ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔69 7/15 446–447ページ
  • 読者からの質問

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 読者からの質問
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
  • 関連する記事
  • 登録
    聖書に対する洞察,第2巻
  • ヨアブ
    聖書に対する洞察,第2巻
  • 聖書の10番目の書 ― サムエル記第二
    『聖書全体は神の霊感を受けたもので,有益です』
  • 人口調査
    聖書に対する洞察,第1巻
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1969
塔69 7/15 446–447ページ

読者からの質問

● ローマ人の兵卒がキリストのわきを槍でついた時にイエスは,すでに死んでおられましたか。―象牙海岸の一読者より。

そうです。ヨハネ伝 19章31-37節の記録は,その兵卒がイエスをつき刺す以前にイエスが死んでおられたことを明らかにしています。

モーセの律法によると,処刑された罪人は夜どおし刑柱にかけられるのではなく,神の律法を無視して土地を汚すことのないように,その日のうちに埋められなければなりませんでした。(申命 21:22,23)もしイエスやイエスのかたわらの罪人たちが刑柱の上でいつまでも生きていたならば,時はすでに日暮近かったので,彼らは日没に始まる安息日ののちにも刑柱の上にとどまったにちがいありません。このことを避けるため,ユダヤ人は3人の足を折ってしまうように頼みました。

1966年10月21日号「メディカル・ワールド・ニューズ」誌に発表されたように,フランスの研究者であるジャック・ブレハン博士は,この理由についてつぎのように述べています。「クラリフラギウム(crurifragium)すなわちはりつけにされた者の足を折ることによって,息をふき返らせることがないようにした。……ユダヤ人は3人の罪人の足を折って,彼らを刑柱からはずすように頼んだ。それで兵卒たちは盗人たちの足を折った。しかしイエスのところに来た時,兵卒たちはイエスがすでに死んでいるのを見た」。ブレハン博士は,なぜイエスだけが死なれたかに関して,起こり得る二つの理由を上げています。(1)「盗人たちはくぎづけにされるよりもむしろ縛りつけられていたのかもしれない」。(2)「キリストは[刑柱につけられる]以前の扱いにより,相当衰弱していた」。

イエスが生きておられたならば,兵卒たちは彼の足をも折ったことでしょう。しかしそうではありません。聖書は次のように述べています。「しかして[兵卒ども]イエスに来りしに,はや死にたまふを見て,その脛ををらず。しかるに一人の兵卒,鎗にてその脅をつきたれば,たゞちに血と水と流れいづ」― ヨハネ 19:33,34。

ヨハネの記述は確かにはっきりしていますが,マタイ伝 27章49,50節を読む場合,最初にかかげたような疑問が起こるにちがいありません。そこには次のようにしるされています。「しかしほかの者たちは言った『そのまゝにしておけ。エリヤが彼を救いに来るかどうかを見よう』。もうひとりの男はやりを取り,イエスのわきを突き刺した。すると,血と水が流れ出た。イエスは再び大声で叫び,それから息が絶えた」。(新)問題となるのは,傍線を付した箇所です。ある人はここを読んで,イエスはつきさされた時生きておられたと考えるかもしれません。

フランス語や英語の「エルサレム聖書」,ドイッ語の「エルバーフェルダー」や「アッシャフェンブルガー」またスペイン語の「モデルナ」や「バレーラ」,「ナカール・コルンガ」を含む多くの聖書翻訳は傍線を付した文を省略しています。他の翻訳はそれらの言葉を含みますが,カッコにいれるとか,脚注を付して説明しています。たとえば,シナイ写本とかバチカン1209などの幾つかの重要な写本の中にはその文が入れられているが他のものにはないと「新世界訳聖書」初版の脚注にはあります。かなりの数の学者は一人の写本家がヨハネ伝 19章34節にある言葉を誤ってマタイ伝 27章49節に入れたと考えています。

「新世界訳聖書」のギリシア語聖書の部分は,主としてウェストコットとホートの訳によるすぐれた本文に基づいています。重視されているすぐれたこの本文は,マタイ伝 27章49節で,例の文を本文中に入れていますが,それに二重の角カッコを付しています。その理由として,この文が「写本家によって取り入れられたと思われる点がかなり強い」と述べています。事によると将来,マタイ伝 27章49節に関する写本の証拠がもっと得られるかもしれません。

いずれにしても,イエスがやりでさされた時すでに死んでおられたことは,ヨハネ伝 19章31-37節のはっきりした説明から明らかです。それでマタイ伝の記述はこのことを考慮に入れて理解されねばなりません。マタイはイエスがわきをやりでさされた時がいつであったかもはっきり述べておらず,イエスが刑柱につけられた時に起こったできごとの一つとして簡単に記録しています。しかしヨハネの記述は,時を明確に示しています。このことから考えると,マタイの記述を理解する場合,ヨハネの記録を考慮に入れて理解しなければならないことになります。そうするならば実際に矛盾はありません。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする