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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1965
塔65 8/15 501–504ページ

若い日に偉大な創造者を覚える

ラルフ・レフラーの経験

「あなたの若い日に,あなたの造り主を覚えよ。悪しき日がきたり,年が寄って,『わたしにはなんの楽しみもない』と言うようにならない前に」。これは,聖書の伝道の書 12章1節にある勧めの言葉です。

この言葉の通りに,早くから,偉大な創造者エホバ神を覚え得たことを,私はどんなにか深く感謝しています。これは,私が家庭で受けたキリスト教教育の結果であり,また,ものみの塔聖書冊子協会の発行による,チャールス・T・ラッセルの著作を読んだ事の結果です。

家庭での教育

私は1890年に生まれ,アメリカ,オハイオ州にあった父の農場で育てられました。両親は神をおそれる人であると共に,農場にあっては勤勉な働き人でした。とくに母親は幼いころから聖書に通じ,自分の知る聖書の教えを私たち子供の心に繰り返し教えてくれました。

学校時代,およびそれに続く青年時代には,聖書の講演をするため,私たちの町ティフィンに派遣されて来た,ものみの塔協会の巡回代表者たちからも強い感化を受けました。その人々が,若い私の心に教えたものは,創造者を知る事の大切さでした。

1896年から1900年にかけて,両親の宗教的な信条には大きな変化が起きました。二人はいずれも敬虔なルーテル教徒でしたが,教会で教えられる事柄に対してはある種の不満を感じていました。「世々にわたる神の経綸」「時は近づけり」「汝の御国の来らんことを」など,ものみの塔協会出版の書籍や小冊子を手に入れたのはこのころです。両親はこれらの本を読み,また読み返えし,それと同時に,ものみの塔協会を代表して各地を巡回する人々の講演を聞きました。やがて両親はそこに聖書の真理がある事を確信するようになりました。二人が得た知識は明解であり,理性的であり,かつ学ぶ者の心を満足させました。悪人を待つ地獄の永遠の火の教え,人間の魂の不滅や,三位一体の教理など,偽りの教義はもはや必要ありません。かわって両親が学んだものは,創造者エホバ神が,聖書に示される真理の教えを正確に学び,それに従う人のすべてにもたらされるすばらしい希望です。当然の事ながら,二人はすぐにルーテル教会を離れました。

両親,そしてとくに母親は,自分の学んだ真理をそのままにしておくことができず,聞く人のすべてに話しかけました。しかし,二人がまず念頭に置いたのは,その偉大な真理を自分の子供たちに伝えることでした。ふた親から教えられ,また自らも,「ものみの塔」その他同様の出版物を読み,聖書の講演を聞いた事の結果として,私の3人の兄弟のうちの二人と4人の姉妹のすべて,それに私を加えた7人が,やがて,神への奉仕のために自分の命を献げるようになりました。私たちはそれぞれ水の浸礼を受けました。

若い日に偉大な創造者エホバ神を知った私の心は,同じ貴重な信仰を持つ人々と交わる事によりいよいよ強められました。当時ティフィンの町には,私たちを含め,全部で15名の小さな群れがあり,日曜と週中の一晩,毎週2回ずつ集まりました。私は両親と,あるいは兄妹のある者と,農場にあった2頭だての馬車を駆り,あるいは1頭びきの車に乗って,夏も冬も,15キロ離れた集会場所に通いました。

世紀のかわる数年前,およびその後しばらくの間,私たちの証言活動は主として三つの手段によりました。一つは,日曜日の朝,教会の前で聖書冊子を配る事であり,他は全時間宣教(当時,コルポーター聖書文書販売人と呼ばれた),および,会場を借りて公開の聖書講演会を開くことです。初め私は会衆の年長者に伴われて教会の前に立ち,出入りの人々に聖書冊子を手渡しました。このやや大胆な方法に,怒り顔の牧師が出て来る事もありましたが,そんな時にはよく,「私たちはただ麦を集めているのです」と答えました。―マタイ 13:24-30。

ものみの塔協会から派遣される,巡回福音伝道者に会う事は私の信仰の高まりとなりました。私たちはそうした人々を自分の家に招くことがありました。とくに,ラザフォード兄弟,アムバー兄弟,マクミラン兄弟,リーマー兄弟などの訪問は今でも覚えています。私の家には,コルポーターたちもたずねてきました。とくにその一人は,私の学校の勉強を助け,聖書の話をし,信仰の成長を助けてくれました。

第一次大戦時代

1913年から1914年にかけての冬に,私はワシントン市でコルポーターの仕事をしていました。12月の最後の日,ワシントン会衆は集会を開きました。賛美の歌があり,激励の話がありました。待望の年,1914年が到来したのです。世界史上の転換点として,聖書中に明示されたこの年に何があるか,私たちの心は期待と好奇に満ちました。神の霊感による聖書の預言に従えば,世界の平穏は1913年を終わりとし,それ以後,地上の事物は変転するはずでした。

マタイ伝 24章のイエスの預言が予期させた通り,その時起きた片隅の戦争は全世界をまき込む大戦となりました。人類史上最初の世界大戦が燃え上がったのです。こうして,1914年,「異邦人の時」,ないし諸国民の時は終わりを告げ,それまでの事物の組織の「終わりの時」が始まりました。

1917年にはアメリカも戦乱に介入しました。次いで始まったのは懲兵であり,兵役につけとのすすめです。ここに解決せねばならない問題が起きました。兵役につけとのすすめに対し,自分はどんな態度を取るべきか。三つの答えが考えられました。召集に応じて兵役につく,召集を拒んでその結果を忍ぶ,あるいは,召集は拒んでも,非戦闘作業を引き受ける,の三つです。

自分の決定を迫られた時,地上の諸国家の抗争に対し,クリスチャンは絶対の中立を守るべき事について,48年後の今日ほどには理解していませんでした。しかし以前から,戦時にも非戦時にも共なる人間に対して武器を取る事は決してすまいとの決意をしていました。この問題に関する神の律法は明らかです。「人の血を流す者は,人に血を流される」。(創世 9:6)そしてまた明確に,「あなたは殺してはならない」とも定めています。(申命 5:17)そうです,神の律法をおかして武器を取るべきでなく,自分は決して取るまいとの決意を新たにしました。

1918年7月,私は南カロライナ州ジャクソンの兵営に出頭しました。そこでの私の疑問は,自分の召集拒否が認められ,かわりに,非戦闘作業を許されるだろうかということでした。答えは容易に与えられました。独房監禁を命ぜられたのです。時おり,兵営付きの牧師が監房をおとずれ,私の変心をはかって説得を始めました。その論議にこたえるため,私は聖書を使おうとしましたが,牧師はそれを許しませんでした。牧師は好んで,聖書には戦争の物語りが多いから,私も兵役につくべきだ,と言いました。なるほど聖書には戦いの様子が多く出てきます。しかし,それら昔のイスラエル人の戦いは神の指示に従って行なわれたものであり,今日見られるような人間の戦いではありません。私は自分の答えの裏付けとして,ドイツ人,ならびにその同盟の軍隊が「ゴット ミット アンズ」(神我らと共にあり)との言葉を使っており,それらに敵して戦う兵士が,「我ら神を信ず」と刻印した硬貨を用いている事を上げました。神は二つに分かれているのですか。神は自らに敵して戦っているのですか。『いえ,これは明らかに人間の戦争であり,神がしておられるのではありません。決して兵役にはつきません』,と私は言いました。

1918年10月までに,私の態度の誠実さは認められ,非戦闘作業が与えられることになりました。10月の終わりに私は合衆国を離れ,休戦協停の調印される1日前の11月10日にフランスに着きました。翌日の昼ごろ,フランス人が,「フィニエ・ラゲール!」(戦争は終わった!)と叫ぶのを聞き,私の心は喜びました。

その後しばらく待機の期間がありました。母国に帰える船を待って停とんする兵士の余暇をうめるため,兵営内で学校が開かれ,私は無線電信の理論と電気学の初歩を教えることになりました。しかし,この時の経験が,後の御国宣教に役立ったのです。

1919年5月,私は帰国の途につきました。こうして再び故郷のティフィン会衆と交わり,会衆の兄弟たちと働く機会が訪れたのです。私はどんなに喜んだことでしょう。

ラジオを使って御国の宣明

しばらくのちの1923年,オハイオ州アライアンスの高等学校上級クラスで無線の理論を教えていた時,自分にとって驚きと喜びの知らせがありました。ニューヨーク市ブルックリンの,ものみの塔協会会長事務所から1通の手紙が届いたのです。急ぎ,私は封を切りました。なんだろう? 私の心は期待にはずみました。その一部はこうです,「あなたは無線理論を講じておられるとの事ですが……あなたの時間のすべてをこの分野で主の奉仕のためにささげられませんか」。ここにエホバのみ手のあることは私にとって明らかでした。この機会を辞退することができますか。決してできません。10月の半ば,私はブルックリン・ベテルに着きました。そこで最初に与えられた仕事は皿洗いでした。皿洗いなら,軍隊でいやというほどしたのではないか,私の心にはそんな気持ちが走りました。しかしその時思い出したのは次の聖書の言葉です。「なんぢらの神エホバ なんぢらが心をつくし精神をつくしてなんぢらの神エホバを愛するや否やを知んとてかくなんぢらを試みたまふなればなり」。(申命 13:3,文語)そうだ,これも試みだ,私の心は明らかになりました。

1カ月の皿洗いが終わったのちはじめて,新しい放送の仕事が始まりました。協会はすでに専属の放送局を開設するため,ニューヨーク市スタテン島に用地を得,局舎の建設工事をも終えていました。また,500ワットの送信機もニューヨーク市内に購入してありました。私は早速機械を設置し,1924年2月24日日曜日夕刻の放送開始にそなえ,すべての準備を整えました。呼び出し符号はWBBRです。これは,その後33年間,休みなく続いた非商業放送の始まりとなりました。

ある日,ものみの塔協会の会長であったJ・F・ラザフォードが,アメリカ全国地図を手にして私の部屋をおとずれました。テーブルに広げた地図を指さしながら彼は言いました,「これから,ここと,ここと,ここに新しい放送局を作ろうと思います。新局の建設にあたりあなたには技術面を受け持っていただきたいのですが」。「喜んでいたします」,と私は答えました。

1924年11月,協会の新しい放送施設建設のため,私はシカゴに向かいました。用地は,シカゴ市郊外のイリノイ州バタビアに見出されました。建設工事のすべては,近隣の会衆から自発的に集まる人々の手により週末を利用して行なわれました。50人もの人が集まった事もあります。その中には木工があり,石工があり,鉛管工や電気技師があり,早くから遅くまで,さながら一群れのビーバーのごとく熱心に働きました。やがて5000ワットの送信装置がすえられ,1925年,夏の初めまでには,御国の福音を伝える放送が始まっていました。呼び出し符号はWORD(wordは「言葉」の意)です。いかにもふさわしいではありませんか。

WORDを5年間運営したのち,新しい機械を設置するため,私は別のいくつかの局に派遣されました。これらは協会所有の放送局ではありませんでしたが,協会の技術員によって管理されていました。オハイオ州クリーブランドではWHK局のために5000ワットの送信機を据え,オハイオ州コロンバスのWAIU,カリフォルニア州オークランドのKROW,カナダ,トロント市のCKCXには,それぞれ1000ワットの機械を置きました。カナダでは,サスカチェワン州サスカツーン市,アルバータ州エドモントン市の諸会衆が施設を利用して神の国の良いたよりを放送していました。私はこれらの土地へもつかわされ,どんな面でもできるかぎり放送の仕事を助ける事になりました。その後再び1935年にWBBRに戻った私は,1957年,放送の仕事が終わるまでの22年間,ラジオ技師として働きました。

放送の仕事が終わった時,ものみの塔協会のN・H・ノア会長は,私をブルックリン・ベテルの印刷工場に呼びました。引き続き,永遠の福音を全地に宣べ伝える仕事の一端に加わるためです。ここではおよそ800人の献身した奉仕者の働く様子が見られます。その中には男子がおり婦人がおり,老人や若い人がおり,黒人や白人がおります。そのすべては調和のうちに共に住み,全地にわたり,偉大な創造者エホバ神のみ名とみ旨とを宣明すべく熱心に働いています。今私は目の力も衰え,ベテルを去ろうとしておりますが,私の生涯の最大事,すなわち,エホバ神に仕えようとの思いは今も変わりません。

少年時代から今日に至るまでの年月を振り返えっても,空虚なこの世の安物を追う事を止め,かえて,偉大な創造者エホバをおぼえようとの,若い日の決意を悔やんだ事は一度たりともありません。それは,平安と満足と喜びの日々でした。日用の糧を欠いたこともありません。必要な物のすべてを,常にエホバが豊かにそなえられました。もとより,すべてが平穏であったわけではありません。時には苦難があり,試練があり,当惑や心配がありました。しかし,箴言 3章5,6節にある神のさとしの言葉を素直に受け入れる時,問題のすべてが自然に消えてゆくのを知りました。「なんぢこころをつくしてエホバにより頼め,おのれのさとりによることなかれ なんぢすべてのみちにてエホバをみとめよ,さらばなんぢのみちを直くしたまふべし」。

しかし,これで終わったわけではありません。「終りまで耐へしのぶ者は救はるべし」とイエスは言われました。(マタイ 24:13)ハルマゲドンを生き残る人々とその子孫たちに,そしてのちには,今,記念の墓に眠り,のちよみがえされる多数の人々に,いまだ知られざる祝福が臨むでしょう。

若い日にこうしたすばらしい真理を知り,過ぐる65年の間,その真理を他の人に分かつ仕事の一端に加わり得た私はなんとしあわせなのでしょう。

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