ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔63 9/15 564–567ページ
  • エホバはその僕に良きものを拒み給うことなし

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • エホバはその僕に良きものを拒み給うことなし
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • 戦線で
  • 夜明け
  • 西の島々で伝道する
  • エストニア
  • 神の導きの下で
  • わたしは神に依り頼むことを学びました
    目ざめよ! 2006
  • あなたは信教の自由を高く評価していますか
    目ざめよ! 1996
  • 全体主義の圧政のもとでの半世紀
    目ざめよ! 1999
  • たくさんのサプライズと,エホバが教えてくれたこと
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔(研究用)2023
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1963
塔63 9/15 564–567ページ

エホバはその僕に良きものを拒み給うことなし

ウォラス・バクスターの経験談

1896年もあと一日を残すだけにおしつまった年の暮に,私はトーマス・バクスターを父,メリー・バクスターを母としてスコットランドのグリーンノックに生れ,二,三日後には原始メソジスト教会で,スコットランドの解放者にちなんでウオラスと名づけられました。

父は自由な考え方を持つ,きわめて敬虔な人でした。家族の礼拝が毎朝行なわれ,神さまが何でも必要なものを備えて下さるということを何時も聞かされたものです。「直くあゆむものに善物をこばみたまふことなし」。母は私の好きなこの詩篇の句をよく繰り返し聞かせました。(詩 84:11)「人の生命は所有の豊なるにはよらぬなり」。イエスの述べたこの真理も,私の心にきざみつけられました。(ルカ 12:15)生きてゆくために必要なだけの物を持ち,また能力があれば,それ以上のものはいらず,生命がなければ持ち物をいくら持っても役に立ちません。

私は両親の愛に包まれて子供時代を過し,両親から導きを受けながら同時にかなりの自由も与えられていました。家には宗教,教育関係の本が沢山ありました。幸福な人生を送るには,神のことばの真理に基づいた教育が必要です。私にはそう思われました。人々は変りつつあり,偽善,ふまじめ,不道徳は増加していました。聖書に預言された世の終りを痛感した私は,この時代に対する率直な音信を聞こうとしていろいろな教会の門をくぐりましたが,失望しただけでした。こうして日曜日毎に私は野原を散歩し,また聖書を読んでいました。フランダースでは第一次世界大戦の戦火がたけなわであり,人々は霊的に無関心でした。それはゼパニヤの預言の成就を確信させます。「エホバの大なる日近づけり……その日は忿怒の日……濃き雲および黒雲の日」。―ゼパニヤ 1:14,15。

戦線で

聖書研究生の伯父が父と「神の経倫」について話すのを聞きましたが,別に注意を払わず,やがて軍隊に召集された私は電信兵としてフランス戦線に出ました。クリスチャンがしても戦争は悪いという意見の兵士が一人二人いましたが,一戦を交えてのちの戦場のひさんな光景を見て私も同じ考えになりました。他の人と交わることの少なかった私にとって,自分の意見に賛成してくれる人と一緒にいるのはうれしいことでした。しかし私は多くの時間を一人で過し,母から与えられた聖書に親しんでいたのです。

ある晩,軍隊付き牧師が煙草を吸いながら私の壕にもぐり込んできました。牧師の職を尊敬した私は牧師が寝るために一晩,自分の壕を空けました。朝食を共にして聖書の話を聞くことを期待していたのです。しかし翌朝,すいがらの散らばった壕の中はもぬけのからで,私は失望しました。私は壕を掃除しながら聖書が灰皿代りになっているのを見て怒りを覚えました。

二,三日後,兄弟から受け取った手紙に,歴代史略下 6章にあるソロモンの祈りのことが書いてありました。誠実な心で神を求める人は神を見出すことができます。私はひざまづいて神に祈り,生きて国に帰ったならば一生を神への奉仕にささげることを誓ったのです。

夜明け

戦場に出た多くの人と同じく,私も危く命拾いをしたことが何度もありましたが,他の人とは異なり,命の助かったことは私にとって重大な意義を持つことになりました。1918年11月11日,西部戦線は休戦となり,翌年春までに除隊となった私は,エジンバラに移り住んだ聖書研究生の伯父を訪問したのです。伯父は夜半過ぎまで質問に答え,神の救いの道を説き明してくれました。翌日の晩までに私はパスター・ラッセルの「世々にわたる神の経倫」の3分の1を読み,理解することができました。これこそ真理です。「わたしをつかわされた父が引きよせて下さらなければ,だれもわたしに来ることはできない」と言われたイエスのことばは,真実です。(ヨハネ 6:44)そのすべはすばらしいものでした。伯父のすすめによって,グリーンノックにあった聖書研究生の小さな集まりに出席しました。はじめて集まりに出た時の楽しい経験はいまでも忘れません。

さて私は「聖書研究」と「ものみの塔」を読み始めました。そして御国の事柄に心を奪われてしまったのです。近くの造船所に働く一人の霊的な兄弟が,最も貴重な友となりました。「キリスト・イエスに対する信仰によって救に至る知恵を,与えうる書物」の知識を求めて,二人は夜おそくまで語り合ったものです。(テモテ後 3:15)信仰をもって私は自分のすべてをエホバにささげました。み心を行なうことは喜びとなりました。1921年,グラスゴーにおける大会がバプテスマを受ける機会となりました。

神に献身したこの誓を忘れたことはありません。私は常にエホバの導きを求めてきました。大会でイザヤ書 6章の預言に関する話を聞きました。「わたしはだれをつかわそうか。だれがわれわれのために行くだろうか」。エホバの召しに答えて私は「ここにおります。わたしをおつかわしください」とふるい立ちました。この明らかな召しに答えることは,献身した人にとって喜びです。答えは全時間奉仕をする開拓者になることでした。開拓者となるのに何の妨げもなかった私は手はじめに休暇開拓者となり,エールシャーで二人の開拓者と共に働きました。

西の島々で伝道する

スコットランドの北西130マイルの海上に鎖状につながった島々アウター・ヘブリデスは,風に吹きさらされた,木のない荒涼とした土地です。私は土地の郵便局に働く一人の兄弟と共にここに任命され,貧しい漁夫や,トウイード織りを作る人々に伝道することの期待に胸をおどらせました。

開拓奉仕の最初の7ヵ月の経験は,金銭にかえ難い貴重なものでした。神は「直く歩むものに善物をこばみたまふことなし」という事を,実地に経験したのです。(詩 84:11)エホバが次に与えて下さった良いものは,更に多くの開拓奉仕でした。

西方の島々とスカイ島における伝道の報告を検討した協会は,オークニイおよびシエトランド両島で伝道をつづけるように私たちを励ましました。これらの島々で働くことは大きな喜びとなりました。エホバから授けられる良いものに欠けることはありません。反対にもあいましたが,それによって「御霊の剣」をいっそう巧みにふるうことを学びました。(エペソ 6:17)美しい野生の花の咲きみだれる中を毎日歩いて島中を伝道し,夜おそくまで外で過すこともよくありました。そこでは夕暮と夜明けが近いのです。

ものみの塔協会の出版した最初の年鑑を手にしたのは,ここにいた時です。それは愛のおくり物といえます。年鑑にのせられた日々の聖句と注解は大きな励みとなりました。そこでは会衆と交わることがなかったので,とくにそうでした。エホバから授けられるよいものに欠けることはなく,制度を通して与えられるものはエホバに対する熱心を燃え立たせました。世界各国からの報告は心をおどらせます。私はエストニアに行くようにすすめられていたので,エストニアの報告を何度も読みました。そこでは開拓者が必要です。バルト諸国ではドイツ語が使われるので,私はドイツ語を習うようにとの指示を受けました。島に来てから数ヵ月のちの1928年秋,エストニアに行くようにと命ぜられ,東ヨーロッパに向いました。

エストニア

長い旅をしてエストニアの大学町タルトウーに着くと,英国人の兄弟がいてドイツ婦人の経営する下宿を世話してくれました。間もなく新しい生活にもなれましたが,エストニア語とドイツ語を習うまでは,エストニア語,ドイツ語,ロシア語で証言を書いたカードを家の人に見せてから文書をすすめました。後にパアナウまたエストニアの首都で支部のあったタリンでも伝道しました。

1930年4月,私は支部の僕に任命され,その後10年間,兄弟たちと力を合わせて御国の真理を伝道し,教える喜びを得ました。御国の福音はラジオ放送によってエストニア全土,更に海を越えてフィンランド,スエーデン,ロシアにも伝えられました。しかしソ連政府とエストニアの宗教家の反対により,組織後わずか2年にして協会は解体の憂き目にあい,事務所は警察の手によって閉鎖され,文書も没収されました。しかしわざはつづけられ,エホバの祝福によってその年に大きな増加が記録されました。

1938年,「富」と題する本および「選択」と題する冊子が広く配布されました。それは残りの文書が押収される前でした。配布用に残ったエストニア語の文書は2種類の冊子だけになりましたがほん訳はつづけられ,スイス,ベルンの協会の印刷工場も印刷をつづけました。こうして戦争のため輸入が不可能になる直前に「敵」と題する本を入手できました。エストニアはソ連軍に占領され,大きな変化が起きました。明るい快活なエストニアの表情は変り,重苦しい恐怖の空気がみなぎり始めました。

神の導きの下で

タクンの英国領事は,英国の旅券を持つすべての人に対し,バルト諸国を離れるように要請しましたが,私は与えられた部署を離れる意志がなく,その旨を領事に伝えました。しかし英国人の引揚者がラトビアのリガを離れる10日ほど前の1940年10月18日,エストニアを離れて英語の使われている国に行くようにとの命令が協会の会長から届いたので,私はさっそく計画の変更を領事に知らせ,約200人の引揚者の一人となって,行先さえもわからないまま一行と共に避難しました。

別れを経験したことは何度もありますが,エストニアの兄弟たちとの別れほど感動的なものはありませんでした。何時,どのようにして神の国の福音がソ連に達するか,これはしばしば私の念頭に浮かんだ事柄です。しかしバルト諸国で私たちのした事が,将来ソ連に福音の伝わる基礎になるとは思いもよりませんでした。ソ連は当時でも今でも必要の大きなところです。いまソ連で,おそらくはシベリヤにおいても兄弟姉妹たちがエホバの御国の福音を効果的に伝道し,また教えているものと私は確信しています。

さてリガを出立した一行はソ連を通ってウラジオストックの港に着きました。11日かかった汽車の旅は大変でしたが,興味深いものでした。焼き払われた教会の建物,食料を待つ農民の行列などが途中で目につきました。中国の鉄道の待合室では,「創造」という本のさし絵で見たヒューバート・フオン・ハーコマーの「避難民」と題する絵とそっくりな光景を見ました。目に見るものだけではありません。換気の悪い部屋に大ぜいの人間が汚れたからだのままつめ込まれ,部屋は臭気でむせ返るようでした。遂に一行はウラジオストックからハイ・タン号に乗船し,オーストラリアに行くことを知らされました。沈む太陽と共にウラジオストックを水平線のかなたにした時,ようやく安堵の空気がみなぎりました。香港ではじめて東洋に接した時,その状態に驚きました。そして「御国のきたらんことを」と衷心より祈ったものです。(マタイ 6:10)1940年12月のはじめ,私は協会のオーストラリア支部に着き,兄弟たちに暖かく迎えられました。

ストラスフィールドに着いて間もなく,エホバは敵が証者の活動を禁止するのを許し,協会の資産は接収されました。それでもわざは半ば地下に潜ってつづけられました。私は謄写板で「ものみの塔」を刷って兄弟たちに配る仕事を手伝いました。こうして「ものみの塔」1号たりとも休刊せず,エホバはその僕に良いものを拒まないことが証明されました。禁令の最中に私はブリスベーンにあった協会の文書集配所で働き,禁令が解除されてからはメルボルンで同様な仕事をしました。1948年,ストラスフィールドのベテルに戻って以来,今日までそこで奉仕しています。

エホバへの奉仕に召されてより,霊的なものも物質的なものも良いものに欠けたことは一度もありません。多くの旅行をし,さまざまな経験をするうち,この世で成功する機会にも多くめぐり合いましたが,私の心の願いは何時もエホバにささげる全時間奉仕でした。「そは神エホバは日なり盾なり,エホバは恩とえいくわうとをあたへ 直くあゆむものに善物をこばみたまふことなし万軍のエホバよなんぢに依頼むものはさいはひなり」。―詩 84:11,12。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする