ものみの塔 オンライン・ライブラリー
ものみの塔
オンライン・ライブラリー
日本語
  • 聖書
  • 出版物
  • 集会
  • 塔70 5/15 297–303ページ
  • 神のみことばの忠節な擁護者

視聴できるビデオはありません。

申し訳ありません,ビデオをロード中にエラーが発生しました。

  • 神のみことばの忠節な擁護者
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
  • 副見出し
  • 関連する記事
  • ほんとうに「神のことば」
  • 神からの交信の証拠
  • 『忠節をもって神聖な奉仕を行なう』
  • 読者からの質問
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
  • 聖書 ― 人間が書いたとはいえ,神からの音信を収めた書物
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
  • 聖書 ― エホバの証者による本
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1960
  • 聖書 ― 人間に対する創造者からの導き
    エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
もっと見る
エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1970
塔70 5/15 297–303ページ

神のみことばの忠節な擁護者

「神のことばを受けた時,あなたがたはそれを,人間のことばとしてではなく,真にそのとおりであるが,神のことばとして受け入れた…… この神のことばはまた,信ずるあなたがたのうちに働いている」― テサロニケ前 2:13,新。

1,2 あるオリエント学者は,聖書を他の聖なる書物から区別するどんな特質を指摘していますか。

地上のいろいろな場所に住む人たちが,聖なる書物と見なすものは数多くあります。しかし,聖書の特質を調べると,聖書が他のいずれの書物とも異類のものであることがわかります。

2 その特質のひとつに関してオリエント学者ジョージ・ローリンソンはこう述べています。「キリスト教が……世界の他の宗教に比べて特に傑出しているのは,その客観性と史実性である。ギリシアやローマ,エジプト,インド,ペルシアそして東洋各地の宗教は,概してめい想的なものであり,歴史的な根拠を真剣に要求することさえしなかった。……聖書の宗教の場合はそうではない。そこには……教理の組み立てが事実と結びついている。それは事実の上に立ち,背景となる事実を除けば,それは成り立たない。それで,受け入れる価値のあることが示されるならば,その教理はすでに確立されたものと見てよいであろう」。a

3 聖書の中に収録されている歴史上の事実を幾つかあげなさい。

3 証拠を調べると,聖書の記録は実在した人々や場所を取り扱っていることがわかります。それは重要なできごとの起きた時,ならびに,その時代に存在していた他国の支配者の中で,同時代に属する人々の名を明記しています。(列王下 25:8,9。ルカ 3:1,2)聖書は注意深くせんさくされても,その真価を失いません。聖書の詩篇作者がエホバ神に語ったように,「あなたのみことばの実質は真実です」― 詩 119:160,新。

4 聖書が預言の書物であるという事実にはどんな意義がありますか。

4 しかし,歴史上の正確さよりさらに顕著な事実は,聖書が預言の書物であるということです。この点で聖書はきわだっており,他のいずれの聖なる書物とも異なっています。その預言は,将来についてただ思いつくままを書き連ねたのではありません。聖書は,その最初の本である創世記から最後の本である黙示録に至るまで,将来のできごとに関する宣言で満ちています。―創世 3:15。ダニエル 4:17。黙示 21:1-5。

5 (イ)聖書の預言が最初に語られた時代に生きていた人々は,それが神からのものであることを知っていましたか。(ロ)聖書の預言はどのようにわたしたちの助けとなりますか。

5 それら預言の多くは,それを最初に聞いた人たちが生きている間に成就しました。したがって,そのとき生きていた人は,預言が単に人間から出たものではないことを,身をもって知りました。(創世 18:9-11; 21:1-3。エレミヤ 28:15-17)しかし,聖書預言が取り上げたことは,遠い過去のできごとに関するものばかりではありません。20世紀の今日になにが起こるかをも予告していました。聖書の最後の部分は西暦1世紀の末に書かれたものですが,今日の人類社会をゆさぶる混乱を鮮明に描写していました。さらに,そうしたできごとが,現在の事物の体制の「終わりの日」,および神の御国の建てられた時をしるしづけるものであることを明らかにしていました。(ルカ 21:24-31。黙示 6:1-8)神の目的の成就という点から見て,わたしたちはどこにいるのか,さらにわたしたちの取るべき賢明な道は何かを示しつつ,聖書はわたしたち個人個人が必要とする導きを与えています。

6 聖書の記述者の態度が信頼できるのは,どんなことによりますか。例をあげなさい。

6 聖書の記録が信頼できるものであることの別の理由は,記述者の持つ紛れもない謙遜さと正直さです。自分たちのなかのおもだった人々を実際以上に正しく見せかけるため,事実を偽って良く見せたりするようなことはしていません。彼らは自分の弱点や欠点を隠さず,あからさまに認めています。(出エジプト 4:10-14。マタイ 26:31-56)イエスの弟子たちは,当時の宗教指導者によって,「無学のただびと」としてさげすまれたことを認めています。(使行 4:13)聖書の記述者は,神がご自分の民にもたらした解放ばかりでなく,神が彼らに対して不興を表明された時のことについても率直にしるしています。(歴代下 12:1-9; 20:14-26)正直さ,高い理想,純粋な動機,そして知的な説得力がこのように明白に見られるため,真理を愛する人は聖書に引きつけられるのです。

7 聖書が,注意を払って真剣に読むべき書物であることは説明を要しません。それには,ほかのどんな理由があるからですか。

7 ほかに答えようのない問題の答えを,この聖書の中に見いだすことができます。宇宙や,人間の住むこの地球という惑星の起源・人類の発祥・人類がさまざまな問題や病気と死に悩まされている理由,こうした問題に聖書はわかりやすいことばで答えています。(創世 1:1,2,26-28; 2:16,17; 3:1-24。ロマ 5:12)また,それは,人間家族に救済をもたらすため神が行なわれた事柄の大要を述べ,その備えにあずかるために個人個人のなすべきことをも示しています。(ヨハネ 3:16,36。ダニエル 2:44)こうした理由をすべて考え合わせると,聖書が,注意を払って真剣に読むべき書物であることは説明を要しません。

8 わたしたちは個人的に聖書全巻を読んで,研究すべきです。なぜですか。

8 しかし,あなた個人についてはいかがですか。聖書を読んだことがありますか。その一部分だけではなく,初めから終わりまで聖書全巻を読み通されましたか。自分の人生と関係があるかどうかを調べるために,注意深く研究なさいましたか。そうするのは,確かに実際的な知恵の道です。なぜですか。なぜなら,わたしたちの命は神に依存しているからです。そして,聖書が神のことばであることは,聖書が明白に述べているところだからです。―出エジプト 20:1。エペソ 6:17。

ほんとうに「神のことば」

9 どういう意味で聖書は「神のことば」ですか。

9 聖書に関して「神のことば」という表現を使っても,世の中の一般の人と,キリスト教世界の教会員にとってすら,たいして意味はなさないでしょう。聖書は信心深い人たちが神についてしるした書物である,とは彼らでも信じているかもしれません。しかし,それが実際に神に源を発したものとは信じていません。それにもかかわらず,「聖書はすべて神の霊感によるものであ(る)」と聖書そのものにしるされています。また,「預言はどんな時にも人の意志によってもたらされたものではなく,人々が聖霊に導かれ,神から語ったもの」である,とも書かれています。(テモテ後 3:16,新。ペテロ後 1:21,新)これは,聖書の大部分を実際に書くことに用いられたのはいろいろな人間でしたが,聖書の著者はただおひとりで,そのかたはエホバ神である,という意味です。神はご自分の霊を用いて,その預言者たちの心に音信や幻影を伝えられ,次いで預言者たちはそれを書き留めたのです。それはどのようになされましたか。

10,11 (イ)神は聖書に収められていることばを実際に口述されましたか。(ロ)この点を説明するのに,実務上普通に見られるどんな習慣が役だちますか。

10 ある場合,口述により伝えられました。ひとりの天使の代表者を通して,エホバはモーセに次のように告げられました。「これらの言語を書しるせ 我これらの言語をもて汝およびイスラエルと契約をむすべばなり」。(出エジプト 34:27。ヘブル 2:2)モーセは告げられた事柄を正確に記録しました。

11 しかし文体に関しては,聖書の記述者がある程度その個人色を反映することを許された,と明らかに考えられる場合もありました。エホバの霊が彼らの思いを導きましたが,その表現方法には,しるした人の個性がある程度表われていました。(伝道 12:10。サムエル後 23:1,2)わたしたちの時代でさえ,会社の経営者が自分の秘書に手紙を書かせるのは普通のことです。その際,経営者がことばづかいまで指定するとはかぎりません。実際に書くのは秘書であり,与えられた指示に注意深く従いながら,経営者のやり方に合っていると経験から知っている表現を用います。手紙が書き上がると,経営者がそれに署名し,手紙は彼からのものとされます。

12,13 神は,見えない領域から人間に音信や幻影を伝えることができます。この点を理解するのはむずかしいことではありません。なぜですか。

12 神がご自分のしもべたちに見えないからといって,彼らの心に音信や幻影を伝えるということは理解しにくい事柄でしょうか。(使行 28:25。エゼキエル 1:1-3)何キロも離れた所にいる見えない人の声をラジオで聞いても,妙だとは思いません。宇宙飛行士が月の軌道をめぐったとき,かれらはあいさつのことばと写真を地上に送信し,それは驚くほど鮮明に受信されました。人間にそのようなことができるのはなぜですか。エホバご自身が定められた,既存の法則を利用したにすぎません。

13 したがって,神が見えない領域から人間と交信できるという考えは,少しも不合理ではありません。また,実際に書いたのが地上の筆者であるからといって,彼らの書いた事柄は実際には神からのものではない,と言うことはできません。しかし,そうしたことが可能であるということだけでは,聖書が神からのものであることの証明にはなりません。この点も認めねばなりません。聖書をしるした人たちと,神が実際に交信されたことを示すどんな証拠がありますか。

神からの交信の証拠

14 モーセはシナイ山から降りてきたとき,同胞のイスラエル人にどんな音信を携えてきましたか。しかし,どんな質問をすることができますか。

14 エジプトの奴隷状態から解放された後のこと,イスラエル人はシナイの荒野に集合していました。モーセはエホバから教えを受けるためにシナイ山に上り,民に対する音信を携えて帰ってきました。エホバは次のように言われた,とモーセは報告しました。「汝かくヤコブの家に言ひイスラエルの子孫に告べし汝らはエジプト人に我がなしたるところの事を見 我がわしの翼をのべて汝らを負て我にいたらしめしを見たり されば汝らもし善く我が言をきき わが契約を守らば 汝らは諸の民にまさりてわが宝となるべし 全地はわが所有なればなり 汝らは我に対して祭司の国となり聖き民となるべし」。(出エジプト 19:3-6)モーセは民の中の年配の人たちにこう告げました。しかし,そのことは真実でしたか。神はほんとうに彼に話されたのですか。エホバはモーセを通してイスラエルと交渉をもっておられる,と彼らが信じられるどんな理由がありましたか。―ヨハネ第一 4:1。

15 エホバがモーセと交信し,彼を用いておられたことを,イスラエル人はどうして知っていましたか。

15 そのときよりも数か月前,彼らは皆エジプトにいました。そこでモーセはエホバ神の名によって語り,その土地に荒廃をもたらす十の災いを予告しました。そのひとつひとつは,宣明されたとおりに起こりました。(出エジプト 7:15–12:29)モーセが,予告したいなごの災いや疫病を自分の力でもたらすことができなかったのは当然です。前もって宣明したひょうのあらしをもたらすために,自然の力を制御することは彼にはできないことでした。彼がみずからエジプト人の家々と家畜小屋に押しいり,そのうい子を殺さなかったのも確かなことです。それは疑いなく神のみわざでした。そして,モーセは起こる事柄を前もって宣明しえたのですから,彼と交信されたのは神に違いありません。後日,モーセが紅海に向かって手をあげたとき,海の水は二つに分かれ,イスラエル人にのがれる道が備えられました。その間,超自然的な雲が,追撃してきたエジプトの軍勢とイスラエルとを隔てました。シナイ山にイスラエル人が集合したのはその後のことで,彼らはそうした過去のできごとのあった場所に居合わせ,それを見てきたものたちでした。彼らはモーセを通してエホバに導かれていることを知っていました。―出エジプト 14:19-22。

16 シナイ山でエホバはどんなしるしを重ねて行なわれましたか。その理由は。

16 今度はシナイ山で,エホバは重ねてしるしを行なわれました。モーセに告げられたところによると,エホバがそれを行なわれた理由はほかでもなく,「これ民をして我が汝と語るを聞しめて 汝を永く信ぜしめんがため」でした。(出エジプト 19:9)それは,神の力をいかんなく示すものであり,それを見た人たちは畏敬の念に打たれました。「雷と電および密雲山の上にあり またらっぱの声ありてはなはだ高かり 営にある民みな震ふ……シナイ山都て煙を出せり エホバ水の中にありてその上に下りたまへばなり その煙かまどの煙のごとく立のぼり山すべて震ふ らっぱの声いよいよ高くなりゆきてはげしくなりける時 モーセ言を出すに 神声をもて応へたまふ」。(出エジプト 19:16-19)その光景を目撃した何百万という人々は,モーセがエホバの名をもって語り,かつ書きしるすことは,ほんとうに「神のことば」であるという確かな証拠を持っていました。―使行 7:35-38。

17 その後のヘブル人の預言者のしるした事柄は,聖書の中で読むことができます。エホバは彼らとも交信されました。どうしてそう言えますか。

17 そののち何世紀もの間,エホバは,サムエル,ナタン,イザヤ,エレミヤ,ダニエル,その他おおぜいの預言者を起こされました。彼らもエホバの名をもって語りました。そして,彼らが神のみわざとして前もって宣明した事柄が信頼できるものであったため,神が彼らと交信されていることは明らかでした。―申命 13:1-3; 18:21,22。

18 (イ)イエス・キリストが地上に現われたとき,彼が神からきたことを示すどんな証拠がありましたか。(ロ)イエス・キリストは,それまでにしるされていた聖書の各巻をどうごらんになりましたか。

18 西暦1世紀,イエス・キリストは地上に現われました。ご自分が神の御子である,とはっきり語ったイエスは,奇跡的に海を静めたり,病人をいやしたり,死人をよみがえらせたりして,ご自身が実際に神からきたことを証明されました。(ヨハネ 10:36。ルカ 8:22-25; 5:17-26。ヨハネ 11:39-44)その当時までにしるされていた聖書の各巻を,イエスはどうごらんになりましたか。過去について述べられている事柄を,イエスは事実として引用されました。将来に関してしるされている事柄は,かならず成就されるものとして話されました。(マタイ 19:1-6; 24:30。ダニエル 7:13,14)イエスは「聖書」に言及するとき,その中に律法,預言書そして詩篇から成るヘブル語聖書全体を含めて話されました。(ルカ 24:27,44-48)イエスはそれを信じ,教え,かつそれをご自分の生活の導きとされたのです。それが,天の御父であられる,ご自分の神のことばであることを認めていました。

19 クリスチャン・ギリシア語聖書の記述者について,神がその背後におられたことを示すどんな証拠がありますか。

19 イエスの死と復活の少し後,クリスチャン会衆が組織されていたとき,神は再び超自然的なしるしを使い,地上の代弁者としてだれを用いているかを示されました。(ヘブル 2:1-4)神は,エルサレムに集まっていたイエス・キリストの弟子たちにご自分の霊をそそがれ,その結果,彼らはそれまでに研究したこともない言語で語ることができました。多くの国からきていた代表者たちは,神が背後におられることを明白に示すそのできごとをみずから目撃しました。(使行 2:1-12)その時かそれよりも少し後に,神はご自分の霊をそそいだ人たちの中から,クリスチャン・ギリシア語聖書をしるす人々を選ばれました。それらのことは内密に行なわれたのではありません。それらの人たちの手を通して神が行なわれた力あるわざは,広く一般の人々が知っていました。その結果,何千もの人々が信者になりました。―使行 2:41; 3:1–4:4; 9:40-42。

20 したがって,エホバの証人は聖書をどのようにみなしますか。

20 そうした個々の人々から成る,マケドニアのひとつの会衆にあてて,パウロはこう書き送りました。「わたしたちはまた,絶えず神に感謝している。というのは,わたしたちから聞いて神のことばを受けたとき,あなたがたは,それを,人間のことばとしてではなく,真にそのとおりであるが,神のことばとして受け入れたからである。この神のことばはまた,信ずるあなたがたのうちに働いている」。(テサロニケ前 2:13,新)20世紀の今日,エホバのクリスチャン証人は,マケドニアにいた1世紀のクリスチャンと同じように信じています。自分自身で聖書を読み,その内容を知っていますから,それがまさしく神のことばであることに少しも疑問を持っていません。あなたも同じ信仰を持っておられますか。

21 (イ)聖書がほんとうに神のことばであるということを信ずる人には,どんな特権と責任がありますか。(ロ)神に喜んでいただくためには,聖書に対する信仰はどれほどのものでなければなりませんか。

21 もしそうなら,あなたには他の人たちを援助する特権と責任があります。聖書を一度も読んだことのない人がいたら,聖書を読むように励ましてください。それが神のことばであることの証拠を討議してみてください。その教えに親しむように助けてください。そうすることがどんなに重要であるかを強調してください。もちろん,その後どうするかは,それらの人が自分で決定しなければならないことです。しかし,なまはんかな信仰では不十分です。神に喜んでいただくためには,真心を尽くさねばなりません。神のみことばの忠節な擁護者でなくてはならないのです。

『忠節をもって神聖な奉仕を行なう』

22 聖書は忠節をどのように,またなぜ強調していますか。

22 聖書自体,忠節さが重要であることを強調しています。それはどうしてですか。なぜなら,それが聖書の著者であられるエホバの著しい特質だからです。心の定まらないイスラエルの民に向かって,エホバはエレミヤを通してこう語られました。「わたしは忠節なものである」。(エレミヤ 3:12,新)また,将来のできごとに関する幻影を見ている際,使徒ヨハネは,神によって天の栄光に高められた者たちが神に向かって次のように歌っているのを聞きました。「全能者なるエホバ神よ,あなたのみわざは偉大であり,驚嘆すべきものです。永遠の王よ,あなたの道は正しく,かつ真実です。エホバよ,だれかあなたをほんとうに恐れないでしょうか。あなたの御名をたたえないでしょうか。あなたこそ忠節なかただからです」。(黙示 15:3,4,新)かれらは,忠節さがエホバに源を発すること,そしてそれがエホバを特徴づけるきわだったものであることを正しく評価しているのです。

23 エホバに対するわたしたちの奉仕は,なぜ「忠節をもって」なされねばなりませんか。そのことは,神のみことばに対するわたしたちの態度について何を意味していますか。

23 このことから,人間の奉仕が神に受け入れられるためには,神の持たれるこの特質がその人の上に表われなければならないことがわかります。バプテスマのヨハネの父ザカリヤは,この点を認識していました。聖霊に満たされた彼は,「御前に〔忠節〕と義とをもておそれなく事へ」たことを神に感謝しました。(ルカ 1:74,75〔新〕)しかし,神のみことばに疑いばかりいだいている人が,どうして神に忠節でありえますか。疑問があるならば,質問をして答えてもらい,提出される証拠を調べ,それから決定を下すことこそ道理にかなっています。しかし,ふたつの意見の間をいつまでも迷う優柔不断な態度は神に喜ばれません。(列王上 18:21)「汝らの中もし知恵のかくる者あらば,とがむることなく,また惜むことなく,すべての人に与ふる神に求むべし,さらば与へられん。ただし疑ふことなく,信仰をもて求むべし。疑ふ者は,風に動かされて翻へる海の波のごときなり。かかる人は,〔エホバ〕より何物をも受くと思ふな。かかる人は二心にしてすべてその歩むところの途定りなし」― ヤコブ 1:5-8〔新〕。

24 (イ)キリスト教世界にはどのように忠節の欠如が表われていますか。(ロ)そういう人々がイエス・キリストの真の追随者となるためには,どんな変化を遂げることが必要ですか。

24 創造者に喜んでいただくためには,創造者の示される道が正しいという自信を持たねばなりません。しかしこの特質は,クリスチャンと自称する人たちの間に著しく欠けているものです。聖書の中で,「終わりの日」に広く見られる顕著な態度の一つとして,テモテ後書 3章(新)に予告されていたのは忠節の欠如でした。配偶者や雇い主に対する忠節の欠如が見られるだけではなく,神に対しても忠節の欠如が見られるのです。そのゆえに,「敬虔の形」だけの崇拝をしている人々は,「その力において偽りな者」となります。(テモテ後 3:1,2,5,新)聖書が神のことばであるという個人的な確信がないため,聖書を真剣に考慮しようとしません。聖書はそのような人の生活を導く力とならず,彼らを動かさないのです。しかし,イエス・キリストに心から従う者となるためには,変化が必要です。エペソ書 4章23,24節(新)で,クリスチャンは次のようにさとされています。「あなたがたの心に働く力によって新たにされ,真の義と忠節にそいつつ,神の御心にしたがって造られた新しい人格を着けるべきである」。あなたはそうなさいましたか。神に対するあなたの忠節はゆるがないものですか。そしてそのことを,神のみことばである聖書に対するあなたの態度に表わしていますか。そうしておられるならば,あなたは神のみことばに信仰を置くよう他の人々を援助して,それらの人の祝福となることができるでしょう。

[脚注]

a 「聖書の記録の真実さに関する歴史学上の証拠」,25,26ページ。

[300ページの図版]

シナイ山でエホバはしるしを行なわれた。山は震い,全山が煙で満たされた。幾百万もの人々は,モーセが神の名によって告げた事柄は神のことばにほかならないということを示す証拠を見聞きした。

    日本語出版物(1954-2026)
    ログアウト
    ログイン
    • 日本語
    • シェアする
    • 設定
    • Copyright © 2025 Watch Tower Bible and Tract Society of Pennsylvania
    • 利用規約
    • プライバシーに関する方針
    • プライバシー設定
    • JW.ORG
    • ログイン
    シェアする