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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1961
塔61 5/1 277–278ページ

一生の目的を追い求める

ヘレン・ウィルソンの経験談

最も有意義に一生をすごすにはどうしたらよいか。これは私が高校を卒業したときに決定しなければならない問題でした。お金をもうけるために,ただ物質を得るためにだけ職をさがすべきか,それともしなければならないもっと価値のあるものがほかにあるだろうか。私は子どもの頃から聖書に書かれている真理を教えられてきました。そして在学中も御国の良いたよりを伝道するのにいく時間かをついやしました。こうしたことは,私が一生の目標を定めるのに大いに助けとなりました。

1939年,私は休暇中に開拓者として奉仕しました。以来開拓奉仕は私のしごととなりました。あれから20年の歳月が流れましたが,その間私は開拓者として多くの喜びを経験し,多くの祝福を与えられました。はじめたばかりの頃は,あまりらくではありませんでしたが,中止を余儀なくされるようなことが一度もなかったことに感謝しています。しばらくして,母と妹と私は,アメリカの北カロライナにあるよわい会衆を強めるのを助けるため,特別開拓者として任命されました。私たち3人は,トレーラーの中で生活しましたが,戦争中はガソリンが高く,しかも配給だったので,もっぱら自転車で伝道しました。

ある朝私は,生涯でもっとも大きな驚きを経験しました。それは私が郵便局で手紙を受け取ったときのことです。ブルックリンの会長事務所からの手紙!「いったいなんだろう」と私はひとりごとを言いました。それはなんと,ものみの塔のギレアデ聖書学校の開設を告げる手紙でした。そして私のための入学願書が1枚同封してありました。それは夢にも思ったことのないことでした。母と妹から離れるのはつらいでしたが,「だれでもわたしのために,また福音のために,家,兄弟,姉妹,母,父,子,もしくは畑を捨てた者は,必ずその百倍をうける。すなわち,今この時代では家,兄弟,姉妹,母,子および畑を迫害と共に受け,また,きたるべき世では永遠の生命を受ける」という,マルコ伝 10章29節のイエスの言葉をよく考えたのち,進んでそうすることに決心しました。

これらの言葉は何と真実であったことでしょう! ギレアデに着くやいなや,むこう5ヵ月間一緒に勉強したり働いたりする新しいしかもたくさんの家族に会いました。それは喜びの月々でした。全員が親しく交わり,愛し合い,心を一つにした生活は,新しい世の生活をしのばせるものがありました。

卒業後の任命

卒業する日が近づきました。私たちはみな,どこに派遣されるのか知りたくてたまりませんでした。ですから任命状を受けた時は,たいへんな興奮の時でした。大部分の生徒が中央アメリカの国々に行くことを任命されました。そこへ行けば,私たちが習ってきたスペイン語が使えるわけです。パートナーのヘレン・ニコラスと私は,メキシコ行きを任命されました。しかし,メキシコとの国境に近いウエルサコというテキサス州の小さな町に派遣され,旅券と査証が得られるまでそこで働きました。ウエルサコの住民は半分以上がメキシコ人で,スペイン語を話します。ですからそこにいますともう外国の任命地にきているような気がしました。

私たちはすぐに,メキシコ人の間で伝道をはじめました。スペイン語で行なった最初の証言は忘れることができません。その頃まだ使っていた畜音器とスペイン語のレコードの助けによって,「子ども」という本をどうにか配布することができました。何という満足を感じたことでしょう! つぎの問題は,再訪問をしたり,興味のある人と勉強できるくらいまでに言葉を上達させることです。

その点,近くの町にあったメキシコ人の会衆の集会に出席することはよい助けでした。最初は,兄弟たちの話が,全部の言葉を一度に口から出しているのではないかと思われるほどはやく聞え,たまに1,2語知っている言葉が耳にはいる程度でしたが,まもなく意味が聞きとれるようになりました。少しのちには質問に答えたり家庭で聖書の研究ができるようになりました。けいけんな人々の援助と忍耐のおかげで私たちの言葉は上達しました。

2年の月日がたちましたが,まだメキシコへの査証は得られません。でも,ある期間私たちは,メキシコからの密入国農業労働者に伝道することができました。リオグランデ盆地は,柑橘類の産地として有名です。それで彼らは,その果物の収穫期間に少しのお金をもうけるためにリオグランデ川を渡って密入国するのです。メキシコに帰ってから,彼らのうちのある人々は,自分の町のエホバの証者をさがし出しました。そういうわけで,メキシコにはいることはできなくても,同国に音信を伝えるわざに,わずかながら与ることができました。

1946年のはじめ,私たちの任命地はキューバに変更され,いく人かの同級生のいる家に送られました。それは,3年近く分かれていた家族の一部に再会したようなものでした。家族は6人で,家事は分担して行ない,また野外での経験を話し合いました。炭火で料理したり,食べなれない食物を食べたり,新しい事がらになれねばなりませんでしたが,それでも私たちは,外国の任命地にとどまる特権を尊重しました。キューバの人は,一般的にいってごくけんそんですから,私たちの伝道はらくでした。彼らは,音信によく答え応じたので,宣教者たちが島に行くよう任命された時には,活発な会衆がたくさんできていました。

国際大会

キューバに任命されてから何ヵ月かたって,1946年のオハイオ州クリーブランドの大会に出席するため,アメリカに帰りました。

パートナーと私は,フロリダ州のマイアミから,4人のキューバ人の開拓者と80歳の姉妹を乗せて自動車旅行をしました。お金があまりなかったので,自動車を道端にとめて眠ったり食事をしましたが,とがめる者はいませんでした。私たちはこの大会を非常に楽しみました。ことに,他のラテン・アメリカ諸国にいた宣教者たちやその土地の人々の経験のきけるスペイン語のプログラムは楽しいでした。私たちは熱意を新らたにして,人々を知れば知るほど愛着をもつようになっていた任命地に帰りました。

1948年の夏,キューバの宣教者の中から,いく人かが他の国に移されるという知らせを受け取りました。もうその時には,土地の強い伝道者たちは,わざを行なう責任を引き継ぐ能力をもっていました。行く気があるかどうか,私たちのグループにも問い合わせがきました。私たちは,エホバからのものとして,どんな任命でも進んで受けました。しばらくのあいだ行く先が知らされなかったので,アルゼンチンを除いて,派遣されるかも知れない地球上のありとあらゆる国を想像していましたが,行ったのは結局そのアルゼンチンでした。

私たち一行6人は,ニューヨークから船で行くことになっていました。それで,1948年キューバの愛する友だちに別れを告げ,長い旅につきました。途中北カロライナに寄って家族と会い,ニューヨークで2,3日すごして,10月のはだ寒い秋の日に出発しました。私たちがブエノスアイレスに着いた時は春でした。その旅行に何ヵ月もかかったわけではありませんがここの四季は,アメリカのそれとちょうど反対です。

ブエノスアイレスに着いてからほどなくして,最初の大会に出席し,たくさんのアルゼンチンの兄弟たちに会いました。そして,宣教者たちがおおぜい必要であること,刈り入れは大きいが,それにくらべて働き人が非常に少ないことを知らされました。私たちが行った時には,アルゼンチン全体に,約1000人の活発な伝道者がいました。12年後のいまでは,7000人の伝道者がいます。

過去をふりかえって見て,17年間の宣教奉仕は,価値があったと心から言うことができます。時には苦しい事に耐えねばなりませんが,それでも私たちは,人知ではとうてい測り知ることのできない神の平安をもっています。エホバは,約束された通り『天の窓を開いて,いれるところがないほど,ゆたかにめぐみをそそいで』下さいます。―マラキ 3:10。

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