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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1964
塔64 4/15 248–250ページ

反対に耐えて得るよろこび

A・J・ジョセフの経験

イエスは弟子たちを伝道につかわすにさいし,反対を覚悟しなさい,といわれました。またこうもいわれました。聖霊はその反対を克服しうるようあなたがたを助けるので,あなたがたは迫害されるときにほんとうに喜ぶようになるだろう,と。―マタイ 5:10-12。

私はインドで50年エホバに奉仕する間にそのような反対を経験しました。またエホバの聖霊の助けをも経験しました。それに加えて,いく度も大きな喜びを経験し,迫害された時も,自分は昔の預言者のように正しいことを行ない,神を喜ばせたのだという気持でいつも満足していました。

宣教への召し

私がものみの塔協会の出版物を初めて手にしたのは1905年のことでした。そのとき私は,南部インドのケララ州の郡の一つトラバンコールに両親と共に住んでおりました。

私は,両親の属していた英国国教会のいくつかの教理や習慣が聖書と違うのではないか,という疑いを持ちはじめていました。しかし両親も宗教関係の友だちも,私の疑問には答えることができませんでした。父は,南部インドのある教会組織の責任者に手紙を出して,おまえが疑問にしている三位一体を説明した本があるかどうか問い合わせてみてはどうか,とすすめてくれました。私は父のいうとおりにしました。その人は何を送ってくれましたか。なんとそれは,ものみの塔協会の出版物である「聖書の研究」の第5巻「神と人との間のあがない」でした。私はこの本から,エホバの至上性についての真理,神とイエス・キリストとの関係,聖霊の意味についてはじめて知りました。それから間もなく,「ものみの塔」誌をも含めてその種の出版物をたくさん求めました。

1906年の終りに私は重い病気にかかり,マドラスに近いクダパに転地しなければなりませんでした。しかしそこでは聖書をくわしく研究する機会にめぐまれ,病気がよくなるにつれて,ブルックリンのものみの塔本部から取り寄せたパンフレットを用いて御国の伝道をはじめました。それから自活するために職につき,以後数年間その地域の「クリスチャン」に証言しました。

私は「ものみの塔」誌の購読者だったので,ものみの塔協会のラッセル会長が,1912年に,世界旅行の一環としてインドを訪問するということを知りました。会長が到着したとき,私はその講演を聞く機会を得ました。また私が,個人的に話したい旨を会長に告げると,多忙であったにもかかわらず,2時間私と共にすごしてくれました。会長は私に,良いたよりの伝道のわざを全時間の仕事として取りあげることをすすめましたが,私は,昔のエレミヤのように,そんな重い責任を年の若い私が負うことはとてもできません,と言いわけをしました。しかし会長から,すべてのしもべを助けるエホバがあなたを助け強めてくださると教えられて,その特権にあずかることにしました。

私は南部インドを汽車で遠く旅行し,すべての駅でおりて,周囲の村々にパンフレットを配布しました。乗物のない所は遠い道のりを歩きました。水辺地域では,原始的ないなかのはしけを使って人々を訪ねました。

インドにおける伝道活動の範囲は広いものであったため,私は援助の必要に気づきました。そこでものみの塔協会の会長に,アメリカあるいは英国からだれかを派遣して,もっと大規模のわざを組織してもらいたい旨を伝えました。ロンドン支部からひとりの兄弟が,またマラヤからもうひとりの兄弟がインドに派遣されてきました。それは1913年の半ばごろのことでした。

トラバンコール,とくに州の中央部と北部での伝道活動は発展しました。ほとんどすべての「クリスチャン」センターで,宣伝のゆきとどいた講演が行なわれました。各箇所に1週間ずつとどまって,毎晩集会を開きました。聴衆が質問する機会ももうけられました。時には討論が夜おそくまで続くこともありました。間もなく興味のある人々の小さなグループが組織されて,聖書研究が定期的に行なわれるようになりました。

第一次世界大戦がぼっ発したとき,英国人の兄弟たちは本国に呼び戻され,私は全力をあげて活動を続行しなければならなくなりました。私は,公開講演を開いて真理を受け入れた小さなグループのある所を訪問し,彼らと聖書の研究を行ないました。それがすばらしい実を結んだことは,私にとって大きな励ましでした。

反対

間もなく,種々の「キリスト」教宗派の指導者の扇動による反対が生じはじめました。彼らは群衆をそそのかして,私が聖書に興味のある人を見つけるとじゃまをさせました。もし聖霊によるエホバの助けがなかったならば,その激しい反対のために伝道をやめたかもしれません。英国国教会のある牧師は私に挑戦して,魂の不滅という教理にかんする討論を申し込んできました。その討論会には約300人が出席しました。その牧師は聖書を1回引用しただけで,人間は不滅の魂をもつという教理を証明するのにみじめにも失敗しました。聴衆は私の聖書の使用によって,この教理にかんする正しい見解を知ることができました。討論が終ってからいく人かの人々が前に出てきて,もっとそのことを知りたいと言いました。その結果リタカドというその町に新しい会衆が組織されました。

別の時私はコタヤムの南方にあるパラムという町で公開集会を司会していました。15分も話さぬうちに,がんじょうな男が私にとびかかり,地に引きたおして,群衆の中のある者がドラムをたたくなかを,しばらくの間ひきずりまわしました。しかしこの侮辱的な事件にも私の熱意はさめませんでした。エホバの御名のためにこのはずかしめを受けるにふさわしい者とされたことを喜んだだけでした。次の日,この出来事を通りがかりにみたある人が私の家にきて,深い同情を示し,一時的集会所をもうけるから自分の家でまる1週間公開集会を開くようにとすすめてくれました。私はそのすすめを受け入れました。この集会には300人から400人の人が出席し,間もなくもう一つの会衆が形成されました。

活動が発展するにつれ,とりわけキリスト教国の宗教組織からの反対は激しくなりました。プラドという町で講演していたときのこと,ある宗派の宣教師が,講演のじゃまをしました。私は彼にすわるように丁重に頼みました。しかし彼はすわるどころか,自分に従う者たちをあおりたてて,私たちがこの集会のために立てた仮小屋をたたきこわし,大さわぎをしました。しかし翌日私たちは再び小屋をつくり,警官の保護を受けました。集会は1週間つづけられました。

その後牧師たちの扇動による攻撃を数回受けました。クンダラで私は公開集会を開く場所を借り,かなりの数の兄弟が講演の招待ビラを配りました。私は定刻に講演をはじめました。ところが20分ほどたって,ある教会の有名な牧師が私の前にぬっと立ち,自分のつれてきた群衆に向かい,空きかんをたたいて叫ぶように合図しました。自称「クリスチャン」の指導者であるこの牧師は,さらにそのしまつにおえない群衆をそそのかして,私に牛の糞や泥を投げつけさせました。その場所の近くにいた,名の知れたインド人の上品な紳士が,このさわぎは何ごとかと見にきました。彼は牧師に向かい,これはキリストがクリスチャンに従わせるために残した模範にならう行いか,それとも,この人への反対はイエスの時代のユダヤ教の指導者の模範にならう行いかどちらですか,と尋ねました。牧師は顔を真赤にして引きさがりました。そのため私は講演をつづけることができました。

こうした反対のさなかにあって,ものみの塔協会の当時の会長ルサフォードからの手紙は大きな励ましになりました。その手紙には次のように書かれた部分がありました。「悪魔の霊をもつ人々からの迫害がますますひどくなることは覚悟しなければなりません。なぜなら悪魔は自分の国が急速に崩壊しつつあるのを知っているからです。偉大なる王の王の御国が,間もなくサタンの帝国を粉砕して正義を確立することを知っている私たち王の追随者はいま,それに励まされ,熱意を新たにして一路まい進しなければなりません」。

1921年の12月私は,1922年の初めにすべての会衆が日曜日の午後に公開集会を開く計画をたてるようにとの手紙をルサフォード兄弟から受け取りました。講演者はみな,「現存する万民は決して死することあらじ」という題で話すようにということでした。このすばらしい公開講演は,私たちの区域のほとんどあらゆる村または町で行なわれました。この徹底的な証言によって牧師はますます気を悪くしましたが,わざは発展していきました。

悲しみに耐えて

1925年,私の家族の上に大きな災がふりかかりました。悪質の赤痢で3人の子供が死んだのです。これは私と妻にとって実に大きな打撃でした。しかし復活へのかたい信仰から慰めを得ました。エホバは私たちふたりが,勇気と不屈の精神をもってこの災に耐えわざを押し進めるように助けて下さいました。

1926年の7月,ブルックリン本部のルサフォード兄弟から,F・E・スキナー兄弟がボンベイに支部を開設するためにインドに来るので,この支部の指示に従って活動を行なうようにとの手紙を受け取ったとき私は,いままで忍耐してきたことを心の底からうれしく思いました。私の夢が実現したのです! その時以後,支部の指導のもとに会衆を組織することや伝道に実際的な方法が用いられたため,とりわけよく進歩しました。こうして羊のような人々は年々よき羊飼であるキリスト・イエスのもとに集められ,今日では2000人が74の会衆と交わっており,みな心を一つにしてエホバ神を崇拝しています。

インドでエホバに奉仕した50年間をいまふりかえってみて私は,全能の神がご親切であったこと,私を助けて激しい反対にもかかわらずいままで忍耐させて下さったことを心から感謝しています。いまは老齢のため体力はおとろえましたが,エホバの目的がさらに成就するのを楽しみに待ちながらしあわせな日々を送っています。

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