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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1965
塔65 11/15 692–696ページ

私の神に仕えた50年

T.J.サリバン

1911年の冬,私がまだニューヨーク市ブルックリンのブルックリン・ハイツで働いていたとき,ある同僚が何げなく,パスター・ラッセルは地獄を信じていない,と言いました。その事に私は心を動かされました。神は愛とあわれみと理解の神であることを信じていましたから,永遠の責苦の教理とその神とを結びつけて考えることがどうしてもできなかったのです。私はパスター・ラッセルのような経歴の伝道者が地獄を信じていないという事実から強い感銘を受けました。しかしそうした教義についてさらに多くのことを聞いたのは1913年のことでした。

1913年の11月,カナダのウィニペッグで,私は再びこの問題に触れる機会を得ました。私がそこにいたのは,鉄道会社が建設していた一連のホテルの会計監査組織をつくるのを助けるためでした。そこの職員の中に,ふつうのホテル従業員とは違うことがひと目でわかる若い婦人がいました。彼女はいつも聖書をもっていました。そして彼女の事務室には,パスター・ラッセルの書いた6巻からなる「聖書の研究」がならべてありました。彼女は聖書に精通していました。経営幹部までが彼女に多くの聖書の質問をしました。

私たちは時々真夜中まで,あるいは真夜中すぎまで働かねばなりませんでした。交通機関は真夜中でストップしたので,彼女は家までの長い道を歩いて帰らねばなりませんでした。それで私は彼女を家まで送って行きました。それは聖書についてさらに多くのことを語り合う機会になりました。また私たちの周囲の光景にも感興を催させるものがありました。カナダ西北部の大草原地帯を知る人は,そのことがよくおわかりになるでしょう。そのころは,夜になると気温が零下7度から14度まで下がるのがふつうでした。雪が道の両側に2メートル近くつもっていました。空は冷く青く澄み渡り,そこにあらわれる北極光,すなわちオーロラは,神の創造の壮大さと偉大さを強く感じさせました。そうした光景の中で神の目的を語ることは非常に印象的であり,厳粛な気持ちになりました。その光景は,創造主のすばらしい愛とご配慮にあずかるように,私の中のすべてのものに呼びかけているかのごとくに思われました。

たしかに私はその時の討論をとおして聖書にかんする深い理解を得ました。それは私の想像を越えるものでした。帰途,私は話し合った事柄を熟考し,真理の種々の点を思いかえしてみました。どの点も道理にかなっており,実にうまく関連していました。

こうした話し合いに加えて私は聖書を相当読みました。カトリック的な環境の中で育った私は,それまで聖書を読んだり研究したりしたことがなかったので,これは私にとって初めてのことでした。そのとき聖書研究生の定期集会を紹介されましたが,研究生たちは私がそれまでに知っていた人の中で最もすぐれた,親しみ深い人々のグループでした。

献身の決意

1915年までこうしたことが続きました。当時世界の状勢は緊迫していました。私は自分が重要な決定をしなければならない立場にあることを自覚しました。カナダも戦雲にまきこまれました。兵役年齢にあった私は,自分にもその影響がおよぶことを知っていました。それで問題を慎重に,祈りのうちに考慮したのち,神の側に立って,神のみこころを行なうべく献身する決意をしました。数週間後,すなわち1916年の主の夕食の祝いの少しまえ,バプテスマを受けました。それ以後いろいろな事が急速に生じました。ホテルの仕事をしていたのでは,集会や勉強のための時間が十分ないことに気づき,もっと適当な仕事に変わりました。

戦時であるにもかかわらず,またそのために多くの制限がもうけられたにもかかわらず,私たちは神の御国にかんする真理を聞くことができました。真理を解明する「ものみの塔」誌はきちんと送られてきました。神がかじをとってご自分の民を導いておられることは明らかでした。それゆえ,戦鼓の音が高まろうと,兵籍につくことを要求されようと,少しも不安を感じませんでした。私は兵役免除を申請しました。しかし却下されました。再び申請しました。それも拒否されました。にもかかわらず私は戦争が終わるまで申請しつづけました。他のクリスチャンたちの中には兵営に送られてそこに監禁された者もあれば,郡の刑務所に入れられた者もありました。しかし私たちはエホバのご援助による彼らの居所を見つけて助けることができました。

その当時私たちはいろいろおもしろい,そして励ましになる経験をしました。兵営に監禁されていた兄弟たちは立派な証言をしたので,それに関心を示す軍人が少なくありませんでした。クリスチャンの兄弟が道を歩いていると,兵隊がそばに寄ってきて,「ジョーンズは営倉にはいっています。剣をほしがっていますよ」と言って行き過ぎます。しかし彼のその言葉は,ジョーンズ兄弟が逮捕されて営倉に入れられていること,そして聖書をほしがっているということを私たちに教えてくれました。そこで私たちはいろいろ工夫をして聖書を彼の手に渡しました。それが危険なことはいうまでもありませんでしたが,そこにはエホバと,エホバの目的,およびその民に対する深い愛があり,みな危険をかえりみず,喜んで援助してくれました。

「完成した奥義」の配布

こうした経験と時を同じくして協会の本「完成した奥義」が発行され,配布されました。私たちもカナダでその本を受け取り配布しはじめました。それは政府が牧師の扇動によってその本を発禁にした1918年のことでした。検閲官が協会の文書を発禁にしたのは,牧師と政府が提携して,ものみの塔聖書冊子協会の文書を攻撃したことの直接の結果とされています。

そのことからカナダにいた私たちは,清い崇拝のために戦う必要を痛切に感じました。私たちは反対を予期しながら,「完成した奥義」を急速にしかも広範囲に配布するため,大量に準備しました。禁止令が法律になったとき,アメリカとカナダの兄弟たちは次に嘆願書を配布し始めました。この嘆願書は,人々がその聖書の手引を何の妨害もなく入手できるように,その本の発行禁止を解除することを政府に求めるためのものでした。ひとりの兄弟と私は,オンタリオ州のフォート・ウイリアムとポート・アーサーで嘆願書を配布するよう任命されました。私たちはポート・アーサーに行って宿をとり,地図を見て計画を立て,仕事にかかりました。まず私たちは区域をまわり,私たちの仕事を説明した声明書を配り,あすかあさって嘆願書に署名をお願いにきますから,ぜひ注意深く読んでおいて下さいと人々に告げました。一般の人々は私たちに好意的な態度を示しました。

反響

しかし警察官は捜索状を手に入れて,私たちの部屋を捜索し,私たち個人の「完成した奥義」を見つけました。その晩私たちは勾留され,翌日釈放されました。その逮捕と宣伝は,おそらく嘆願状以上に人々の前に事実を強く示したに違いありません。新聞は私たちが逮捕されたことを第一面に取りあげて広く報道し,私たちが配布した手紙の中の強力な声明の多くをのせました。しかも牧師や政府にとっていちばんいやな部分を取りあげました。警察はその区域に配布するために送られてきた五,六百冊の「完成した奥義」を押収しました。しかしその晩,新聞のニュースで人々の興奮が最高潮にあるとき,警官たちは「完成した奥義」を自分や友人のために家に持ち帰ったので,私たちが働かなくても本は全部配布されました。

私たちが逮捕されたニュースがウィニペッグに達するやいなや,軍隊はトラック一杯の兵隊をさしむけました。兵隊は私たちが泊っていた家に踏みこんで禁止された文書をさがしました。彼らは私たちを逮捕し,家を荒らし,持ち物を押収できても,私たちを裁判にかけることはできませんでした。私たちはまだ一般市民でしたから,民事裁判所が,私たちに対する裁判権を主張しました。ウィニペッグ市の当局者はみな,クリスチャンの家に踏みこんで持ち物を破壊するような軍隊の高圧的な態度を嫌悪していました。軍隊が家に踏み込むと家を徹底的にかき乱したのです。石炭,メリケン粉,砂糖などを混ぜて使えないようにしてしまうこともありました。市の当局者はそのことを非常に憤慨し,私たちの事件をできる限り親切に扱って,憂慮していることを示しました。

1918年3月,反撃の機会がきました。その時協会は,アメリカ,カナダ,英国で配布するための,「御国のおとずれ」第1号を出版したのです。それは宗教家の狭量な態度を暴露し,かつクリスチャンの自由を擁護するものでした。1ヵ月後,すなわち4月に,「御国のおとずれ」第2号が出ました。これは宗教と政治の共謀にかんする問題をとりあげていました。5月には,「独裁政治の崩壊は確実 ― 悪魔的な策略は失敗の運命にある」と題する「御国のおとずれ」第3号が出ました。こうした出版物が出て活動は非常に活発になりました。私たちは日中および晩の大部分をその配布にあてました。なんでも早く配布しなければならないことを私たちは感じていました。その音信は強烈なものでした。それで私たちは中止させられないうちにそれを全部配布することを望んでいました。その点私たちの考えは間違っていませんでした。「御国のおとずれ」第3号が出版されて数日後,ブルックリン本部の責任の地位にあった兄弟たちが,ジョージア州アトランタの刑務所に送られたのです。

伝道活動は拡大する

兄弟たちが投獄されていた1918年の夏の終わりに,私はブルックリンのベテルを訪問する機会を得ました。本部に残って仕事をまかされていた兄弟たちは,エホバがご自分の民に窮極の勝利を得させることを確信していました。

翌春,つまり1919年の3月,兄弟たちは刑務所から釈放されました。そして1919年5月14日,アメリカ最高裁判所は,兄弟たちの投獄が違法であったことを認めました。カナダのエホバの証人は,アメリカの兄弟たちと共に心から喜びました。

それから間もなく,オハイオ州シダーポインで9月に大会が開かれるとの知らせがはいってきました。行けそうな人はみな大会に出席しました。この戦後初めての大会で,兄弟たちは大いに喜び,感謝し,最後まで活動をつづける不屈の決意を示しました。新しい出版物「黄金時代」が発行されることになり,その発表に全員胸をおどらせました。伝道活動に使う道具がまた一つふえたわけです。私はウィニペッグでのその雑誌の配布を監督する特権をえましたが,私たちの努力は最初から祝福されました。また「いま生きている万人は決して死ぬことはない」という小冊子を大量に配布するとともに,同じ主題の公開講演をいたる所で行ないました。こうしたことはすべて,人々の心をかなり動かしました。姉妹冊子「死者と語る」も広く配布されました。人々は死者,とくに戦没兵士と通信できると信じさせられていたので,その配布は必要でした。この考えは野火のように広がりました。サー・アーサー・コナン・ドイルなどは,生者が死者と通信することについてとてつもないことを書きました。しかしエホバが準備された「死者と語る」という小冊子は,真理探求者が関心を寄せていたその主題に反論するための適切な資料でした。

当時真理は目ざましい勢いで広まりました。集会の出席者数は五,六百人から1800,1900,2000人へと急増しました。かなり大きな劇場もすぐ満員になりました。迫害が激しかった時に私たちから離れていった人々も,組織を見なおすようになりました。組織が迫害を耐え抜き,依然活発に活動をつづけているのを見て,多くの人は考えはじめたのです。

それよりまえ,つまり1918年の9月に,私はエブリン・フィンチ姉妹と結婚しました。彼女は私がカナダに来たとき初めて会ったエホバの証人で,初めのころ,エホバの目的にかんする知識を得るのを惜しみなく援助してくれた姉妹でした。

ベテル奉仕

1922年,妻と私は,再びオハイオ州シダーポイントで開かれた大会に出席しました。その大会から戻ったとき,私たちはどんなことがあっても前進しようという熱意に燃えていました。私たちは自分が神の目的の中にあることを悟りました。エホバはその宮におられ,エホバのしもべたちが王と御国を宣明する時はきたのです。私たちは背水の陣をしく決意を固めて家に帰りました。道は一つしかありません。それはエホバの導きに従ってまっしぐらに進むことです。その夏私たちはカナダ・ベテルでの奉仕を志願しましたが,カナダ・ベテルには奉仕者が十分にいました。そこで私たちはブルックリン・ベテルに申し込みました。その申し込み書が留保されている間に私たちは家を修理し,また1年に1ヵ月ある休暇を全時間奉仕に費やし,ほかの時にもできるだけ多くの時間を奉仕にささげるようにしました。

1924年11月,妻と私は,ブルックリン・ベテルの家族に加わることを許されました。いうまでもなく私たちの喜びは大きなものでした。私たちにとっては新しい生活の始まりです。ベテルに来て間もなく私は奉仕部門に配属され,今日までその部門で奉仕しています。のちにベテルの講演者のひとりとして任命されましたが,この特権もエホバに感謝しつつ受けました。1927年には,日曜日に戸別伝道をする取り決めがつくられました。こうして組織が新しく一歩を踏み出すたびに,私たちの喜びは増しました。

1930年代には,組織の立場から見て重要な歴史的事件がいくつか生じました。ニュージャージー州のプレインフィールド・バーゲンフィールド,アスバリー公園ではカトリック・アクションが,エホバの民を滅ぼすため盛んに反対しました。1933年を聖年とする,という法王の宣言の間違いをラザフォード会長が明確に説明したことが,ローマ・カトリック教会を激怒させたのです。彼らの悪魔的な怒りはとくに,1939年の6月,マジソン・スクエア・ガーデンにおけるエホバの証人攻撃となってあらわれました。暴徒に制御された無気味なけはいは,ラジオをとおしてもはっきり感じられました。しかしラザフォード兄弟は,そうした妨害にもかかわらず,ラジオで中継されていたその講演を,最後まで力をこめて行ないました。聴衆はそれを聞き,そこに示された精神を自分で判断することができました。

マジソン・スクエア・ガーデン内の騒ぎののち,いく人かの兄弟が不当にも逮捕され,いく人かの暴徒と一緒に警察署に連行されました。ラザフォード兄弟はその時どうしてもすぐに警察に行って様子を見,兄弟たちを弁護するといってゆずりませんでした。その時私も自動車で彼と一緒に行く特権を得ました。マジソン・スクエア・ガーデンから警察署まで自動車を走らせながら,たけりたった暴徒のデモと,ご自分の民を保護する神の制御力を私たちはみました。警察署では暴徒をかきわけなければ中にはいれないので,警官の援助が必要でした。ラザフォード兄弟は兄弟たちにあびせられた非難を詳細に調べ,彼らを弁護する手続きをとり,彼らを励ましました。警察を出るとき外にはやはり同じ暴徒がいました。彼らは車の中に押し入ろうとし,前進を妨害しました。暴徒にドアをあけさせないため,私たちのだれかがステップに乗っていなければなりませんでした。

マジソン・スクエア・ガーデンの夜の集会では私が最初に話すことになっていました。どうなっていることだろうと思いながら帰ってみると,状態はすっかり変わっていました。敵はひとり残らず引きあげ,平和と静けさがよみがえっていました。その晩の集会は,あたかもエホバが立ちあがられて,『平安なれ,静まれ』と言って,つまらぬ者を追い払われたかの感がありました。

1942年の初頭,ラザフォード兄弟が死亡してから,協会のニューヨーク法人団体とペンシルベニア法人団体の理事たちは,ブルックリン・ベテルに会合し,祈りをこめた熟考の末,満場一致で,ネイサン・H・ノア兄弟を新しい会長に選びました。

エホバのわざは急速な発展をつづけました。1943年の2月1日には,宣教者を養成するものみの塔ギレアデ聖書学校が開設され,また同年4月17日には,神の民すべてを宣教のわざに備えて訓練するための,「神権宣教学校過程」が全部の会衆に送られました。こうした初期の措置が基礎となってそれ以後わざは目ざましい発展をとげました。エホバのみこころを成し遂げるエホバの御霊の働きの早さはいきをのむばかりでした。それはエホバのみわざであり,私たちの目にはすばらしいものでした。

ベテルにいてこうしたすばらしい出来事を見,それを感じ,それに参加することはだれでも得られる祝福です。私はそのように考えています。そういう態度でベテルにはいり,そういう気持ちですべての割り当てを受けるなら,非常に幸福で,エホバから豊かな祝福を受けることを,私はベテル生活40年の経験をとおして知りました。

私はここベテルで数々の特権を与えられたことを毎日エホバに感謝しています。第二次世界大戦中に与えられた特権の一つは,週末が5回あればそのうちの4回,アメリカ東部の州の刑務所に入れられていた兄弟たちに奉仕することでした。現在もやはり,ダンバリー連邦刑務所にいる兄弟たちに,毎月1回ずつ奉仕し,それを20年近くつづけています。そうした特権をすべて果すには努力がいります。しかしエホバのしもべとして仕え,兄弟たちを慰めることはほんとうに大きな喜びです。エホバのしもべであったこの50年間,エホバは私に良きものを惜しみなく与えて下さいました。私はそれをはばかりなく言うことができます。(詩 84:11)大小にかかわらず,必要なものはすべて組織をとおして与えられました。私の望みはエホバの家のしもべとして永遠にそこに住まうことです。―詩 27:4。

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