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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1967
塔67 9/1 517–520ページ

現代の危機における牧師の役割

彼らは信仰を築く者ですか。あなたは彼らの導きに従うことができますか。

1年あまりまえ,ウ・タント国連事務総長は,世界はいまだに,「大国間の政治的紛争,核武装の恐るべき暗示,科学的,技術的進歩より得る益の,忍び難いほどの不平等な分配,人間の人間に対する非人道的な行い」に直面している,と言いました。その時より世界の状態はいっそう悪化しており,犯罪と暴力行為は増加しています。わたしたちはほんとうに苦難の時に生きています。

こういう悪化していく状態の中にいる今日の人々は,彼らの苦しみに同情し,ふさわしい者に救いと祝福を与える明確な手段をもつ神の存在を確信する必要があります。今日の人々は,聖書の預言が示す希望と,文字に書かれた神のことばにすぐれた道徳的教訓が含まれていることを,絶えず思い出させられる必要があります。しかし人々は,だれのところへ行って,その明確で,権威あるおとずれを聞けばよいのですか。

牧師ではいけないのか,と人は言うかもしれません。牧師は,神への奉仕に献身している,と言われているからです。牧師はイスラエルの祭司に相当する地位を占める者,と多くの人は考えます。そのイスラエルの祭司については,聖書のマラキ書 2章7節に,「祭司のくちびるは知識を保ち,人々が彼の口から律法を尋ねるのが当然である」と書かれています。ここで言われているのはもちろん神の知識,神の律法のことです。

牧師になる人たちは,その奉仕に対して多くの物質的報酬を受けます。自らの手をもって働く,骨のおれる苦しい仕事はしなくてもよいようになっています。住居,衣服,生活必需品も十分に備えられ,多くのぜいたく品でさえ,彼らの奉仕への報酬として与えられます。そういうわけで彼らは,なんの妨げもなく霊的な事柄に専念し,老若を問わずすべての人に,聖書の示すすぐれた原則をよく教えることができるはずです。時間があるので聖書を勉強して,「あなたにゆだねられていることを守りなさい。そして,俗悪なむだ話と,偽りの『知識』による反対論とを避けなさい」という霊感によるすすめに従うことができます。―テモテ第一 6:20。

したがって多くの人は,牧師が,霊感によって書かれたユダの手紙の3節に述べられているような,「聖徒たちによって,ひとたび伝えられた信仰の」擁護者であることを期待します。自己中心的で無神論的な考えがはびこっているこの危険な時に,その期待はかなえられていますか。牧師は聖書の権威を擁護していますか。

牧師のしていること

「聖書は他の本となんら変わったところはなく,りっぱな本である。しかしそれを信じてはいけない」。これは公然と無神論を唱える人のことばですか。そうではありません。1966年8月5日のデンマークの新聞,カルンドボーグ・フォルクブラッドによると,そういうことを言ったのは,ホルメンの首席司祭であるデンマーク人の牧師です。「人々は,彼らに都合のよい食物で養われるべきであって,毒を食べさせられるべきではない。旧約聖書には霊的ながらくたがあまりにも多い」と言ったのは,セム族排斥者をもって任ずる人ですか。そうではありません。これは,英国教会の教区牧師J・C・ワンセイの口から出たことばです。

カトリックの牧師デイビッド・スタンレイも,公けにつぎのような意見を述べました。「有名なカトリック神学者の中で,最初の人間は超自然的に能力を与えられていた人間で,罪深い決定を下したために恵みより堕落したと論ずる人はひとりもいないだろう。進化論を受け入れるとすれば,アダムは……霊長類の動物だったにすぎない。アダムが堕落したという神話はまったく合わない」。またベルギーのカトリック神学者エドワード・ボンは,「人類学者のわたしにとって,『アダム』とか『エバ』ということばは適当とは思えない」と述べています。―1966年8月22日のニューズ・ウィーク誌

処女マリアからイエスが生まれたことについて,カナダの聖公会の牧師E・W・ハリソンは,短気な調子で,「そんなことは少しも重要ではない。それが歴史的事実であるかどうかわたしにはわからないし,気にもしていない……わたしはそんなことに時間を浪費することはできない」と言います。(1966年8月6日のマックリーズ・マガジン)また,ニュージーランドのダニジンにあるノックス神学校の校長L・G・ジアリング博士のような態度をとる人もいます。福音書にのせられている復活にかんする記録は,歴史上の事実と考えるべきではない,と彼は主張します。彼にとって,からになった墓の物語は,キリストが復活後肉体をとって弟子たちに現われたのと同じく伝説にすぎません。長老派の雑誌「アウトルック」にのせられた彼の見解は,クリスチャン・ギリシャ語聖書の権威に疑いをさしはさむものです。

道徳の分野においても,多くの牧師の考えかたには,妙にだらしのないところがあります。たとえば,「われわれは世界にもっと多くの愛を必要とする。もしこれらの結合〔同性愛による〕が愛を生み出すなら,よいことではないか」と,同性愛をすすめるようなことを言ったのは,懐疑的な社会学者ではなくて,英国の牧師ロバート・W・ウッドでした。またカナダのオタワ大学にある社会科学研究所の所長で,カトリックの牧師であるレイジャーはつぎのような意見をもっています。「性関係をも含めて試験結婚は許されるべきである。社会も教会もそのような試験結婚を認めるべきである。そして男女の年齢は最低18歳とすべきだ」。

現代の大学や神学校の教育から牧師たちが受けた影響を示す証拠はまだいくらもあります。キリスト教の基本的教典である聖書よりも,社会学や比較宗教学および神学のほうより多くの注意がそそがれていることは確かです。また,さきにあげた例は,少数の「不ていの徒」であって多くはいない,と言うこともできません。他の牧師たちはみな,そのような反聖書的な見解に対し,抗議しますか。反キリスト教的なことを教えるという理由で追放された牧師のことを近頃あなたは聞いたことがありますか。

キリストか牧師か

クリスチャンであることを公言する人々はおのおの,キリストおよびキリストの初期の弟子たちの導きに従うか,それとも,神のことばとその教えについてキリストと意見を異にする牧師の導きに従うかを自分で決めなければなりません。さきに述べたような見方が実際にキリスト・イエスのそれに反するものであることは,容易に確証できます。イエスは優越感を意識しながら聖書を単なる「すぐれた文学」として語るようなことをせずに,信頼できる真実の神のことばとして語られました。―ヨハネ 17:17。

使徒パウロは人々に,聖書を信じてはいけないと助言したこともなく,ヘブル語聖書は「毒」であるとか「霊的がらくた」だと言ったこともありません。反対にパウロは,「聖書は,すべて神の霊感を受けて書かれたものであって,人を教え,戒め,正しくし,義に導くのに有益である」と述べています。(テモテ第二 3:15-17)自分たちの現代の哲学のほうが聖書よりはるかに進んでいると考える牧師たちは,パウロの意見に同意しません。

カトリック,プロテスタントその他の宗派を問わず,進化論者にくみして聖書を愚ろうし,人間の起源にかんする記録を信じない牧師は,たしかにキリストや使徒たちの友ではありません。神のみ子は,創世記をも含めて,文字に書かれた神のことばを心から信じていられたではありませんか。そのことを疑う人は,マルコ伝 10章6節から8節までを読み,イエスのことばと,創世記 1章27節,2章24節に書かれていることを比較してみてください。使徒パウロは,イエスの教えを忠実に守り,それを聞いたとおりに他の人に伝えることを好みました。事実彼はつぎのように警告しています。「あなたがたは,むなしいだましごとの哲学で,人のとりこにされないように,気をつけなさい。それはキリストに従わず,世のもろもろの霊力に従う人間の言伝えに基くものにすぎない」― コロサイ 2:8。

パウロがローマ人にあてて書いた手紙の5章全体を調べて,彼の明快な論議に注意してください。パウロは創世記の確実性を信じ,人間が罪に陥ったこと,人間があがなう者を早急に必要としたことにかんする創世記の記録を認めていました。そうした問題についてパウロの見解と,牧師たちの現代主義的な教えとをくらべてください。また,主イエス・キリストの「選の器」としてのパウロの信任状と,比較神学の過程を卒業し,霊感によって書かれた神のことばを否定する牧師たちの信任状とを比較してみるならば,さらによいでしょう。―使行 9:15。

牧師の中には,キリスト・イエスの奇跡的誕生と奇跡的復活にかんする聖書の記録をべっ視する人がいます。理解できないために,神の知恵と,不思議を行なう神の力とを計り知ることができないために,それらのできごとが物質科学の発見したことと一致しないために,彼らは,霊感によって書かれた聖書がつげるおとずれを信じようとしないのです。ところが矛盾したことに,彼らは,「三位一体」の教理のような,理解できない,非聖書的な不可思議な教理を進んで信じ,教えているのです。

イエスの使徒ペテロは,復活が真実であったことを証言するのに,現代の牧師よりもずっと有利な立場にありました。というのは彼は目撃者だったからです。使徒行伝 10章40,41節に記録されている彼の証言を聞いてください。「神はイエスを三日目によみがえらせ,全部の人々にではなかったが,わたしたち証人としてあらかじめ選ばれた者たちに現われるようにして下さいました。わたしたちは,イエスが復活された後,共に飲食しました」。

淫行を許し,同性愛をすすめる牧師は,イエスと共にいて,イエスから直接教えを聞いた人々とは正反対のことを言っているのです。たとえば福音書を書いたマタイは,イエスがつぎのように言われたことを伝えています。「悪い思い,すなわち,殺人,姦淫,不品行,盗み,偽証,誹りは,心から出てくるのであって,それが人を汚すのである」。(マタイ 15:19,20)また使徒パウロは,イエスとまったく同じ考えをもって力説しました。「〔牧師にも他のだれにも欺かれて〕まちがってはいけない。不品行な者,偶像を礼拝する者,姦淫する者,男娼となる者,男色をする者,盗む者,貪欲な者,酒に酔う者,そしる者,略奪する者は,いずれも神の国をつぐことはないのである」― コリント第一 6:9,10。

しかし,聖書がこのように明白に教えているにもかかわらず,英国教会会議によってつくられた,牧師,教育者,医師からなる一委員会は,このほど,性や不品行にかんしては,むずかしい,厳重な規則を適用することはできない,という結論を出しました。婚姻外の性関係をすべて悪とすることはできない,不品行も時には許される,と同委員会は述べています。あなたはどちらの導きに従いますか。誤りのない神のことばですか,それとも,自分たちの考えを広めようとする利己的な考えを持つ可能性のある,霊感を受けていない不完全な人間のことばですか。

命を救う道

すべてのそういう重要な問題に関してあなたが受け入れ,賛成する教えの如何はあなたの将来と深い関係があります。それは永遠の生命でしょうか。それならばあなたはイエスのつぎの警告に注意しなければなりません。「もし盲人が盲人を手引きするなら,ふたりとも穴に落ち込むであろう」。(マタイ 15:14)自分の宗教の教師の資格のみならず,そういう教師をとおして伝えられる組織の教理の性質をも考慮することは,各人にとってたしかに大切なことです。これは,ひとりの牧師だけがまちがっている,というような問題でないことは明らかではありませんか。問題は,聖書に対して無知なあるいは聖書を軽べつするような卒業生を送り出す神学校の全教科課程にあります。

キリスト教の基本的教典である聖書を認めない牧師は,1966年9月12日のオークランド・スター紙にのせられた,「重要な問題にかんする不信を説き聞かすよりも,クリスチャン奉仕から引退するほうが正直な行ないである」との,ニュージーランドの長老教会平信徒全国協会スポークスマンの,まことに当を得たことばの意味をよく考えてみる方がよいのではないかとある人は思うでしょう。しかし彼らには,自発的に牧師の仕事をやめたり,それに伴う給料を辞退しようとする様子はみえません。

彼らは実際に,彼ら自身の独断的主張以外には権威ある基礎をもたない,あいまいな宗教の牧師です。この危険な時代における彼らの役割は,信仰を築くことではなく,信仰を砕くことです。聖書を書いたユダは,霊感を受けて,キリストの追随者たちに,偽教師たちによる危険を警告しました。「彼らは,あなたがたの愛餐に加わるが,それを汚し,無遠慮に宴会に同席して,自分の腹を肥やしている。彼らは,いわば,風に吹きまわされる水なき雲……である」― ユダ 12。

この世界の危機にあなたが必要とするものは,あなたと聖書を真剣に論じあう友だちです。さきにあげたホルメンの首席司祭のような牧師は聖書を信じていません。それどころか,「エホバの証人はそれ〔聖書〕を信じているから,彼らはクリスチャンではない」という非難さえあびせます。そういうゆがんだ考えを払いのけて,エホバの証人のことを調べてごらんになりませんか。たしかにあなたも彼らと同じく,キリストの「御足の跡を踏み従う」人すべてに約束されている救いにあずかるために,文字に書かれた神のことばに従って生活することを望むようになるでしょう。―ペテロ第一 2:21。

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