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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1967
塔67 10/15 636–639ページ

真のキリスト教は無私の愛を鼓舞する

そのことは昔,どのように行なわれましたか。今日でもそうであるという証拠がありますか。

その婦人はプエルトリコの若い女性で,ふたりの幼い子供の母親であり,夫は村で床屋を経営していました。彼女はまた非常に宗教心の厚い人で,そのために,煉獄と地獄での責め苦を考えるあまり,病気になってしまい,十字架をにぎりしめて歩きまわろうとしてききませんでした。医師にも手の施しようがなく,牧師が与えた薬も役にたちませんでした。では,この若い母親を最後に回復させたのは,なんでしたか。それは,「神は愛である」ことそして「罪の支払う報酬は死である」こと,また,真のキリスト教を実践する人は自分のことだけでなく他の人のことも考えるようになるという事柄を学んだためでした。―ヨハネ第一 4:8。ローマ 6:23。

宗教心の強い人が,この婦人に見られるような精神状態に陥るのは,少しも驚くべきことではありません。彼女が受けた宗教的な教えの大要は,明らかに自己中心の考え方で,そのような考えは,禁欲主義者や神秘主義者の場合のように,極端に走りがちです。昔,マルチン・ルーテルが修道僧および牧師として行なったように宗教心の非常に強い人は,自分の魂の救済のことを深刻に考えて文字どおり苦行をしました。

しかし,宗教に関して自己中心的な考えを持つ人は,しばしばきわめて特異な実を生み出します。その好例として,ナチ・ドイツ政府を怒らせ,第ニ次世界大戦中にダッハウの収容所に抑留された牧師たちの実例があげられます。この牧師たちのことを「アメリカ人の時代」(1966年版)の中で述べているのは,その著者ネリン・E・ガンです。ガン自身かつて,また今も熱心なカトリック信者ですが,中立国の通信員として第ニ次大戦中ベルリンから実情を報道したため,ナチ党員に捕えられ,抑留の身となり,ダッハウに送られたのです。

これらの牧師は,ナチ・ドイツの手で収容所に投げ込まれた以上,何らかの強い信念をいだいていたに違いありませんが,ガンは彼らのことを次のように書いています。「牧師たちの収容されている26号棟の礼拝堂ではミサがささげられていた。特別の許可を持つごく少数の者以外だれもこの礼拝堂にははいれなかった……最初この26号棟は,バチカンに対する一種の特典の意味でカトリック教会の牧師すべてに解放されていた。そして26号棟の状態は収容所内のどこよりもすぐれており,また,多くの小包類が外部から届けられていた」。ところがその後,礼拝堂の出入りはドイツ人牧師以外禁じられ,収容所内の抑留者の他のすべての者が,たとえカトリック信者であってもそこの出入りを禁じられました。そして,「ババリア出身の牧師が,黒皮で包まれた短い棒を手にして礼拝堂の入口の外で見張り」,内部で行なわれている礼拝式にあずかるため「中にはいろうとする者をのろっていた」のです。

それから著者ガンは,フランス・カトリック党の熱烈な指導者の一人で,かつてダッハウ収容所に抑留された人のことばを引用しています。「我々は時には長ぐつでけられ,礼拝堂から追い出された……もちろん,その一棟の中には小包が山のように積まれていた……収容所内のやせこけた人々すべてが,もし突然に敬虔な思いに打たれ,そのため,牧師たちの部屋にかくされている大量の食糧を見つけたなら,大変なことになったのではなかろうか」。a もしこれらの牧師が,煉獄や地獄の苦しみを真実とする自分たちの信仰を真剣に考えていたなら,同じ信仰の仲間である「俗人」信者に自分たちの崇拝の益をわかち与えないでいられたでしょうか。牧師が心配していたのは明らかに仲間のカトリック信者の心の糧ではなく,自分の口に入れる食べ物のことだったのです。

さて,つじつまが合わないように思えるかもしれませんが,前述のプエルトリコの若い母親にしろ,ダッハウの収容所にいたドイツ人牧師にしろ同一の点で誤っていました。どんな点で誤っていたのですか。

つまりいずれも,キリスト教を利己的な命題と見なし,自分のことにのみ心を用いて,同時に良いクリスチャンであり得るという誤った考えのもとにそれぞれ努力したのです。しかしその考え方は誤っています。実際のところ,真のキリスト教と見せかけのものとを見分けるしるしは,帰依者の心の中に無私の愛を鼓舞する力の有無なのです。

使徒たちの模範

しかしクリスチャンは,自分自身の心の糧や救いを考えてはならないという意味ではありません。それは確かに考えねばならないことで,そうすべき義務があり,またそうするように勧められています。(マタイ 5:3)それで,神を喜ばすためには,「神のいますこと」つまり神が存在することと,「ご自身を求める者に報いて下さることを,必ず信じるはず……である」と聖書に書かれています。(ヘブル 11:6)しかしこれはキリスト教のすべてではなく,その始まりにすぎません。キリスト教の創立当初の出来事はこの事の真実を証明しています。イエス・キリストが,ペテロ,アンデレ,ヤコブ,ヨハネに漁師の職業を捨てて,ご自分に従うよう召したのはなぜでしたか。単に彼らが救われるためでしたか。いいえ。むしろ人をすなどる者となって,他の人に救いをもたらすためでした。―マタイ 4:19-22。

では,特に使徒パウロのことを考えてみましょう。パウロのことは,聖書の中でイエスの追随者の中のだれよりも数多く述べられています。パウロは学識あるパリサイ人として大いに尊敬された,きわめて有望な人物でした。しかしクリスチャンになるやいなや,パリサイ人としての有利な地歩や将来のすべてを投げ捨てて,キリスト教を他の人々に伝えるわざに身をささげ,無私の心から自分自身の益よりも他の人の益を先に考えました。彼はこう述べています。「わたしは,すべての人に対して自由であるが,できるだけ多くの人を得るために,自ら進んですべての人の奴隷になった。ユダヤ人には,ユダヤ人のようになった。ユダヤ人を得るためである……律法のない人には……律法のない人のようになった。律法のない人を得るためである。弱い人には弱い者になった。弱い人を得るためである。すべての人に対しては,すべての人のようになった。なんとかして幾人かを救うためである。福音のために,わたしはどんな事でもする。わたしも共に福音にあずかるためである」― コリント第一 9:19-23。

自分のことよりも人の益を第一にすることは,彼にとって何を意味しましたか。彼自身こう述べています。「ユダヤ人から四十に一つ足りないむちを受けたことが五度,ローマ人にむちで打たれたことが三度,石で打たれたことが一度,難船したことが三度,そして一昼夜,海の上を漂ったこともある……都会の難,荒野の難……飢えかわき,しばしば食物がなく,寒さに凍え,裸でいたこともあった」。パウロは,このほかさまざまの苦難のすべてを単に自分の救いのために忍んだのですか。そうではありません。もしそうであれば,これほどの英雄的な行為は不必要でした。パウロがすべてを忍んだのは,第一に創造者に誉れを帰し,次に他の人に救いをもたらすためだったのです。また,いわゆる新約聖書中の27冊の本の14冊を書いたのもそのためです。使徒パウロが無私の愛というキリスト教の精神に満たされていたことには少しの疑いもありません!―コリント第二 11:22-33。

歴史家も,無私の愛が確かに初期キリスト教の精神であったということを証明しています。史家C・ブリトン,J・クリストファーおよびR・ウォルフはその共著,「文明の歴史」の中でこう述べています。「クリスチャンは決して自己の救いの見込みのみで満足しなかった。神の御心の受け入れ方は受動的ではなく,最初から,他の人の改宗を願う,熱心な宣教者であった」。またこれらの著者は,キリスト教の「没我的な無私の愛」についてこう付言しています。「まことのクリスチャンの生活の中では,すべての人は一つであり,二次的な群れは一種の分裂であって,悪くすると利己的な自我の寄せ集めである。大切なのは,個人個人が他の人に対するあらゆる種類の個人的な誇り,競争して獲得する成功,自分を引き立て,自我を強める事柄すべてを退けることである……そこには無私の愛の理念があった。そして,キリスト教は,人間の競争心の途方もない高揚を抑制し,独断,残忍性,自慢,誇り,その他,『生まれながらの』人間の性質の表われを押えようと努めた」。クリスチャンは,「自我を押えようとしたにとどまらず,仲間の人すべてにやさしく心を開いた」のです。b ここで次のように問うのは当を得たことではないでしょうか。不可知論者や無神論者はそのような宣教者精神をどれほど表わしてきましたか。また,幾千人ものクリスチャン宣教者が行なってきたように,迷信にとらわれている土着の人々を啓発しようとしてアフリカの奥地や他の異国の地にそれらの論者が自ら赴いていったという話を聞いた人がいったいいるでしょうか。

無私の心を持つエホバとイエス・キリスト

しかしそれ以外に道はありません。どうしてですか。エホバ神とイエス・キリストはともに無私の愛をご自身のうちに体現された方であると聖書が示しているからです。エホバは,初めのない自立自存の神であられ,何ものも必要としません。神には創造の必要もありませんでしたが,完全な無私の愛という動機から万物を創造されたのです。さらに,エホバ神は偉大な無私の心を示されて,反逆のゆえに死の処罰を下したのちにも,人類の最初の夫婦に生き続けることを許され,そして特に,ご自分の愛するひとり子を地に送られ,人間の罪のために死を遂げさせることにより愛を表わされました。心のやさしい使徒ヨハネが書きしるしたとおりです。「神は愛である。神はそのひとり子を世につかわし,彼によってわたしたちを生きるようにして下さった。それによって,わたしたちに対する神の愛が明らかにされたのである。わたしたちが神を愛したのではなく,神がわたしたちを愛して下さって,わたしたちの罪のためにあがないの供え物として,御子をおつかわしになった。ここに愛がある」― ヨハネ第一 4:8-10。

「この父にしてこの子あり」ということわざは,ご自分の天の父に見習って無私の愛を示されたイエス・キリストによくあてはまります。それでイエスは,「わたしを見た者は,父を見たのである」と言い得たのです。つまり,同様の状況の下で御父が行なわれたとおりにご自分も行なわれたからです。イエスは人間として地に来る前に,神のかたちで栄光に輝く存在として天にいられましたが,そのすべてを捨てて地に来られたのです。それは,ご自分の救いのためではなく,「多くの人のあがないとして,自分の命を与え」て,仕えるためでした。―ヨハネ 14:9。マタイ 20:28。ピリピ 2:5-8。

それは確かに使徒パウロも述べたとおりです。「あなたがたは,わたしたちの主イエス・キリストの恵みを知っている。すなわち,主は富んでおられたのに,あなたがたのために貧しくなられた。それは,あなたがたが,彼の貧しさによって富む者になるためである」。枕をするところがないといわれたイエスにはご自分の住まいがなかったのです。しかし,現代のいわゆる信仰治療者の多くがしているように,物質的な利益を得ようと思えば,どれほど富むことができたでしょう!―コリント第二 8:9。ルカ 9:58。

今日はいかがですか

では,今日はいかがですか。真のキリスト教は,19世紀前と同様に,20世紀の最後の時代の今,人々の心の中に無私の愛を鼓舞していますか。確かに鼓舞しています。どんな人々の間にですか。クリスチャンであるエホバの証人の間にです。その組織は,牧師と平信徒という区別のない,すべてのクリスチャンが福音の奉仕者だった初期キリスト教の組織に従って形づくられています。その成員の訓練で強調されているのは,受けるよりも与えること,エホバと隣人に仕えるために自分の時間を費やすこと,自分の資力を与えることです。また,成員の多くは,全時間の野外宣教のわざにも携りますが,このわざそのものは救いつまり永遠の命を得るのに各人に要求されていないことを承知しているのです。

そして各会衆には率先して事を運ぶ「しもべ」がいます。これらのしもべには,会衆の霊的な必要物を備えて世話をする特定の務めがあり,その務めは多くの時間と労力を要するだけでなく,重い責任を伴っています。彼らはいくばくかの手当や賞与を受けますか。いいえ,初期のクリスチャンが受けなかったと同様,何も得ません。みな,愛のゆえに,そして「受けるよりは与える方が,さいわいである」ことを知って,無私の心から神と兄弟たちに仕えます。―使行 20:35。

この原則をよく説明した次のような実例があります。ニューヨークのブルックリンに住むユダヤ人の一青年がかつて招待に応じてある御国会館での集会に出席しました。その集会で証人たちは野外奉仕のための訓練を受け,話の中で,前の月の宣教活動の報告と,達成に向かって努力している奉仕の目標が取り上げられました。

その青年はのちに,エホバの証人であるその友人に尋ねました。「あなたは先月,目標に達しましたか」。証人が,達成できたと述べると,青年は,「目標に達したら,何をもらえるのですか」と問い返しました。証人は,エホバの奉仕をりっぱに果たしたという満足以外には何の賞与も受けないと答えました,彼は再び尋ねます。「もし目標に達しなかったらどうなるのですか。罰を受けるのですか」。「目標に達しなくても,だれも罰を受けません」というのが答えでした。物質的な報酬による動機づけしか知らないその青年にとって,すべては信じられない事ばかりでした。

しかし,これらすべては,当然そうあるべきことなのです。神は愛であり,無私の愛を体現された方である以上,神に対する真の崇拝は,無私の愛を人の心に鼓舞せずにおきません。神の御子もこの地に来られて,完全な模範を示され,神のことばの中には数多くの他のすぐれた模範が記録されています。それで,このような実を生み出すことによって,クリスチャンはエホバ神をあがめ,自分たちが確かにイエス・キリストの弟子であるということを証明できるのです。―ヨハネ 15:8。

[脚注]

a しかし,著者ガンは,同じ収容所に入れられたエホバの証人を激賞し,収容所内の状況のもとでもクリスチャンの高潔な原則を守り得るということを示しています。

b この証拠としては以下の聖句をお読みください。コリント第一 10:33; 13:4-8。ガラテヤ 5:26。ピリピ 2:3,4。

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