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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1960
塔60 11/15 425–440ページ

必要の大きな所で奉仕する

「私の生涯の目的を追い求める」という「ものみの塔」の記事は,いつも私を強く励まし元気づけてくれます。真理の中にいるこれらの兄弟妹姉が問題に対しても気をくじかずに大胆に直面し,その生涯の目的を忍耐づよく追い求めて進歩していることを読むと,私も共にその経験を分かち合うよろこびを感じます。しかし,必要の大きな所で奉仕し始めて,やつとこのわざに伴う心からのよろこびを十分に認識することができました。いまそのことをお話ししましよう。

大会で「必要の大きな所で奉仕する」という心おどらす話を聞いてから,また私のいたカナダの一会衆をも含む全会衆に宛てて送られた1957年9月10日付の協会の手紙を読んでから,私は宣教の拡大ということについて慎重に考え始めました。その頃,私は結婚しましたが,それでも奉仕の拡大を図ろうとする私の気持はくじけませんでした。

最初に,いちばん必要の大きなところはどこかを知ることでした。手空きの時間には,「年鑑」(英文)や「ものみの塔」と「目ざめよ!」の各号の報告を丹念に調べました。もちろん,図書館や他の資料の得られる場所で,昼食の休み時間を費したことは言うまでもありません。提案されていた三つの国を選んでから,私たちは支部の事務所に私たちの意向を知らせました。返事はすぐに来ました。また,就職できそうな会社の名を含めて,良い援助の知らせも送られてきました。

時はどんどん経つて,文通の数は多くなるばかりです。私たちの熱心は十分に験されました。そして次のような返事が来たときには,私たちの気持は沈んでしまいました,「就職口はありません」。「あなたの資格は十分でありせん」。「いまいる所にとどまることをすすめる」。幾度も失望を感じましたが,私たちの決意はなお一層強いものになりました。

サタンはまた他の手段を用いて,エホバにささげる私たちの奉仕の拡大をさまたげようとしました。必要の大きな所で奉仕することについて考えをめぐらし始めたとき,そんなことはすこしも知らない雇い主は,特別な訓練計画を私に提供しました。それをうけるなら,昇格,俸給の増加,また業務界での確実な将来は約束されるでしよう。それは誘惑の大きな提供でした。しかし,私は必要の大きな所でエホバに仕えたいという強い決意を持つていたので,その提供をうけられない理由を,親切な態度の中にも断乎として告げました。雇い主は,私がすばらしい将来を拒否している,と確信させようと努力しました。しかし,宣教こそただ一つの価値あるわざであつて,私は宣教を選んだのですと説明してから,6ヵ月内に辞職する旨を告げて話を打ち切りました。それは,過去20年以上のあいだ,ともに仕事をしてきた人々に証言するすばらしい機会でした。

その間,私たちの目標地はきまりました ― それは極東の大きな島サラワクです。そこでは二人の宣教者が小さな会衆を設立しました。この場所が,援助を必要とする地であることはたしかです。就職については明確な取り極めがなされませんでした。しかし,私たちのささやかな収入と,貯金によつて,すくなくとも1年は海外にいることができると確信していました。それにエホバの支持があるなら,その1年間に多くのことを行なえるでしよう。

私たちがこの計画を立てていたとき,未亡人の一姉妹 ― 年齢は若くなくても「御霊に燃え」,12年の開拓者の経験を積んでいました ― は,外国の地で奉仕する希望を述べました。彼女は,年齢の関係でギレアデに入ることができなかつたので,この戸は閉じられていると感じていたのです。私たちといつしよに行きましようと,招待したときの彼女のよろこびを想像することができるでしよう。それからはもう手間を取らずに最終的な計画が設けられました。

極東に向かう

1958年10月16日,ニューヨーク市の夜明けは,雲一つなく天気晴朗でした。―興奮のあまり一睡もできなかつたので,私たちはその朝を良く覚えています。朝食が済んでから,私たちはブルックリンの波止場に行きました。船は出航の忙しさにつつまれています。5時には最後のともずなが解かれて,船は動き始めました。家族や友人を後ろに残すことはつらいでしたが,いまや私たちは極東の必要の大きなところで奉仕する旅行に出たのです。

海上の最初の数日は,出発間際の忙しさの後の休養を取るために費しました。8人の他の船客とも知り合うようになり,船酔いに苦しみました。最初に寄港するところは,エジプトのアレキサンドリアでした。船は約24時間寄港する予定でしたから,船客はみな上陸する準備を整えました。大多数は見物に出かけました。しかし,私たちは霊的な兄弟たちとの交わりを切望していたので,この短い時間中に兄弟たちと会うことに関心を持つていました。

太陽がさんさんと照りつけていたあの日曜日の朝,船がドックに着いたとき,私たちは渡り板のところにいてすぐに上陸するようにしていました。税関を通ると,近くの電話にかけつけました。支部の僕と連絡が取れたとき,私たちはどんなに感謝したことでしよう! 支部の僕の援助のおかげで,私たちはすぐに御国会館に行きました。御国会館の看板は,見慣れないアラビア語で書かれていましたが,私たちはそれを見分けることができました。私たちにとつて,それは「歓迎」を意味しました。戸のベルを押すと,都市の僕や他の兄弟たちからの暖いあいさつを受けました。兄弟たちは,大会に用いる演壇の設備を準備するため忙しく働いていました。

いろいろちがつた国からの兄弟たちに会うことは,なんというよろこびでしよう! その固い握手と暖い微笑だけで,言葉の障壁などはすこしも苦になりません! みなさんは心からのもてなしを示してくれました。ひとりの姉妹の家で昼食を共にしましたが,そこで,私たちは美味なエジプトの食事を初めて味わいました。この神権的な家族との交わりを楽しんでから,私たちは美しい庭園や,この市の他の興味深いところを見物に行きました。「ものみの塔」研究に間に合うよう「御国会館」に戻りました。この研究は,ギリシャ語,アラビヤ語そしてフランス語の三つの言葉で司会されていました。私たちはモントリールで奉仕したことがあるので,フランス語をいくらか知つており,フランス語による「ものみの塔」の研究を楽しむことができました。研究前と研究後,私たちは出席していた120人以上の兄弟たちと交わることができました。兄弟たちは時間におくれずに来るだけでなく,集会の時間よりも30分も早く来て,集会が終つても長くとどまつて兄弟たちとの交わりを楽しみました。友だちとゆつくりくつろいだ夕食の後,私たちは船に戻りました。この短時間の交わりが私たちの上に及ぼした強い影響を言い表わすことはむずかしいです。必要の大きなところで奉仕する気持があつたからこそ,私たちはたくさんの祝福をいただきましたが,それはその中の一つです。

アレキサンドリアを出てからポートサイドとスエズに短時間寄港し,それから紅海に入りました。かつてモーセはこの紅毎を通つてイエラエル人をみちびいたのです。アラビアのジッダでは,一生一度のメッカ旅行をする回教徒の巡礼たちを見ました。ポート・スダンでは,針金のようなちぢれ毛を持つ回教兵士たちがいました。岩のごつごつした岬の上にあるアデンで短時間とどまつてから,私たちは東に向かつてインド洋を渡りました。

シンガポールで途中下船

航海は急速に終りました。船の錨が下ろされると,すぐに一群れのシンガポールの兄弟たちは船に来て,私たちを歓迎してくれました。ニューヨーク市で開かれた神の御心国際大会で私たちは支部の僕とその妻と知り合いになりましたが,いま再び会えたことはどんなにうれしいことだつたでしよう! 新しい中国人の兄弟姉妹たちが,暖い歓迎をしてくれたおかげで,私たちはすぐにくつろいだ気分になれました! みなさんの援助で,荷物の片付けもすみ,短時間のうちに1ヵ月の海上旅行の後,かたい大地に上陸しました。

ここに滞在中,私たちはこの地の一姉妹の家族の中に迎え入れられていつしよに生活しました。みなさんはなんと親切で愛の心に満ちていたのでしよう! 最初の晩の食事のときでしたが,姉妹たちは驚いた表情で天井の方を見つめていました。そのびつくりした顔つきを決して忘れることができません。小さなとかげのような生物が灯火のところを動きまわつて昆虫を食べていたのです。私たちはすぐ,それが大きな助けであり,極東の家庭用品の一部であると認めました。

私たちの日々は忙しく,奉仕の特権を楽しむことができました。また,多数の善意者の世話をするために,円熟した伝道者はたいへん必要であることも分かりました。次のように言えば,私たちがどれほど緊急の気持を感じたかが分かることでしよう。2週間の休暇開拓者はふつう75時間を報告しますが,私たちはその月に120時間を野外奉仕に費し,それに加えて多くの時間を地域大会の準備のために使いました。

兄弟姉妹たちと結ばれた愛のきずなは,だんだん強くなつて,遂には生涯中ずつと知つていたような気さえしました。大会が終ると,再びサラワクに向けて出発する時が来ました。兄弟たちと最後の集まりをして後,私たちは旅行の最終的な段階に入りました。以前に抱いていたちゆうちよする気持は,いまではすつかりなくなつており,神権的な交わりで強められた私たちは,私たちを待つ特権を熱心に期待しました。

サラワクでの奉仕

私たちは,到着してすぐ後に,快適な住居を見つけることができました。そして,幾日か後には2人の熱心な宣教者に加わつて,大きな処女地域を伝道するよろこびを味い始めました。人々がエホバについて尋ねる光景を頭に描いて下さい。聖書から答えると,浅黒い顔はうなずいて同意を示します。感謝の微笑が顔に表われて,聖書の文書をすぐに受け取ります。

熱帯の豪雨のことは話には聞いていましたが,経験してみないと本当のことは分からないでしよう。しのつく大雨の降る或る晩のこと,私たちは夜になつてから家族といつしよにする聖書研究に出席するために出かけました。ついてみると,長さが約450フィートばかりの揚げ板のところを歩かないと家に行けない有様でした。一方の手に懐中電灯,他方の手に傘,そしてかばんを腕の下に抱えこんで,私たちはふらふらしながらやつと家にたどりつきました。やぶれたオイル灯火の明りの下で楽しい研究をして後,たくさんの聖書の質問に答えてその家を出ました。外はまだ雨が降つていて,小さな湖ができていました。出かけるときに靴と靴下を脱ぎ,ズボンとスカートをできるだけ高く持ちあげ,水中に浅く沈んだ板の上を用心深く歩いて,やつとのことで道まで出ることができました。

隣人のあいだで働けば働くほど,私たちは隣人を理解して愛するようになりました。文書をすぐに配布することができ,近くの場所で文書を持たない家は,ほとんどありませんでした。研究もすぐに開くことができました。― その多くは最初の訪問で始まりました。私たちは,会堂や,個人の家や,病院や,また癩病隔離所でも,協会の映画を上映しました。13回の上映で,それぞれ平均100人が出席しました。その結果はすぐに表われてきました。「ものみの塔」の研究の出席者数は,6人から10人へ,それから12人へ,そして定期的な公開集会のプログラムが始まつたときには,出席者数は15人にまで増加し,最高数は20人かそれ以上になりました。これは6ヵ月以内のことです。

宣教者のひとりは,中国人の女生徒から1通の手紙をもらいました。この女生徒は,協会の映画を見て大きな感銘を受けたと述べていました。彼女の両親は仏教徒ですが,彼女は「『良いたより』に強く引かれて,もつと学びたい」と述べていました。研究がすぐに取り極められ,間もない中にこの10代の少女は集会に出席し,野外奉仕に参加し始めました。中国語を話す人々に証言できるので,彼女はたいへん良い援助になりました。

別の聖書研究のとき,家の人の友人がたまたま訪問しました。研究に参加してはどうですかとすすめたときその人はよろこんで参加しました。その最初の研究はつづきませんでしたが,真理に飢えかわいていたこの人は研究をつづけ,1冊の冊子の研究が終る前に「ものみの塔」の研究に出席し,注解を述べ始めました。そのためには,焼けつくような炎天下,あるいはしのつく大雨のなか,往復14マイルの距離を自転車で通わねばなりません。

もちろん,私たちの活動は他の宗派の宣教者たちの注意をひきました。特に彼らから教えを受けていた大ぜいの人々が,私たちのところへ来て聖書の質問に対する答を求めるようになつて,彼らは注意を向け始めました。おどかしの運動が始まりました。ある人々は研究を止めましたが,他の人々は屈せずに研究をつづけました。今度は,政治指導者たちに圧迫が加えられ,私たちの査証は無効にされました。事態の再検討を願い出ましたが,私たちの願いは却下されました。この島を去らねばなりません。

船がドックを離れたとき,多数の新しい友人たちは,そこに来て,その受けた援助に対する感謝の気持を表わしていました。私たちは,彼らのために長い,誠実な祈りをささげましたが,たしかにエホバは彼らを見すてていません。郵便の知らせによると,円熟している人々は,他の人々を援助しており,「ものみの塔」研究は定期的に行なわれています。神の御心に逆らう偽りの羊飼たちの努力がどんなものであろうとも,エホバの御手は弱まりません。正しい羊飼に従いつづける人々は,新しい世で生命を得るでしよう。

私たちがサラワクに到着してから程なくして産まれた,3ヵ月の女の子を連れて,私たちはこの場所を余儀なく去りました。しかし,必要の大きな所で奉仕したいという私たちの気持はなくなりませんでした。幾百万という人々は,この地方に生活しています。それなら私たちも生活できると思いました。援助を最も必要とする場所に行きたいと欲していましたが,間もなくしてそのような所 ― マラヤに入ることができました。

この新しい任命地に到着してから間もない中に,特別開拓者奉仕の特権が与えられ,私たちは感謝しています。外国の地で2年目を迎えています。宣教に没頭することにより,私たちは物質主義の危険や,サタンの世の他の悪から身を守ることができました。私たちの少額の貯金は,イエスが群衆を養うために用いたパンと魚のようでした。私たちを維持し支えるのに必要なものは十分にあります。エホバはなんと豊かに私たちを祝福されたのでしよう! 必要の大きな所で奉仕せよという神の召に答えた私たちは,なんと幸福なのでしよう!―寄稿。

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