言は次の通りです,『主の僕たる者は争つてはならない。だれに対しても親切であつて,よく教え,よく忍び,反対する者を柔和な心で教え導くべきである。おそらく神は,彼らに悔い改めの心を与えて,真理を知らせ,一度は悪魔に捕えられてその欲するままになつていても,目ざめて彼のわなからのがれさせて下さるであろう。』― テモテ後 2:24,26,新口。

17 私たちは,彼らに真理を教える為に遣わされています。峻烈で鋭い言葉が良く教えるということは先ずありません。『心に智恵あれば哲者と称えらる。くちびる甘ければ,人の知識をます。』(シンゲン 16:21)私たちは『飼う者のない羊のように弱り果てて,倒れている』人々を深くあわれみます。(マタイ 9:36,新口)私たちが訪問すると,人々は冷い態度で音信を拒絶するかもしれません。しかし,私たちは立腹しません。「愛は寛容であり,自分の利益を求めない。いらだたない。うらみをいだかない。」(コリント前 13:4,5,新口)人々が真理を受け入れるなら,それは彼らにとつて生命を意味すると,私たちは知つています。私たちは音信を彼らに強制しません。しかし「反対する者を柔和な心で教え導き」ます。ヱホバの証者がこのような愛に充ちる態度を採る故に,幾千幾万という人々は真理を学びました。『智恵ある者の心は,おのれの口を教え,またおのれの口唇に知識をます。』(シンゲン 16:23)賢明であるとき,動機の座である彼の心は,愛によつて動かされます。それによつて,彼の仕える人々の真実の状態に焦点を合わせ,彼らと交際をする際に賢明さを示すことができます。それによつて,或る人々はその人の言う言葉に耳を傾け,なる程と理解し,そして『目ざめて彼(悪魔)のわなからのがれる』でしよう。

円熟に進歩する

18 (イ)ヱホバの証者は,善意者に対する真実の愛をどのように表明しますか。(ロ)クリスチャン奉仕者の与える教訓を真実に根づかせる為に,どのような提案が与えられていますか。

18 ヱホバの証者が正しい羊飼の声に答え応ずる者を見出すとき,仕事は終つたと感じますか。いいえ,感じません。ヱホバの証者はその人を助けて羊飼の羊の群れに交わらせ,クリスチャン円熟に進ませます。毎週,定期的に彼らは訪問して,答え応ずる人と聖書の研究をします。かくして,その人は聖書の命ずることが何であるかを知ります。教えている人は非常な注意を払い,善意者がたしかに学んでいて,要点を理解し,そして円熟に向つて進歩するようにします。すべての人は同じ歩調で進歩しません。しかし,注意深く組織化することにより各人の霊的な進歩は適当な注意を受けます。新しい人を励まして自分の意見を述べさせなさい。『御言葉を教えてもらう人は教える人と,すべて良い物を分け合いなさい。』(ガラテヤ 6:6,新口)註解がなされても,もし理解のある註解でないなら,その点を更に論じ,学ぶ人からもつと多くの註解を引き出して,あなたが真実に教え得る者であると示しなさい。物事を理性でもつて考え,以前に学んだ事柄との関係を見るように,そして答の中にその註解の正しいことを証明する聖句を入れるように教えなさい。重要な点は,忘れることのないようにする為,特に繰り返しなさい。

19 私たちは正確な知識を善意者に教えるだけでなく,それ以外のどんなものを教えようと努めるべきですか。

19 この人が真実にキリスト・イエスの弟子になる為には,それ以上のことが必要です。その人は,ヱホバに導きを求めるよう学ばねばなりません。そして,ヱホバをよろこばしたいという熱烈な欲求をつちかわねばなりません。詩篇記者ダビデの見解を認識するよう援助しなければなりません。ダビデは次のように語りました,『汝はわが神なり,われに聖旨をおこなうことを教え給え。恵ふかき聖霊をもて我をたいらかなる国にみちびきたまえ。』(詩 143:10)その人の頭の中に答を得させるということではなく,それ以上にその人を助けて神の律法を心の中に得るように助けねばなりません。『私はこう祈る。あなた方の愛が,深い知識において,するどい感覚において,いよいよ増し加わり,それによつて,あなた方が,何が重要であるかを判別することができ,キリストの日に備えて,純真で責められるところのないものとなり,イエス・キリストによる義の実に満たされて,神の栄光とほまれをあらわすに至るように。』(ピリピ 1:9-11,新口)たしかに,真理が根づいて,人の心の中に発展するとき,その人は実を結び始めます。―マタイ 13:23。

20 新しく興味を感ずる人々をどのように準備して,他の者に真理を教えることに参加せしめることができますか。

20 クリスチャンは或る仕事をせねばならぬと善意者が悟るのに,たいていの場合,長い時間はかかりません。しかし,人によつては心からそうしようと思うまで,他の人よりも長い時間をかける人がいます。すべてのことが直ちに起るのではありません。しかし,良く教える人は,その準備の為に多くのことをすることができます。毎週しばらくの時間を費してヱホバの制度,およびその制度がどのように働くかを知らせなさい。集会について,また集会がどのように司会されるかを知らせなさい。集会に出席するようその人々を招待しなさい。毎週なすあなた自身の家から家の宣教について告げるとき,なぜそうするのかを聖書から簡潔に示しなさい。(使行 20:20)後には,善意者を再訪問したときの励ましとなる経験を語ることもできます。イエスは羊を養えと命じました。再訪問の機会は,そのことを示すものです。(ヨハネ 21:15-17)別の時には,訓練計画について知らせることができます。そして,新しい人々は自分一人で遣わされるのでなく,他の人を援助する資格があると感ずるまですこしづつ愛の援助を受けると知らせなさい。野外奉仕について初めて語つたときに,人々を奉仕に招待せねばならぬという風に感じてはなりません。それについて準備をしなさい。すべての取り極めが心の中にはつきり判つてくるにつれ,そして又あなたとの研究から,それらの人々は他の人々も学ばねばならぬという,緊急な必要性を悟り始め,それに参加したいと欲するでしよう。知識にもとづく愛は,自分の学んだ事柄を他の人々に告げるときの恐れを取りのぞきます。そして恐れを抱く代りに,ヱホバに仕えてヱホバへの感謝を示そうという燃えるがごとき欲望を持つでしよう。―ヨハネ第一書 4:18。

21 いまどんな仕事は是非とも為されねばなりませんか。

21 世界のあらゆる場所において,良いたよりを教える者は緊急に求められています。あなたはクリスチャンとして教える資格を持つていますか。あなたはクリスチャンの幼年期から進歩し,教える者になる為の段階を取つていますか。あなたは,他の人を援助して真理を学ばせ,神の新しい世における生命を得させる為に,あなたの今持つている真理と能力をよろこんで用いる御気持がありますか。もしそうなら,今は奉仕という神の与え給うた特権に参加すべき時です。宣教に新しい者であろうと経験を積んだ者であろうと,それに参加するとき,テモテ前書 4章16節(新世)に記録されている助言に従いなさい,『自分自身と自分の教えに絶えず注意を払いなさい。』

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