「賢い者はこれを聞き」
それは命にかかわる問題でした。彼らは与えられる指示を注意深く聞きました。それをまちがいなく実行するためです。もしその指示を守らなければ,初子は殺されてしまうのです。
この事件の起きた場所は古代のエジプトです。時は紀元前1513年。それは神がイスラエル民族に過ぎ越しの指示を与えられた時でした。神の指示をよく聞いて守ることは,神がエジプト全土の初子を打たれるとき,イスラエルの各家族の初子が救われることを意味しました。
人々は,その指示をもれなく行なおうと,注意を集中して聞きました。そして聖書は,「イスラエルの子孫去りてエホバのモーセとアロンに命じたまひしごとくなしかくおこなへり」と述べています。(出エジプト 12:28,文語)彼らはモーセとアロンをとおして与えられた神の指示を守ったので,エホバの天使がエジプトのすべての初子を殺したとき,イスラエルの初子は殺されずにすみました。神の指示に注意を払ったことは,イスラエル人の親にとってほんとうに大きな祝福となりました。また親がそうしたことは,初子にとっても大きな祝福でした。
むかし神は,モーセ,アロン,イスラエルとユダの預言者など,多くのしもべをとおして語られました。また第1世紀には,御子イエス・キリストをとおして,次にクリスチャン会衆をとおして語られました。(コリント第一 2:10。エペソ 3:5)いまの時代においても神はやはりご自分のしもべをとおして語られます。イエスが言われたとおり,そのしもべは,イエスから「全財産」の管理をゆだねられる「忠実な思慮深い僕」級を構成します。―マタイ 24:45-47。
エホバが,今日地上にいる目に見えるこの「しもべ」級をとおして与えられる真理は,実際の食物以上に必要なものです。物質の食物は一時の間命を支えますが,霊の食物は,永遠の生命が得られるように,人を強くします。エジプトにおける過ぎ越しの場合と同じく,今日でも神が語られるなら,それは神の民にとって命にかかわる問題です。したがって,「賢い者はこれを聞いて学に進(む)」という原則は,いまも生きています。―箴言 1:5。
神が語られるとき,命を愛する人はそれに耳を傾けます。それには少なくとも三つの理由があります。(1)神に対する尊敬のゆえに語られているのはその神のことばです。(2)神のみこころを行なうことを強く願うため,(3)神の祝福を得て,新しい秩序のもとにおける永遠の生命を得たいと願うため,などがそれです。これらのことをするには,彼らは漸進的に啓示される神の真理におくれないようについて行かねばなりません。
神のことばが語られるとき,あなたはそこにいますか。神を尊敬し,神のことばを熱心に聞くことによってその尊敬を表わしますか。神のみこころを十分に行なうことができるように,注意を傾けて,神の目的とご要求をいっそう深く学ぼうとしますか。神の民であれば,どこに住んでいようと,この願いをもっていなければなりません。
エホバの見える組織においては今日,聞くことによって自分が賢い者であることを示す機会がたくさんあります。個人の家や,エホバの証人の御国会館では聖書研究が行なわれ,大会でも聖書の話があります。小さな集まりのばあいは,話されることにいつも注意を集中していられるかもしれません。しかし集まる人が多ければ多いほど,注意はそれがちになります。
大会で話を聞く
そのため賢い人は,何千人というエホバの民が集まる大会で話を聞くばあいに,特別の注意を払います。大会では話されることに注意を集中して聞くことが大切です。というのは,新しい真理や取り決めは,たいていこうした大会で発表されるからです。
話しに注意を払わねばならないのはだれですか。プログラムの進行中にしなければならない仕事がある人は別として,全部の人です。しかし必要な仕事をしている人のところにも,仕事をしながら話が聞けるように,拡声器が備えつけられます。
若い人も老人も,男も女も,神のことばが語られるときは耳を傾けていなければなりません。モーセがイスラエルの国民に与えた次の助言に従わねばなりません。「すなわち男,女,子供およびあなたの町のうちに寄留している他国人など民を集め,彼らにこれを聞かせ,かつ学ばせなければならない。そうすれば彼らはあなたがたの神,〔エホバ〕を恐れてこの律法の言葉を,ことごとく守り行うであろう」― 申命 31:12,〔新世〕。
それで,今日エホバの証人の大会に出席する人はすべて,同じことをしなければなりません。つまり大会にきてよく聞き,よく学ばねばなりません。それはこの終わりの時に,エホバのみこころを行なうことができるようになるためです。
世界の多くの場所では人は,大会で熱心に話を聞きます。しかし話に注意を集中せず,開会中に会場を歩きまわることさえする,悪い習慣が一部の人に見られるところもあります。これはエホバの民が改善を必要とする点です。そういう人たちは,自分の席に落ち着いて,よく聞き,よく学ぶ習慣を養わねばなりません。
時に席を立たねばならないことがあるのは事実です。母親には子どもの世話があるでしょう。また大会に必要な仕事をする人たちは,二,三分早く席を立たねばならないことがあります。しかし,だれにせよ,そういうばあいは,多くの人の前をとおらねば出られないような場所に席をとらないことです。そうすれば,話に聞きいっている人の注意をそらさずにすみます。
時には,子どもたちが同じ所にかたまって,講演の行なわれている間おしゃべりをしているのが見られます。講演の時は,親が子どもを自分のそばにすわらせて監督するのが賢明です。交わりを楽しむ時間は,集会の前とあとにあり,これもクリスチャンの大会の良い面です。しかし,神のことばが説明される時は,静かにすわって,講演者に注意を向ける時です。
話されることや行なわれることに注意を集中する一つの方法は,聖書を手もとにおいて,かぎになる聖句を調べることです。また鉛筆とノートをもってきて,重要な点だけをノートすることも,注意を集中する助けになります。また,話されていることが,自分のすでにもっているその主題にかんする知識とどのように結びつくかを考えるのもよいことです。それが宣教に,あるいは自分の日常生活にどのように役立つかをも考えてみます。話されていることが自分にどうあてはまるかを絶えず検討します。そのように頭と手を働かせるなら,より多くの感覚がそちらのほうに集中し,最後まで話をもれなく聞くことができます。そして,多くの時間をかけて研究され,準備された話の実を刈り取ることができます。たとえ短かい話でもその準備には多くの時間が費やされているのです。
注意ぶかく聞くことには多くの益があります。まずわたしたちの日常生活はそれによって絶えず改善されていきます。またそれは,わたしたちがもつべきクリスチャンの新しい人格を培う助けとなります。宣教活動において他の人を教えるためのいっそうの備えを身につけることができます。また,じっとすわって話を聞くように,やさしく教えられる子どもたちは,おとなになっても必要な規律を教えられます。そしてよく聞き,よく学ぶことは,すべての人にとり,楽園で永遠の命を得るための助けになります。
そればかりではありません。エホバのことばに注意を払って賢明さを表わせば,わたしたちはもうひとつのことをすることになります。箴言 27章11節は,「わが子よ,知恵を得て,わたしの心を喜ばせよ」と述べています。わたしたちは知恵を得なければなりません。ことし開かれるエホバの民の大会でよく聞き,よく学びましょう。そうすれば,わたしたちは天の父エホバを喜ばすことができると同時に,わたしたち自身,またわたしたちの愛する者たちも,多くの益を得ることになります。