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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1968
塔68 6/1 338–343ページ

信仰の仲間に対して善を行なう

「だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか」― ガラテヤ 6:10。

1 善を行なうことは家庭内に限られていますか。

前の記事には,夫,かしらの地位に伴うその責任,家庭において神のことばを実践するときに夫,妻,子供たちが受ける大きな益をとりあげました。クリスチャンにふさわしいと言えるのは善なるものだけです。キリスト教 の創立者またかしらであられるキリスト・イエスの追随者をもって任ずる人は,善を行なうことを家庭の外にまで及ぼさなければなりません。エホバの証人が考慮すべき,そして実行すべき事柄で,家庭の外にまで及ぼすことのできるものは沢山あります。

2 (イ)ガラテヤ人への手紙 6章に示されているように,善を行なう機会はどれほど広範囲にわたっていますか。(ロ)クリスチャンにとってふさわしくまた肝要なことはなんですか。

2 聖書のガラテヤ人への手紙第6章には,他の人とくに信仰を同じくするクリスチャンの仲間,エホバの証人と彼らに交わる人々に善を行なう無限の機会が示されています。ガラテヤ人への手紙のこの章は,愛し合い助け合うクリスチャン同志の間柄と,それに伴って生ずる善行の機会について多くを述べています。ゆえに「善」とはクリスチャンの信仰にふさわしく,適切な事柄であり,神のことばの要求と,キリスト・イエスの手本に従っていることの肝要な証拠です。

3 (イ)どんな重要な事実のために,エホバのしもべにはいま責任がありますか。(ロ)どんな面において動機が関係していますか。

3 ガラテヤ人への手紙第6章の冒頭の6節は,柔和と謙遜をもって助け合い,無私の気持ちで分け合うことについて述べています。ついで7節から次のようにつづいています。「まちがってはいけない,神は侮られるようなかたではない。人は自分のまいたものを,刈り取ることになる。すなわち,自分の肉にまく者は,肉から滅びを刈り取り,霊にまく者は,霊から永遠のいのちを刈り取るであろう」。(ガラテヤ 6:7,8)ゆえにクリスチャンは良いわざをして「まく」機会に恵まれています。大群衆が神の善意を受け,クリスチャン会衆との交わりに導き入れられている今日,この機会は増大する一方です。このことは,正しくまく責任をも含めて多くの責任をエホバのしもべにもたらします。「人は自分のまいたものを,刈り取ることになる」からです。わざがほんとうに良いものであるためには,その背後に正しい動機がなければなりません。8節に述べられているように「肉にまく」ことと,「霊にまく」こととがあるからです。聖書にかなった良い目的,正しい動機でまくクリスチャンは,「永遠のいのちを刈り取」ります。

4 (イ)時代を考える時,「すべての人に」善を行なうことはなぜいま必要ですか。(ロ)「善を行う」ことは,さらにどの程度にまで及びますか。

4 今日の宗教界における出来事や発展に照らしてみる時,今はどの時にもまして良いわざをまく絶好の時です。大ぜいの仲間のクリスチャンとの交わりがある今は,良い時となっています。伝道してすべての人に善を行なう機会があります。しかし兄弟たちと離れておらず,共にいて交わっている今こそ,仲間のクリスチャンを助ける絶好の機会です。「だから,機会のあるごとに,だれに対しても,とくに信仰の仲間に対して,善を行おうではないか」。(ガラテヤ 6:10)それでクリスチャンは伝道して善を行なう機会に恵まれています。しかしガラテヤ人の手紙が「信仰の仲間」を強調しているように,善を行なうことは伝道する以上のことを含みます。

5 善を行なうことの具体的な例をあげる目的を述べなさい。

5 信仰の仲間に善を行なうことの具体的な例をいくつかあげてみましょう。あらゆる方法をここに述べることはできません。そのすべてをあげることは不可能ですが,紙面の許す範囲内で善行の例をいくつかあげるならば,「信仰の仲間」に善を行なうという,ガラテヤ人への手紙第6章10節の要求がどのように多くの面ではたされるかを知ることになります。

6 エホバの証人の共通の目的を説明しなさい。

6 エホバの証人としてわたしたちは,同じ信仰に結ばれた人々と一緒に奉仕し,宣教に携わります。それはクリスチャン会衆を益し,わたしたちや仲間のクリスチャンが伝える,神のことばの音信を聞く他の人々を益するわざです。わたしたちは皆,一つの目的すなわち霊にまき,わたしたちの神エホバに忠実な奉仕と崇拝をささげ,正義の宿る,神の新しい事物の制度における生命の希望を,確かなものにするという目的をもっています。この目的を達成するために,わたしたちは助け合います。この援助の多くはわたしたちが受け,また与える助言あるいは提案の形をとります。それはすべて神のことばに基づき,神権組織の努力と一致したものです。

助言はいつ有益か

7 (イ)助言はいつ有益ですか。(ロ)明白な例を述べなさい。(ハ)わたしたちが与える助言に関して,このことから何が言えますか。

7 だれでも一生の間には助言や提案を受けたことがあります。しかしそれが益となるのはいつですか。それは助言を受け入れてその通りに行なった時であり,益と改善を図って与えられる助言に従った時です。そのように応じないならば,助言や提案も益にはなりません。神権的な助言や提案も同じです。このことから明らかなように,信仰を同じくする人々と一緒に奉仕するとき非常に大切なのは,喜んで聞く気持ちと巧みさです。それがあればわたしたちは助言や提案から益を得,他方わたしたちから提案を受ける他の人々も益を得ます。提案や助言は受け入れられる時に初めて有益なのであって,受け入れられない提案や助言は益になりません。早い話が神権宣教学校で与えられる助言にしても,それは明らかです。宣教学校の助言は,聖書の講演をする資格を身につけるのを助けるため,演壇から話す人の向上を図ってやさしく親切に与えられます。述べられた提案を受け入れて実行する時に進歩が見られます。「御国奉仕」にも提案や助言がのせられます。会衆の監督もその種の提案や助言をします。神のことばはすぐれた助言の宝庫です。信仰の仲間とともに奉仕する時,巧みさがあれば,与える助言は効果をおさめ,助けになります。

8 テモテへの第一の手紙 5章1,2節にはどんな適切な助言がありますか。

8 助言や提案をする時は,たとえ相手が円熟したクリスチャンであり,したがってほんとうならば言われなくても良いはずの人であっても,巧みさを示しなさい。もっと分別があって当然と思われる人に対する時も,思いやり,礼儀,巧みさということを考えれば,家族に対すると同じく会衆の兄弟に対しても,やさしく接するべきです。「老人をとがめてはいけない。むしろ父親に対するように,話してあげなさい。若い男には兄弟に対するように,年とった女には母親に対するように,若い女には,真に純潔な思いをもって,姉妹に対するように,勧告しなさい」。(テモテ第一 5:1,2)このように聖書は相手の気持ちをおもんばかることを教えています。人と接する時には巧みさが必要です。そうでなければ,善をして益を与える目的,助言や提案の場合ならば相手に受け入れられて益になるという目的がはたされません。このすべては兄弟たちの益のためであり,エホバの崇拝を促進するためのものです。

9 (イ)励ましがしばしば必要なのはなぜですか(ロ)慰め,強めることの例をあげなさい。

9 兄弟たちを巧みに励ます機会を求めるべきですか。確かにそうです。励まし合い,慰め合うのはクリスチャンの特権です。エホバ神のしもべであっても失意はめずらしいことではありません。励ますことは多くの場合に必要です。この互いの特権はテサロニケ人への第一の手紙 5章11節に指摘されています。「だから,あなたがたは,今しているように,互に慰め合い,相互の徳を高めなさい」。このようにすれば,慰めと励みを与える人と受ける人の両方が喜びを得,いっそう大きな活動に励まされます。このことをつづけるようにすすめられています。意気消沈した兄弟が監督あるいは他のクリスチャンの目にとまる時,彼らは機会をとらえて話しかけるかもしれません。気落ちしたクリスチャンを励まそうとして二人の間に次のような会話がかわされるかもしれません。

「ご家族の皆さんはお元気と思いますが,あなたご自身はいかがですか」。

「どうもわかりません。ただ意気消沈しているのです。何に対しても熱意を感ずることができません。どうしたのかわからないのです。ただ元気がなくて憂うつです」。

「そうですか。気がふさぐというのは,だれにでもあることです。あなたが話してくださったことを,うれしく思います。元気をなくすのは,めずらしいことではありません。わたし自身も意気沮喪したことがあります。聖書をみても,時に失意した人たとえばペテロやパウロの例が出ているのをご存じでしょう」。

「ええ,知っています」。

「ですからそのように元気がなくなる時,わたしたちにはたいてい問題があります。そして問題があるところには解決策もあります。それで問題はどこにあるかを考えてみましたか」。

「まだじゅうぶんには考えていないと思います」。

「ご一緒に考えさせてください」。

「お願いします」。

「たとえば,家庭では万事順調ですか」。

「それはどういう意味ですか」。

「つまり奥さんとはうまく行っていますか」。

「とてもうまく行っています」。

「それはけっこうなことです。お子さんたちはいかがですか」。

「子供たちにも問題はありません」。

「ご家族は皆元気ですね」。

「ええ,元気です」。

「お仕事の面で何か問題はありませんか」。

「特に変わったことはないようです」。

「と言いますと?」

「ご承知のようにわたしの仕事は季節的なもので,今がいちばん忙しいため残業しています。仕事に追われて他のことをする時間は全くありません」。

「わたしたちの多くは多少ともそんな状態です。長い時間働いてつかれるということは確かに問題です。つかれると落胆しやすく,心も乱されがちで神経質になります。しかしさっきも言いましたが,問題には解決策があります。わたしたちが落胆している時,特に力となる聖句を覚えていらっしゃるでしょう。それは詩篇 55篇22節です。『なんぢの荷をエホバにゆだねよ さらば汝をさゝへたまはん たゞしき人のうごかさるゝことを常にゆるしたまふまじ』。この聖句は今あなたに助けとなるでしょう?」

「自分の荷をエホバにゆだねよ,そうすればエホバは支えてくださるとありますね」。

「そうです。どのようにエホバにゆだねることができるでしょうか」。

「祈りによって?」

「そうです。そして正しい者は動かされることがないとあります。動かされるとはどういう意味ですか」。

「倒れる,まあ,つまり今のわたしのような心の状態でしょうね」。

「あなたの場合には,それはどんな状態ですか」。

「気落ちして元気をなくしているだけだと思います」。

「そうです」。

「よくわかりました。この聖句はわたしの場合にぴったりです。それを教えていただいて感謝しています」。

「わたしもこの聖句からいつも益を受けています。荷をエホバに委ねよとあり,それはあなたも言われたとおり,祈ることですから,いま祈りによってエホバの助けを求め,またエホバへの感謝を表わしたいと思いますが」。

「ええ,是非」。

こうして訪問した兄弟が,相手と自分のためにエホバに祈って二人は祈りに和します。問題に悩まされていた人はこの祈りに一致して,また問題の理解に照らして事態を調整し,自分の計画を変更して問題の解決に真に努力しなければなりません。いま述べた事柄が参考になる場合があると思います。

10 励ますことから良い結果が得られた実際の例を述べなさい。

10 1966年にアメリカの一会衆の経験した事柄が,油そそがれた残れる者のひとりによって次のように報告されています。

「わたしたちの会衆は30パーセントの増加をみました。おもにそれは収穫のわざにふたたび携わるように活気をとりもどした人々に由来しています。霊的に励まし,強めるための訪問が行なわれました。一つの例をあげれば,3年間不活発だった姉妹は監督にこう語っています。『真理にふたたびもどることは難しいようです。もうこんなに長い間はなれているので奉仕や集会にとても行けません』。彼女は重病の母が死ぬまで長いあいだ看病しているうちに,霊的に弱くなり不活発になったのです。しかし彼女は次のように言われて励まされました。すなわち彼女は真理から離れていたのではなく,クリスチャンに肝要な善行と愛によって宣教の一面をはたしたのであり,その愛の行ないはエホバにおぼえられています。刑務所内の兄弟たちは集会や野外奉仕に参加できませんが,それでも真理の外にいたわけではありません。彼女はこの見方を教えられて大きく励まされました。彼女は定期的に奉仕しており,集会に出席しています。このような喜ばしい経験は,兄弟に親切を示すようにとの励みになっています」。

物質の贈り物

11 物質の面で善を行なうことができますか。

11 物質の面における善行も霊的な益となり祝福となります。そのことはガラテヤ人への手紙 6章10節に示されています。それは物質の面において兄弟たちとわかちあうことです。豊かに与えることは神に対する愛の表われでもあります。ヨハネの第一の手紙 3章13節から18節に照らしてみる時,そのことに疑いはありません。17節は次のように述べています。「世の富を持っていながら,兄弟が困っているのを見て,あわれみの心を閉じる者には,どうして神の愛が,彼のうちにあろうか」。18節はこれを裏づけ,さらに動機にふれています。「子たちよ。わたしたちは言葉や口先だけで愛するのではなく,行いと真実とをもって愛し合おうではないか」。行ないとことばが対照されていることからわかるように,惜しみなく与えることは,理論ではなくてキリスト教を実践することです。

12 (イ)だれに対して物質的な恩恵を示すことができますか。(ロ)クリスチャンはどの“日”に物質的な面で恵みを施しますか。(ハ)何に対して感謝を表わすのは正しいですか。

12 惜しみなく与えることは,だれに対してするべきですか。すべての兄弟に対してです。物惜しみをしない兄弟の愛を受けるのは物に乏しい人にとどまらずすべての人であり,またそうでなければなりません。ふつうには世の休日等に関連して贈り物をする習慣がありますが,そこには往々にして競争心が入り込み,贈り物のくらべ合いが行なわれます。しかし真のクリスチャンは特定の時期を待って贈り物をするのではありません。贈り物は忠実な奉仕に対する感謝の表われとして,ふさわしい人たとえば年老いた人に対していつでもすることができます。それは夫婦間の愛の表現にとどまらず,子供に対する愛情,また敬虔な原則に従って生活することを子供に教え,訓練している両親に対する愛情の表現にまで延長できます。また世話になったり,恩恵をこうむったりした,あるいは神権的に益を受けた兄弟に対しても,そのような形で感謝を表わすことができます。真のクリスチャンにとって「母の日」,「父の日」,クリスマス,復活祭などこの世の祭日は必要ありません。これらの時節に愛の動機から誠実に与える人もいます。しかしクリスチャンは,異教の起源を持つ祭日と結びつくような与え方によってそれが汚されたものになることを避けます。たとえば開拓者の忠実な奉仕など,いろいろな事柄に対する感謝の表現として愛のこもった贈り物をできます。受ける人は祝福され,与える人はなお祝福されます。すべてが益を受け,信仰を強められ,老若の別なく益を得ます。「神よ,わたしが年老いて,しらがとなるとも,あなたの力をきたらんとするすべての代に宣べ伝えるまで,わたしを見捨てないでください」。(詩 71:18)愛される兄弟に惜しみなく与えることは,愛の絆によってすべての人を結びつけるのに役だちます。

親しく訪問する

13 親しく訪問することはどのように善となりますか。

13 いくつか前の節では,励ますために訪問した兄弟と訪問を受けた兄弟との間にかわされた会話をみました。信仰の仲間を訪問することは,クリスチャンの兄弟に善を行なうことの一つです。積極的な関心を払ってそのように訪問することがすすめられています。家族の中に病人が出た場合,あるいは前述の例のように気落ちしている場合など,その必要の生じている時,とくに訪問しなければなりません。イエスは,マタイの福音書 25章35節から40節において象徴的な羊とやぎの話の中でこの原則を用いられました。「あなたがたは…わたしが獄にいたときに尋ねてくれた」。信仰の仲間を訪問することは,訪問すること自体,またそれによって表わされた親切な関心,与えることのできる励ましにより,あるいは子供の世話を助けること,家事の手伝い,食事の仕度など多くの面における実際の援助によって有用なものとなります。兄弟たちを訪問することは責任上やむなく必要であるという考えからではなく,互いに対する愛の自然の表現でなければなりません。この基礎の上に立つ時,集会あるいは奉仕に姿を見せない時にだけ,兄弟を訪問するという考えを持つことはありません。クリスチャンの交わりは培うべきものであって,訪問する人にとっても訪問される人にとっても互いに大きな霊的な益となります。「わたしは,あなたがたに会うことを熱望している。あなたがたに霊の賜物を幾分でも分け与えて,力づけたいからである。それは,あなたがたの中にいて,あなたがたとわたしとのお互の信仰によって,共に励まし合うためにほかならない」― ローマ 1:11,12。

14 今までに述べたクリスチャン生活のいろいろな面を要約しなさい。

14 信仰の仲間に善を行なうことの例として,わたしたちにできる幾つかのこと,たとえば巧みさをもってともに奉仕すること,良いわざをつづけるように励ますこと,物質の面でわかち合うこと,互いの霊的な益をはかって訪問することなどについて述べました。このことをする時,わたしたちは神から祝福されるでしょう。会衆はこのような善行によって建て起こされ,強められるからです。兄弟たちが巧みさを示し,励まし合い,惜しみなく与える時,そして時間をとって訪問する時,一致と愛の絆は強まります。これらのことはすべて生活の一部であり,とくにクリスチャンの生活すなわち神と人とを愛する生活の一部です。

15 生活におけるこれらの善行の結果を要約しなさい。

15 このような善行はエホバの祝福を得てすばらしい成果をもたらします。それは平和,力,慰めという祝福です。使徒行伝 9章31節はこの点を明らかにしています。「こうして教会は,ユダヤ,ガリラヤ,サマリヤ全地方にわたって平安を保ち,基礎がかたまり,〔エホバ〕をおそれ聖霊にはげまされて歩み,次第に信徒の数を増して行った」。〔新世訳〕平安は義の上に建てられ,エホバからこの祝福をもたらします。それによって会衆とその成員は,すべての人,外部の人に対して善を行なう,いっそう良い立場に立つことができます。信仰の仲間に善を行なうことからは,なんと良い結果が生まれるではありませんか。

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