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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1966
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クリスチャンの勇気

西ベルリンのデル・テレグラフ紙は,1965年7月18日の新聞に,ナチスが政権を握っていたとき強制収容所に入れられたドイツの一青年について,ある目撃者が語った次のような話を掲載しました。

「ヨナトハン・シュタークがザクセンハウゼン収容所に入れられたことを聞いたのは,1944年の秋であった。彼は14号獄舎に入れられ,すぐに特別の制服を渡された。わたしたちはその制服が何を意味するかをよく知っていた。それは死の制服であった。わたしはそのことを耳にしたとき,禁じられてはいたが,うまく彼に会うことができて,1時間以上話をした。彼の果断な態度はすでに他の人々の注目をあび,人々から非常に好かれていた。彼は自分の運命を知ってはいたが,実に冷静であり,いつも明るかった。そして尋問を受けるたびにゆるがぬ決意を示し,ナチスのより抜きの番兵までその態度にうたれたほどであった。当時彼は収容所中の評判であった。

「火曜日の午後は彼の生涯の最後のときであった。わたしたちは,彼が門の前に立っているのを遠くから見ることができたが,彼のところへ行くことはできなかった。彼は静かに落ち着いて立っていた。ひとりの専門の囚人が,収容所長の見ているところで彼を絞首刑にすることを任命されていた。執行人は青年の首に輪なわをかけた。ところが不思議なことに,その無情なはずの囚人がためらったのである。所長さえ命令を出すことを忘れていた。そこで青年が言った。『何をためらっているのですか。エホバとギデオンの側に立ちなさい!』。これが彼の最後のことばであった」。

これは20年まえのできごとです。しかしこの勇気を示した青年の物語が,昨年,西ベルリンのデル・テレグラフ紙に取りあげられたのです。なぜですか。それは彼の模範的な勇敢さと,ヒトラーがドイツを支配した暗黒時代にそのような勇気を示さなかった,現在高い地位にある政治家たちとを対照させるためでした。デル・テレグラフ紙は最後に,何千人という人が,エホバに対して彼と同様の信仰をもっていたために,ナチスの収容所に入れられたこと,そしておよそ2000人が,そのような収容所で死んだことも伝えていました。

ナチスはなぜヨナトハン・シュタークを死刑にしたのでしょうか。それは彼がヒトラーの軍隊にはいることを拒絶したからです。軍人として戦争にいくにもある程度の,あるいはある種の勇気がいるという見方もあるでしょう。しかし,ヨナトハンのような立場をとり,冷静な態度である種の死にのぞむには,それよりもはるかに大きな,そしてはるかに高潔な勇気がいります。彼は自分の所信を断行する勇気がありました。すべての献身したクリスチャンは,彼の模範に習うべきです。

何がこの勇気をヨナトハンに与えましたか。エホバに対する彼の信仰です。同記事によるとヨナトハンは,エホバを愛し,エホバをおそれる両親に育てられ,正しい原則を心に植えつけられていました。ヨナトハンの両親は,聖書にしるされている,クリスチャンの勇気を示した人の多くの例をむすこに教えたに違いありません。―エペソ 6:4。テモテ第二 3:15-17。

使徒ペテロとヨハネは,五旬節のすぐあと,クリスチャンとしてすばらしく勇気のある行ないをしました。ある役人たちは,彼らをおどそうとして,ペテロの行なった奇跡については何も知らないかのように,「あなたがたは,いったい,なんの権威,また,だれの名によって,このことをしたのか」と尋ねました。その時彼らはふたりの気力に驚きました。役人たちは,この身分の卑しいふたりの漁夫が,自分たちのまえで恥じいることを期待していたのです。しかしそれはまったくの見当ちがいであり,実際にはその正反対でした。使徒ペテロが聖霊に満たされて語ったときの大胆さは注目に価します。「民の役人たち,ならびに長老たちよ,わたしたちが,きょう,取調べを受けているのは,病人に対してした良いわざについてで……あるなら,あなたがたご一同も,またイスラエルの人々全体も,知っていてもらいたい。この人が元気になってみんなの前に立っているのは,ひとえに,あなたがたが十字架につけて殺したのを,神が死人の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのである」。それは勇気でした。―使行 4:7-10。

そればかりでなく使徒ペテロはその機会を利用して,イエスこそは「あなたがた家造りらに捨てられたが,隅のかしら石となった石」であること,また,「わたしたちを救いうる名は,これを別にしては,天下のだれにも与えられていない」ことを指摘しました。なんとはっきりしたことばでしょう。―使行 4:11,12。

「人々はペテロとヨハネとの大胆な話しぶりを見,また同時に,ふたりが無学な,ただの人たちであることを知って,不思議に思った」と書かれているのも当然です。彼らのような無学な漁師は,支配者の前に出るとおどおどし,まごつき,劣等感を抱くのがふつうでしたが,そのふたりは別でした。そして「彼らがイエスと共にいた者であることを認め(た)」と記録されています。答えはここにあります。彼らは恐れないこと,勇気をもつことをイエス・キリストから学んだのです。若いヨナトハン・シュタークも,こうした模範に励まされて,あのような勇気を示したのです。

世界は,いかだに乗って太平洋を単身横断した71歳の水夫の「果断な勇気」を賞賛し,スイスのマッターホルンの急斜面を登って「古今随一の登山家」となったイタリア人をほめたたえますが,そうした偉業にどんな永続的益がありますか。それはかえって人間崇拝を育て,害をおよぼす危険があります。

一方,クリスチャンの勇気は,神への義務を果たすことに示されます。その勇気は,神への信仰と正しい原則に対する忠実さにもとづいていますから,神を愛する人々に同じょうにすることを励まします。―ヘブル 12:1。

しかし,危険にさいしてそういう勇気をもちたいと思えば,神のことば,聖書にしるされている約束,勇気ある行ないの例などを思いめぐらして,日毎に信仰を築いていかねばなりません。そのうえ,毎日起こる小さな問題にも,聖書の原則を適用しなければなりません。そうするとき,私たちは大きな困難に直面してもクリスチャンとして勇気をもつことができます。

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