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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1971
塔71 5/1 270–276ページ

進化は信仰をそこなう

1 キリスト教世界の僧職者の多くが進化を肯定するのを知って驚く人がいます。なぜですか。

進化の教えは,神に対する信仰を築くようにはできていません。それは聖書に対して深い尊敬の念をいだかせるわけでもありません。そのため,キリスト教世界の僧職者の大ぜいが進化論をはばからずに肯定したり,教会の後援する学校の教科書でその教えが支持されたりするのを知り,あらためて驚く人がいます。

2 (イ)カトリックの代弁者たちは,進化を信ずることについてなんと述べてきましたか。(ロ)彼らの見解は聖書とどのように矛盾しますか。

2 この傾向がローマ・カトリック教会内でどのように育ってきたかについて,「カトリック新百科事典」は次のように述べています。「1950年に〔教皇ピオ12世の発した〕回勅,人類の起源は,新しい傾向を生みだす出発点となった…進化は根拠確実な仮説として,はっきり認められた」。オランダの神学校の教師で,聖アウグスチヌス修道会の会士A・ヒュルスボスクは,これと同様な発言をしています。「生物学の見地から,人間の起源が動物界にあったことはもはや否定できない」。a さらに,カトリックのデューケイン大学の招聘教授,イエズス会のピーター・シューンバーグはこう述べています。「さて,人間という種の起源を考慮してみると,その親は最も下等なものであったことがわかる。最初の人間たちの『親』は人間ではなく,動物であったからである」。b しかしながら,こうした発言は聖書と直接矛盾するものです。聖書は,アダムが「神の子」であり,彼が神に「象て」造られたと明白に述べています。―ルカ 3:38。創世 1:26。

3 あるカトリックの学校では,進化の教えがどの程度推し進められていますか。その結果,学生たちはどんな影響を受けていますか。

3 それらカトリックの教師たちの進化に対する態度は,消極的なものではありません。むしろ,この教えを学生たちに徹底的に印象づけたいと考えています。これは,アイオーナ(カトリック系)大学で使われている生物学のある教科書から明らかなとおりです。その序文にはこう書かれています。「生物学における最も一般的な原則は進化である。この分野での論述は概ね同様な発言をしてはいるが,それが実際に真実であるとの確信を与えることに失敗している。…われわれは本書において,生物界に実際に見られるとおり,進化をできるだけ普及させることに努めた。取り上げたすべての主題は,進化を背景にしており,かつ,その側面に触れている」。そうした教授法が学生にどんな影響を及ぼすかについては,疑問の余地があるでしょうか。少し前のことですが,U・S・ニューズ・アンド・ワールド・リポート誌が,「不安の増すカトリック教会」に関する記事を特集した際,次のような報道が載せられました。「セントルイスのある司祭が推測したところによると,彼の教えているカトリック教徒の学生のうち,25%は神の存在を公然と疑っており,他の25%は不可知論者であるという。ノートルデーム大学の役員たちは,最近卒業生のひとりから次のような苦情を聞かされて驚いた。『ノートルデームの施す最善の教育に接した結果,私はキリスト教からますます遠ざかってしまいました』。

4 信仰を破壊するこの教えについて,プロテスタントの代弁者と出版物はなんと述べていますか。

4 進化を支持することによって,神と神のことばとに対する信仰をそこなっているのは,ローマ・カトリックの教会に限りません。プロテスタントの教会とて同じです。“1949年10月18日”付の書簡の中で,カンタベリー大司教は公然と次のように述べました。「キリスト教会は全体として,進化論を科学的に確証されたものとして受け入れている」。プロテスタントの著名な出版物「ザ・クリスチャン・センチュリー」誌の中で,エール大学神学部の神学教授ポール・ホーマー博士はこう述べています。「進化を科学的な根拠に基づく説として現代に普及させた才能と努力に深い感謝を表したい」。これらの人々が自分の著述の中で進化に言及する時,単に,生命の形態に多様性が見られるとか,陸地が外部の力を受けて変化の過程を経る,といった事実をさしているのではなく,人間をはじめ他の生物に関する起源について語っているということを銘記すべきです。プロテスタントの「解説者のための聖書」は,大胆にも次のように自説を述べています。「爬虫類は沼沢にとどまることで満足した。人間はそこから這いあがることを欲した。昔も今もそうだが,人間はこの原始的な本能と戦わねばならない。それは人間が動物の次元から出発したからである。しかし,そこにとどまることで満足しなかったのである」。

5 進化を肯定しながらも,聖書を否認するものではないとする僧職者たちは,どんな根拠に基づいてそう主張しますか。

5 そのような発言をしながらも,自分たちは聖書を否認しているのではないと主張してやまない僧職者がいます。どんな根拠からそう言えるのですか。オランダのA・ヒュルスボスクはこう主張します。「人間は全体的に考察すると,二つの側面を持つ存在といえよう。生物学的な側面から見ると動物に関連しているが,人格的な側面から言うと神の像なのである」。つまり,肉体は進化の所産とみなされていますが,人間には別の部分があって,それは進化したのではないと言います。この点に関して,ローマ司教神学会の成員ルドルフ・バンダスは次のようにしるしています。「魂は進化の過程外にあるものである。魂は理性的で純真,かつ霊的で不滅であって,単なる動物の生命からは進化しえない」。カトリックの司祭,レイモンド・ノーガーも,自著「進化の知恵」の中で同様な意見を述べています。「生物学的に言って,人間はオオヤマネコと同じく,動物の一つの特定な種類である。人間は他のすべての動物とともに,動物界に属している。…男(および女)の魂は神から直接に創造されたがゆえに,霊的であり,かつ不滅である」。このような発言をする人は,聖書に対してはなはだしく無知であるか,故意に人々を欺いているかのどちらかです。

6 それら僧職者たちの次の論議が全く誤っていることを,聖書から示しなさい。(イ)生物学的に人間は動物と関連している。(ロ)人間と動物の相違は,人間が「魂」を持っている点にある。

6 人間と動物が生物学的に関連していることを認めるような箇所は,聖書のどこにもありません。肉なる生物について,使徒ペテロは創造者から霊感を受けてこうしるしました。「凡ての肉,おなじ肉にあらず,人の肉あり,獣の肉あり,鳥の肉あり,魚の肉あり」。(コリント前 15:39)また,人間が動物と異なるのは,人間が「魂」を持っているからでもありません。聖書は,人間が魂であると全く同様に,動物も魂であることを明示しています。(創世 1:21,24。レビ 24:18。民数 31:28)そればかりか,神がアダムを形造って彼に命を与えた時,神は人間に魂を与えた,とは聖書に述べられてはおらず,むしろ,人間は「生きた魂となった」,あるいは「アダムは生きた魂になった」としるされています。(創世 2:7,コリント前 15:45,新)すなわち,人間それ自身が魂なのです。ですから,僧職者が言うように,魂が進化したものでないのなら,人間は進化しなかったことになります。

7 (イ)進化論を支持する僧職者の中には,アダムに関する聖書の記述をどのように見なすものがいますか。(ロ)聖書がそのような見解を容認していないことは,どんな事実が明らかにしていますか。(ハ)聖書を進化に適合させようとすることによって,それら僧職者たちは聖書と“科学”について,実際には何を行なっていることになりますか。

7 僧職者は聖書を進化論と適合させようとして,アダムに関する聖書の記述は単に比喩あるいはたとえ話にすぎず,歴史的な事実ではないという論議をよく用います。オランダのイエズス会士トルースターはこう言っています。「最初に,楽園の物語は現代使われているような意味での歴史ではないことを,十分に認識しようではないか」。c そこに出てくるアダムは「最初の人間」ではなく,すべての人間を表わしており,すべての人間は神との霊的な交渉の機会を持ちながらも,自分自身を神から離させる行為を自ら犯す,という判断をトルースターは下します。しかし,聖書はこの見解を容認するものでもありません。アダムはすべての人間ではなく,「最初の人間」であると述べられています。(コリント前 15:45,新)聖書の記述者ルカは,イエス・キリストの系図の中で,アダムを他の74名の人々とともに列挙しています。(ルカ 3:23-38)ひとりが比喩にすぎないのであるなら,他の人々はどうなりますか。イエスの異父兄弟ユダは,エノクが「アダムより七代に当る」としるしていますが,エノクがすべての人から七代に当たることは,言うまでもなくありえません。(ユダ 14)さらに創世記 5章3節には,アダムが130歳の時,むすこセツが生まれたと書かれています。これはすべての人間について言えることですか。もちろん言えません。進化を事実として受け入れながら,聖書の解釈を進化に適合させようとする彼らは,神のことばを卑しめ,唯物主義的な“科学”を称揚しているのです。

8 進化を支持することによって,僧職者たちはだれに荷担していますか。出版物に載ったどんな意見が,このことを明示していますか。

8 知ってか知らずか,進化を支持する宗教家たちは,結局,神に対する信仰を根こそぎにすることを公然の目的としている,無神論的な共産主義者たちと提携しているのです。カール・マルクスは,進化に関するダーウィンの研究にたいへん喜び,「資本論」(“共産主義運動のバイブル”と呼ばれる)の英語版を献呈する許可を求める手紙を彼に書いたほどです。ソ連で出版された9学年用の教科書は,公にこう断言しています。「生物界の進化の法則を研究することは,唯物論的な概念を展開させるのに役だつ…この教えから,目的が存在するかのような生物界の様相に対して,唯物論的な解釈が与えられると同時に,人間の起源が下等動物のものからであることが証明されるので,われわれはそれによって反宗教闘争の備えをすることができる」。さらに,「ダーウィンと進化の思想」と題する小論文の中で,進化論者ジュリアン・S・ハクスリーはこう述べています。「進化が事実として受け入れられるなら,まず,世界の主要宗教の神学的構想の大部分が破壊されるか,さもなくば,都合よくに…意義深い神話として取り扱われるようになろう」。それにもかかわらず,僧職者たちは率先して,進化が事実であり,聖書の記述が神話にすぎないと唱えているのです。どうして彼らはそうするのですか。

9,10 (イ)僧職者が進化を支持する動機は,その論を支持する証拠が圧倒的に多いからではありません。何がそのことを示していますか。(ロ)進化を唱道することが聖書を卑しめる結果になるにもかかわらず,彼らはそうします。なぜですか。

9 進化は確実な事実にのっとっているのではありません。フランスのパリで,最近,ユネスコ会議が開かれましたが,その会議の終了後,ある新聞は次のように報道しました。「現代人(ホモ・サピエンス)の起源について,たった一つ確かなことは,それが『はっきりしていない』ということである」。また,カトリックの著名人ウルリック・A・ハウバーは,ダベンポート司教の出版許可の印の押された,自著「進化と創造」の中で,進化が不確かなことを認めながら,こう言っています。「進化論はすべての事実を説明してはいない。ある事実には反するようである」。それにもかかわらず,著者はこう続けています。「しかし,はなはだ合理的な理論ではある」。そうした宗教の代弁者たちが,聖書の警告しているわなに落ち込んでいるのはいうまでもありません。「なんぢら〔注意〕すべし,恐くはキリストに従はずして人の言伝と世の小学とに従ひ,人を惑す虚しき哲学をもて汝らを奪ひ去る者あらん」。(コロサイ 2:8〔新〕)彼らが神のことばよりもむしろ進化を選びたがるのは,世に受け入れられたい,実際にこの世の一部となりたいからです。科学界の人々でもこの点を認めているほどです。1964年3月号,「ル・モンド・エ・ラ・ビ」誌の報道によると,ストラスブール大学で動物学の教授を勤めるフランスのある生物学者は,次のように語ったそうです。「進化の最も強硬な支持者たちの大方が,昨今,司祭,修道士,その他あらゆる種類の僧職関係の高官によって占められていることを私はよく承知している。彼らはそうすることによって,自分たちが専門の知識者層の中に位置すると信じているのである」。しかし,彼らは同時に,自分たちがイエス・キリストの弟子でないことをも明らかにしているのです。彼は,自分の追随者たちが『世のものでない』であろうと言われました。―ヨハネ 17:16。

10 彼らが進化を支持するのは,それが事実であるからではなく,世に受け入れられたいとの欲望が,真理に対する愛よりもはるかに強いからです。(テサロニケ後 2:9-12)同じことが多くの科学者についても言えます。彼らは教育のおかげで,名誉ある地位をこの世で得ています。そして,世の人々によく思われることを望むなら,一般に歓迎されている事柄に歩調を合わせます。聖書の道徳規準が世の人々の間で歓迎されていないのと全く同様,人間が神によって創造されたがゆえにそうした規準に従う義務がある,と信じることも歓迎されません。つまり,人に対する恐れと結びついた個人的な自尊心が,彼らのわなとなっているのです。そのわなを仕掛けるのは悪魔です。―黙示 12:9。コリント後 4:4。

11 この問題に関して,長老派教会の理事会はだれに信仰を表明することを選びましたか。説明しなさい。

11 1969年4月号,ニューヨーク「ポスト」誌の報道によると,アメリカ長老派教会の理事会も進化を肯定する趣旨を公にしました。彼らは,「創世記の記述を創造の科学的説明と理解する必要はない」,との立場を取りました。採択に付された報告書に反対を表明する人たちは,創世記が文字どおりに真実であることを懸命に弁護し,それが進化論と両立しえないと主張しました。その中のひとりはこう述べました。「進化論を受け入れるなら,使徒ならびにイエス・キリストご自身の誠実さを,きびしく非難することになります」。それにもかかわらず,別の人が立って次のように発言しました。「私は地質学者でありますが,進化は実存し,本大会のいかなる措置といえども,この事実を撤回しえないことは確証された事実である点を,この会議で提示したいと思います」。その宗教団体はだれに信仰を表明しましたか。すべてのものを造られた創造者にですか,それとも,神のわざの少しの部分を研究しただけで,それについては神よりも詳しいとする人間にですか。不名誉なことに,彼らの中の圧倒的多数の人が,不完全な人間と進化論に賛成の投票をしました。―詩 40:4,5。

12 進化の教えに関して,イエズス会の人々はどんな立場を取りましたか。その立場を現在,守り通していますか。

12 それより約4年前の1965年6月15日,パリの日刊紙「ル・フィガロ」は,同日付の宗教欄で同様な意義を持つ事件を取り上げました。その報道によると,イエズス修道会の総会長ペドロ・アループは,就任式に続く話の中で同宗教団体の新方針を明らかにし,以後,イエズス会の進化論者テールアール・ド・シャルダンの著作に示されている認識を重要視すると語りました。「ル・フィガロ」紙はこう評しています。「アループ“神父”の見解が,教皇のそれと完全に一致するものであるという点に関して,ローマ聖職者の間には事実異論の余地がないのであるから,この宣言の持つ意義はきわめて重要なものといえる」。同紙の報道が誤っていないことは,すでに調べた事実から明らかです。すなわち,カトリックの代弁者たちはまぎれもなく,信仰を破壊するこの教理の最たる支持者たちだからです。

13 神のことばからのどんな叱責が,キリスト教世界の僧職者たちによく当てはまりますか。その理由は。

13 まことの神を崇拝すると唱えながら,その献身が一種のしきたりにすぎなくなっている人々に対して,エホバは預言者イザヤを通して次のような強い叱責を与えました。「己がはかりごとをエホバに深くかくさんとする者はわざはひなるかな…なんぢらは曲れり いかで陶工をみて土塊のごとくおもふ可んや 造られし者おのれを作れるものをさして我をつくれるのにあらずといふをえんや 形づくられたる器はかたちづくりし者をさして〔理解〕なしといふを得んや」。今日のキリスト教世界の僧職者たちは,神のことばの真理を隠ぺいし,神のわざを拒否するという『曲った』態度のゆえに,同様なきびしい叱責に値します。―イザヤ 29:15,16〔新〕。

進化を信じることからもたらされる結果

14 進化を受け入れる人は,創世記の最初の部分に対してどのような立場を取っていることになりますか。

14 信仰をそこなう全過程は,多くの人にとって非常にささいに見えることから始まります。すなわち,聖書の最初の本の一部が厳密には歴史に即していないとの見方をする,というような簡単なことが起点となります。しかし,創造の記述,ひいてはアダムとエバについてそこに述べられていることが歴史に即していないというのであるなら,それはいったいなんですか。「神話」である,とカナダの統一教会は答えます。イエズス会の著作家S・トルースターはこう述べています。「祖先としてのアダムは,他の伝説的な部族の祖先と同じく,人間が考え出したものであることを銘記する必要がある」。では,この見解を進んで受け入れる人は,それでことが済むと思われますか。聖書の他の部分は問題なく信じられるとでもいうのでしょうか。

15 創世記に関する僧職者の見解を受け入れる人は,イエス・キリスト,彼の使徒,彼らの書いた事柄について,どのような結論に導かれますか。なぜですか。

15 この一点に関してでさえ,神のことばよりもむしろ人間の哲学を受け入れる人は,それによって,信仰の完全な崩壊へと通ずる段階をしかと踏み出したことに,やがて気づかされるでしょう。なぜそう言えますか。なぜなら,イエス・キリストはアダムとエバに関する創世記の記述を歴史的な事実として引用し,それに言及した際,同時に,やはり正真正銘,歴史上の人物であったモーセについて話されたからです。(マタイ 19:3-9)クリスチャン・ギリシア語聖書中の14の本をしるした,イエスの使徒パウロも同様に,創世記の初めの章が文字どおりに真実であると信じていることを,自分の著述の中で明らかにしています。(テモテ前 2:13,14)クリスチャンの聖書記者,ルカやユダについても同じことがいえます。(ルカ 3:38。ユダ 14)したがって,創世記の一部が「神話」であるとか,「人間が考え出したものである」といった考えに進んで同調する人は,イエス・キリストが思い違いをしていた,さらに,彼の使徒たちは誤っていたとの結論に導かれることになります。今日,多くの僧職者によって広く歓迎されている,創世記に関する見解を進んで受け入れる人は,結局は自分の信仰が深刻にそこなわれる事態に陥ります。

16 進化に同調する人は,アダムの罪と,人類に及ぶその影響について,どんな見解を必然的に持つことになりますか。

16 進化に沿って物事を考え,創造に関する聖書の記録を“歴史に即さない”とする人はいうまでもなく,創世記 3章の記述,つまり,アダムが神の律法を破ったという記述を信じないことになります。また,アダムの違背のゆえに人類が罪のうちに生まれていることも信じません。聖書のそうした教えを信じないという人は,なにも徹底した無神論者にかぎるわけではありません。1966年8月22日号,「ニューズウィーク」誌は次のように報じています。「カナダ・イエズス会の聖書学者ディビッド・スタンリー神父は,次のように指摘している…『進化論を受け入れるなら,アダムは…霊長類にすぎなかったことになる。人間の堕落についての神話は全く意味をなさなくなる』」。さらに,ニューアークの司教の出版許可を得て,1968年に出版された「進化と原罪の教理」と題する本も,同じ見方をしています。同書は最初に,「すべての人間はアダムの罪のゆえに,罪深い状態から自分の一生を始める」と,聖書の基本的な信条を述べています。ところが,さらにこう付け加えています。「科学的な進化の教理を真剣に受け取る人にとって,この伝統的な見方はもはや受け入れがたいものとなる」。そして同書は,著者が「進化の教理」をまさしくそのように扱っていることを明らかにしています。真剣に受け取るあまり,聖書全般に関する自分の見解を,進化に適合させることをも辞さないほどです。

17 (イ)これは,あがないに対する人々の態度にどう影響しますか。(ロ)したがって,進化の教えは信仰にどう影響しますか。

17 さて,これは,イエス・キリストのあがないの犠牲に対する人々の態度にどう影響しますか。最初の人間アダムの罪について信ずることは,あがないを信ずることと直接に結びついており,この点は,使徒パウロが,霊感のもとにローマのクリスチャンへ書き送った手紙の中で,相当詳しく説明しているとおりです。(ロマ 5:12-19)さらに,コリントの会衆にあてて,彼はこう書きました。「それ人によりて死の来りし如く,死人の復活もまた人に由りて来れり」。(コリント前 15:21,22)あがないの理由に関して聖書の述べるところを「神話」とする僧職者たちが,あがないそれ自体の有効性について疑惑の種をまいていることは明らかです。1970年版の「ワールド・ブック百科事典」は,進化の項目の中で次のような現実的な評を載せています。「罪および罪からのあがないに対する真実性は,キリスト教信仰にとって欠かせないものとされている。しかしながら,人間が下等な状態からの進化の途上にあるのであるなら,罪は単なる不完全さになりかねず,その結果,罪の状態からのあがないに関する福音は,全く意味を失うおそれがある」。そうなってしまったなら,信仰はどうなりますか。失われてしまいます。

18 (イ)自分たちの牧師が何を信じているかを知るため,教会員に行なうよう奨励されている事柄はなんですか。(ロ)それらの人々はエホバの是認を得るために,どんな行動を取らねばなりませんか。

18 あなたがキリスト教世界の教会員であるなら,この記事でお読みになった事柄の中には,あなたを驚かせるものがあったかもしれません。わたしたちの牧師は違う,彼はそんなことを信じてもいないし教えもしない,とお考えになるかもしれません。しかし,真実を知るのは賢明なことではありませんか。アダムとエバに関する聖書の記述が歴史的な事実かどうか,彼に尋ねてごらんなさい。そうでないと答えるなら,あなたの牧師は,イエス・キリストにも,霊感を受けたクリスチャン・ギリシア語聖書の記述者にも同意しないことがわかります。進化の教えを受け入れるかどうか尋ねてごらんなさい。進化を信じているなら,彼がイエス・キリストを人類のあがない主として信じていると唱えようが唱えまいが,たいして違いはありません。そのような信仰は,人間が進化し,高等になっているのであれば,意味をなしません。それは,最初の人間が不従順によって罪に陥ったと認める人にのみ,意味を持ってきます。あなたの教会の牧師が進化を肯定することがわかったなら,あなたはどうなさいますか。人間に追随する者として,彼のもとにとどまりますか。彼はあなたにとこしえの命を与えることはできません。しかし神は,それができます。そして,とこしえの命に対する,み子イエス・キリストを通しての備えに信仰を働かせ,「霊と真理とをもって」神を崇拝する人々と交わって,今崇拝を行なう人々に,神はとこしえの命を与えられるでしょう。―ヨハネ 4:24,新。

[脚注]

a 「創造における神と進化」,1965年,viiページ。

b 「形成途上の神の世界」,1964年,55,56ページ。

c 「進化と原罪の教理」,43ページ。

[275ページの図版]

アダムとエバのことは信じないと言いながら,人は自分がクリスチャンであると言えますか

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