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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 4/15 245–250ページ

耐え忍びつつエホバを待ち望む

ジョージ・E・ハナンの経験

47年間というと長く感じられますか。ものみの塔協会のブルックリン本部で過ごした47年間を振り返ってみますと,その歳月がまたたくまに過ぎ去ったように感じます。ほんとうに祝福と特権に満ちあふれた年月でした。エホバが導いておられることは,いつでも明らかでした。困難な時期もありました。しかしエホバの組織にかたく従い,エホバの導きを待ち望むことから得られる真の安心感に比べれば,それはなんでもないことでした。

わたしの経験を振り返るに際して,神の国のための全時間奉仕に一生をささげる道を開いた,いとぐちというようなものが心に浮かびます。聖書の音信が明確な意味をもって,農場のわたしたちの家に最初に伝えられたのは,わたしがまだほんの少年だったときのことです。その当時わたしは教会に定期的に通い,日曜学校に出席していました。しかし,母が「ものみの塔」誌を購読していたためでしょうか,日曜学校に出席することは時間の浪費のように思えてなりませんでした。新しい号の「ものみの塔」誌が郵便で配達されると,母がその内容にざっと目を通した後,少なくとも一つの短い記事を読み終えるまで,家のまわりではなにもしてはいけないことになっていました。母はまだ教会に通っていましたが,日曜日の朝教会から帰ってくると,聞いてきた説教について不平を言ったものです。

その当時,わたしたちの家族の話題に何度も上ったのは,1914年が何を意味するかということでした。聖書によると,その年に「異邦人の時」が終わりを告げることになっていました。(ルカ 21:24)しかし,なにが起ころうとしていたのでしょうか。「1914年は遠い先のことではないから,待っていればわかるだろう」,とわたしは考えていました。

確かな証拠

1914年がやってきました。その年の初めに「創造の写真劇」の第1回目の上映がなされました。それは聖書の真実の物語をスクリーンに描き出すために,ものみの塔協会が製作したもので,人々に深い感銘を与えました。わたしの生まれ故郷,ニュージャージー州ブリッジトンで一番広い映画館は,その上映ごとに満員でした。わたしは案内役をしていましたので,無料の聖書文書,それにイエス・キリストに従う平和愛好者となることを望んでいるしるしとして「パックス(平和)」と呼ばれる記章や小さいバッジを,映画館を去る観覧者に渡す仕事を与えられました。

そうするうちにその年の夏,突然,第一次世界大戦がぼっ発しました。わたしは大きな衝撃を受けました。聖書預言を軽々しく扱ってはならないことをそのとき知らされたのです。それは,わたしが高校1年生になってまもなくのことでした。わたしは農業が自分に向かないと感じたので,その代わりに大学に行って電気工学を勉強することに決心し,祖母が残してくれた少しの遺産を使って,大学進学のための通信教育を受けていました。

1916年デラウェア州ウイルミントンで,当時のものみの塔協会の会長パスター・ラッセルは,「死人はどこにいますか」と題する講演を行ないました。講演者は話の途中で何度か演壇を去り,そのたびに秘書が合い間をつながねばなりませんでした。講演者が衰弱していたために,こういう方法がとられたのです。わたしたちはこのことを後になって知りました。しかしその講演からわたしは深い感銘を受けました。わたしはその講演をけっして忘れることができません。

同じ年,パスター・ラッセルの死後,「聖書研究」第7巻が出版されました。「完成された奥義」という表題を持つその本はわたしの興味を強くそそりました。それまでにその本ほど速く読み通した本は1冊もありません。わたしの思いは大きく動かされ,他の6巻も読む気になりました。

試練に耐える

1918年は騒然とした年になりました。アメリカ合衆国は戦争に巻き込まれ,ものみの塔協会本部の役員は偽りの告発を受けて投獄されました。そうした情況の下で,当時,聖書研究生として知られていたエホバの証人は四方から猛烈な反対を受けました。それは神の民にとって重大な試練の年でした。耐え忍ぶことができるだろうか。それとも,聖書教育のわざは従労に終わってしまうのだろうか。エホバを待ち望み,そのいつくしみにたよる以外,わたしたちにいったいなにができたでしょうか。

1918年の春,わたしたちの疑問に対する明白な答えともなるようなことが起こりました。「世は終われり,現在生存する万民は決して死する事なし!」と題する公開講演が発表され,広く宣伝されたのです。この講演は各地で行なわれ,その全文を印刷した小冊子を通して,アメリカ全土はもとより,世界の他の国々にまで伝えられました。実を言うと,その印刷物こそ,わたしが人々からわずかの寄付を受け取って配布する特権にあずかった最初の文書でした。当時,神の民の組織に何百万もの人々が集められるとは考えられないと言う人もいました。しかし,わたしはいつも次の聖句を思いめぐらしました。「神はすべての事をなし得るなり」。(マタイ 19:26)働こう,そしてどうなるかわかるまで待てばよいのだ,とわたしは考えました。

わたしが召集を受けたのはそのころでした。農業経営者の資格で兵役を免除されたかもしれませんが,わたしの家族では兄がすでにその理由で兵役を免除されていました。そうかといって,わたしは非戦闘員としての任務を引き受けることにも同意できませんでした。政府の役人に逮捕されたらどうするのかと,わたしのことを心配する友人や隣人もいました。わたしはいつも,「どうなるか,待っていれば,わかります」と答えたものです。徴兵審査委員会もまったく同じ態度を取っていたらしく,わたしに対して徴兵猶予の決定をしました。戦争は1918年11月11日,突然終わりを告げました。

重大な決定を下す

若い人が将来に対して,輝かしい計画をたてるのは当然なことでしょう。わたしも例外ではありませんでした。電気技師として生きる道を考えるほかに,家族で三重奏団を編成しようという計画もありました。しかし,聖書研究を通して多くのことを学ぶにつれ,また聖書研究生と集会で交われば交わるほど,重大な決定を迫られました。自分の人生をどうするのか,という問題が大きくのしかかってきました。近くのガラス工場で働こうか,電気技師になるために何年もの教育を受けようか,それとも御国の伝道のわざにもっと多くの時間を費やすべきだろうか。

わたしはまもなく次のような決心をしました。近くの会衆の全部の集会に出席する,「聖書研究」の7巻全部を研究する,そして当時の奉仕活動すべてに参加する。その他の目標や野望はわたしの心から消えていきました。今は,自分が神の是認と命を望んでいることを真剣に行動で表わすべきときであるということをわたしは確信しました。

1921年,「ものみの塔」誌は,5月19日から22日までニューヨーク,ブルックリン,ハーキマー通りのキズメット・テンプルで,四日間の大会が開かれるという発表を載せました。わたしはその大会に出席して,献身を表わす浸礼を受けました。バプテスマはC・A・ワイズが施し,コロンビア・ハイツ124番地にあるベテルの食堂の下のプールがそのために使用されました。翌年の春,今度はフィラデルフィアで行なわれた大会に出席しました。私用の欽定訳聖書を購入したのはその時でした。その聖書は製本し直しましたが,今も手もとに置いて使っています。表紙の裏に書かれたそのときの大会の日付けはまだ消えないで残っています。

その年の秋,わたしの兄,ビルはフロリダで冬を過ごす計画をたてていました。しかしフロリダに旅立つ前に,ブルックリンの本部で働くよう協会から招待を受けました。もちろんビルはその招待を受諾し,わたしが彼を駅まで自動車で送ることになりました。途中,車を運転するわたしの脳裏にはさまざまの考えが去来しました。『ぼくはいったいなにをするつもりなのだ。どうして全時間奉仕を始めないんだ』。ビルは自動車を降りると,わたしのほうに振り向き,「自動車はおまえにあげるよ」と言いました。そのとき兄は気づきませんでしたが,彼のことばでわたしの心は決まりました。わたしも行動を起こそうと思い立ったのです。

その日の夕方,わたしは車で質屋に行き,スーツケース2個と伝道用のかばんを求めました。そして家に帰って荷造りをしました。翌朝わたしが車に荷物を積んでいるとき,母が出てきました。すっかり動揺して涙さえ浮かべていました。母はいろいろ話をしましたが,次のように言いました。「1925年にたいへんなことが起こるっていうお友だちもいるけど,期待し過ぎないようにね」。わたしは母に答えました。「おかあさん,心配しないでください。わたしは努力してみます。そしてどうなるか待つだけです」。ハバクク書 2章3節の聖句をよく思いめぐらしました。

野外奉仕に耐え忍ぶ

わたしは車で町に行き,おばの管理している下宿屋に寝泊まりすることにしました。それ以来わたしは聖書領布者つまり全時間の福音伝道者になりました。この事物の体制につきまとう多くの問題やわずらいから解放されて,御国の音信を広めるわざに全時間を自由に費やすことができるのは喜びでした。もちろん,ほかにもしなければならないことや,ちょっとした問題がなかったわけではありません。たとえば,わたしの車はフォードT型で,バッテリーがついていませんでした。モーターのはずみ車の中に組み込まれた磁石発電機から,電気を得なければなりませんでした。冬,エンジンをかけるため手でクランクをまわそうものなら,腕の折れる危険さえありました。そのため,夜になると坂の上に車を駐車させておいて,翌朝,坂を下るはずみでエンジンが始動できるようにしたりしました。

もう一つの問題は生活費でした。わたしの食費は1週間4ドル(1,440円)かかりました。1日1回は,あたたかい食事をとれましたが,ほかの2食は,文書と引き替えに得た乾燥したくだものか,少しの野菜ですませました。お金がなくなったらどうするのかと尋ねる人には,「エホバがめんどうを見てくださいますから,心配する必要はありません」と答えたものです。残りのお金が50ドルしかなくなったとき,全時間奉仕をやめた人がいると聞いたことがありますが,わたしは,50ドルでも,いや10ドルでも,あるいは1ドル(360円)でもあるかぎり,エホバが援助の手を差し伸べる必要がどこにあるだろうかと考えました。高級な生活をするための費用ではなく,必要な生活費であれば,たとえ高くついてもやっていけるようにエホバが援助してくださるということをわたしは確信していました。

1922年11月5日,わたしの属していた会衆は市の兵器庫を借りて特別公開講演を開きました。ビラを利用して行き届いた宣伝がなされ,ニューヨーク市ブルックリンから講演者がきて話をしました。講演終了後,はじめて出席した聴衆数人から多くの質問を受けたため,講演者はたった1本しかないブルックリン行きの夜行列車に乗り遅れてしまいました。わたしはアトランチックシチー線の駅まで,彼を車で送ることにしました。しかし,それがどんな結果になるかは,わたしのまったく予想もしないことでした。わたしたちの会衆を訪問したその講演者は自動車の中で,わたし個人のことについて尋ねました。それからかれは,わたしが協会のブルックリン本部のベテルにきて働く気持ちはないかと質問しました。そうしたいと思う気持ちはやまやまですが,事務の仕事についてはなにも知らない,とわたしは答えました。それはさしつかえない,協会は自分たちの手で全部の印刷を始める計画だから,ありとあらゆる働き手が必要である,と彼は話しました。それにしても,工場の仕事についてなにか知っているわけでもない,と彼に知らせました。

汽車が駅にはいってきたとき,講演者は,「お願いがあるんですが」とわたしのほうに向いて言いました。わたしは,どうぞ,と答えました。「それでは,さっそくブルックリンに手紙を書いて,ベテル奉仕の申込書をもらってくださいませんか」。そうします,とわたしは彼に約束しました。表情には表わさなかったことと思いますが,内心わたしはほんとうに興奮していました。下宿先に帰る道すがら,わたしの古い車がたいへんおそく感じられたほどです。その夜のうちに手紙を書いたわたしは,わざわざ郵便局まで出かけて行って,その手紙を投かんしました。

返事はすぐきました。11月10日,翌日からブルックリンで働くようにとの電報を受け取りました。わたしがニューヨークに着いたとき,町では鐘や汽笛が鳴り響き,銃声がとどろき,通りは行列でにぎわっていました。ニューヨーク市民は休戦記念日を祝っていたのです。その日は11月11日でした。しかし,わたしにはもっとうれしいことがありました。わたしはまったく新しい生活に乗り出したのです。それはここベテルにおける,少なくとも47年間に及ぶ奉仕の生活の始まりを画するものでした。

すぐれた日程のもとで仕事に耐え忍ぶ

ベルの音とともに起床,食事,仕事をし,ベルが鳴ると終業こうした日程の新しい生活にはいったのです。そういう生活がきびし過ぎる,また堅苦し過ぎると感じる人も少しはいました。しかしわたしはそういう生活が大好きでした。これこそ明らかに,貴重な時間の浪費をなくす生活の仕方でした。わたしの最初の仕事は装丁のいたんだ本を直すことでした。その仕事を二,三日した後,わたしは労働組合員が「鋳造工場」と呼ぶ部門で働くように割り当てられました。そこでは,輪転機にかけられるすべての印刷用鉛版が鋳造されていました。

わたしは今に至るまでずっと同じ部門で働いています。ベテルにきた人のなかには,仕事の割り当てがすぐに変わらないというだけの理由で,自分は見過ごされているとか,無視されているとか,あるいは落ち着かないと感ずる人さえいます。幸いなことに,わたしは一度もそのように感じませんでした。仕事が与えられるなら,たとえそれがどんな仕事であろうと,楽しいことでした。そして,与えられた仕事に全力を尽くし,たえず仕事の質を改善するように心がけるべきだ,とわたしは思いました。

当時のニューヨークには,聖書研究生の会衆が一つしかありませんでした。わたしは自動車を持っていましたから,週末には,少し離れたロングアイランドの区域で伝道するように誘いを受け,自動車に人を押し込んでは伝道に行きました。いつも準備をして,熱心にわたしたちの群れに加わってくれたのは,わたしのクリスチャン兄弟の一人であるN・H・ノアでした。その後,放送局の建築のため,さらに多くの働き人が必要となったとき,ロングアイランドでの伝道はできなくなりました。わたしは,自分の車でしばしば建設敷地であるスターテン島に出向きました。用事がすむと,新しい放送局の近辺を戸別伝道したものです。

忍耐に対する報い

ベテルで耐え忍びつつ今日まで働いてきた間に,わたしたちは何度も何度も心の踊る経験をしてきました。世界ぢゅうの野外でわざが拡大するにつれ,わたしたちの施設は拡大が必要となりました。ブルックリンのコンコード通り18番地にあった工場はまもなくまにあわなくなりました。そのときから,工場の相重なる新築,さらにベテルの家の数回にわたる新設さえ行なわれました。市の4区画をわたしたちの印刷工場と発送施設が占め,さらに3区画の主要部分がベテルの家と事務所で占められているのです。まったく思いもよらないことでした。それらの一つ一つはわたしたちにとって驚くべきことばかりでした。

ご自分の民に対するエホバの祝福や恵みの証拠となるそうした事柄を,まのあたりに目撃し,またそれに実際にあずかれるというのは,なんという喜びだったでしょう。過去何年かに,次のような増加を経験したのもわたしの特権といえます。大型輪転機は2台から27台にふえ,「ものみの塔」誌の各号の発行部数は,3万5,000から今や総計600万部という驚くべき数になりました。また,ニューヨーク市の会衆の数が,一つから191にふえたことからも,なんと信仰を強められたことでしょう。エホバを待ち望んで,わざに励むのは,報いのあることでした。

エホバに導きを求める

1930年代は騒然とした時期になりました。証人が逮捕されはじめたのです。わたしはロングアイランドで戸別訪問に携わり,聖書文書を配布していたとき逮捕されました。また1936年にはペンシルバニア州アレンタウンで逮捕され,数時間拘留されました。第二次世界大戦が近づくにつれて,事態はますます危険になってきました。1939年,マジソン・スクエア・ガーデンで行なわれたわたしたちの平和な集会を,カトリック行動派の一グループが解散させようとしました。そのときわたしはたまたま会場整理の責任者でした。数分間,事態はたいへん険悪に見えました。しかし,集会はしばらく中断されただけですみその事件が,新聞に報道されたため,大々的な証言がなされる結果になりました。

そうした困難な時期にあっても,御国の証言のわざは進行し,その足並みが乱されることは一度もありませんでした。わたしたちはエホバにより頼み,引き続き前進しました。戦争のためいろいろな物資が不足しましたが,その問題もなんとか回避したり,克服したりすることができました。わたしはニッケル板の在庫を確保する責任を持っていました。ニッケルは印刷機の回転に長時間耐えられるように,印刷用鉛版の表面を硬化するのに使用されます。戦争による興奮状態が高まってきたとき,わたしたちは直ちにニッケルの延棒1トンを注文しました。その後ある日,わたしたちに好意を持っているひとりの実業家から電話があり,アメリカは今にも戦争に突入しそうだから,必要な金属品は即刻入手するようにと忠告してくれました。そこでもう1トンのニッケルが注文され,その注文品の荷がわたしたちの工場でおろされている際中に,アメリカ政府はニッケルの引き渡しをすべて停止し,ニッケルを最重要品目リストに載せました。しかし,わたしたちの手元には十分のニッケルがあったので,終戦まで不自由しませんでした。

失望することはない

自分の務めを果たしつつエホバに忍耐強く仕える者をエホバはけっして失望させません。たとえば,ベテルで奉仕すると,旅行したり,どこかに行ったりすることはほとんどできなくなるのではないか,と考えた人もいます。その考えはまったくまちがっています。旅行の機会は多くなります。

ベテルで奉仕をしている間,わたしはハワイとアラスカを除くアメリカ合衆国のすべての州,それにカナダの全州を訪問し,休暇もとりましたし,大会にも出席しました。さらに,ヨーロッパにも3度旅行することができました。そうした旅行や多くの国々の仲間の証人に会うことは励みとなり,ここベテルで成し遂げられねばならない仕事に携わっているということが,いよいよ楽しみになりました。その仕事とは,増大する熱心な証人の大軍に,彼らが宣教に必要とする文書を供給することにほかなりません。

すべての国の多くの民と同様,単にエホバがなにかをなさるのを待ち望むだけが重要なのではありません。それ以上のことが必要です。神のことばである聖書は,「耐忍びて善をおこない光栄と尊貴と朽ちざる事とを求むる者」に,すばらしい報いを約束しています。(ロマ 2:7)その待ち望んでいる期間を,エホバに対するわたしたちの愛を実証するわざで満たすのは,なんと満足すべきことではありませんか。

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