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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1972
塔72 1/15 61–62ページ

おさな子のようになるべき時

おさなごのようになりたいと願う人がいますか。十分に成長し,円熟した状態こそ最も望ましいものではありませんか。たしかにそのとおりです。次のようにしるした使徒パウロが指摘したとおりです。「われ童子の時は語ることも童子のごとく,思ふことも童子の如く,論ずる事も童子の如くなりしが,人と成りては童子のことを棄てたり」。―コリント前 13:11。

身体,精神また感情面での円熟は有益かつ肝要ですが,それよりもなおいっそう重要な別の種類の円熟があります。それは霊的な成熟,すなわち霊的な円熟です。この面で円熟している人はものごとの正邪を区別できます。また霊的に円熟していれば,クリスチャンは矛盾する教えや誘惑,また圧力に面しても確固とした態度を保てます。霊的に円熟している人は,「目を覚し,堅く信仰に立ち,雄々しく,かつ剛」くなれます。―コリント前 16:13,新。ヘブル 5:14。

霊的な円熟はクリスチャンにとってきわめて肝要であるため,クリスチャンには次のような命令が与えられています。『知恵においては子供となるな。知恵においては成人となれ』。(コリント前 14:20,新)確かにイエス・キリストは,『或人を使徒とし 或人を預言者とし,或人を伝道者とし,或人を牧〔者〕・教師として与へ給へり。これ聖徒を全うして職を行はせ,キリストの体を建て,我等をして全き人に至らせ』,不安定で容易に食い物にされる『幼童ならぬためなり』。―エペソ 4:11-14,〔新〕。

しかしそれでも,聖書はある点で子ども,またおさなごのようであることがたいへん望ましいことも示しています。どんな点で,またそうした点に関して子どものようであることはなぜ肝要なのですか。

悪についてはおさなごとなる

おさなごのようになることを聖書がクリスチャンに勧めている場合の一つは,悪に関するものです。たとえば「知恵においては子供となるな」と書いた使徒パウロは続いて,『悪においては幼児となれ』と述べています。―コリント前 14:20。

このことには疑問の余地がありません。悪はクリスチャンが経験する必要のない,また経験してみたいと考えてはならない事柄です。人をだましたり,偽善者を演じたり,性の不道徳や倒錯で人に知られたりするという点でたけているということについていえば,クリスチャンが無邪気で未経験なおさなごのようであるのはたいへん望ましいことです。

今日,演芸界の傾向は悪に関して「成熟」することを指向しています。このことを裏づけるものに映画の順位を定めるアメリカの制度があります。その制度によれば,概して,神のみことばの非とするわいせつな性行為が成熟と同一視されているようです。したがって,悪についてはおさなごであるようにとの助言に留意したいと考えるクリスチャンは,いわゆる「成熟した」観客向けの映画に注意するのはよいことです。

ですから,悪に関してはおさなごのようであるようにとの助言はきわめて適切です。では,どうすれば純潔さを守れますか。一つの大きな助けは交わりに注意することです。「惑わされてはなりません。悪い交わりは有益な習慣をそこないます」。(コリント前 15:33,新)それには,現実の生活の中で淫行や姦淫を犯す者,同性愛者や加虐性色欲異常者とできるかぎり交わらないようにしなければなりません。しかしそれとともに,その種の人間について考えたり,官能的な快楽を求めてそうした人間に関する本を読んだり,テレビや映画でそのような人間の行為を見たりすることを避けて,そうした事柄を自分の思いから締め出さねばなりません。人間の心は不信実で,そうした事柄の味をとかく容易に覚え,想像の世界でそれらを楽しむにとどまらず,実際にやってみたいという気持ちにかられるおそれがあるのです。悪についてはおさなごのままでいることにより,そうした誘惑すべてを避けるほうがはるかにまさっています。―エレミヤ 17:9。ピリピ 4:8。

子供らしい信頼についてはおさなごとなる

ある時イエスは次のように祈られました。「天地の主なる父よ,われ感謝す,これらのことを智きもの慧き者に隠して嬰児に顕したまへり」。イエスがこのように祈られたのは,ご自分のつかわした70人の福音伝道者が帰ってきて,悪霊をさえ追い出せたとして,自分たちの成しえた事柄を得意になって話した直後のことでした。―ルカ 10:17-21。

イエスの身分の低い弟子たちは,高い教育を受けた『智く慧い』律法学者たち,すなわちパリサイ人やサドカイ人に比べればおさなごのようでした。しかし神は,それら弟子たちが別の意味で子どものようであったからこそ,高い教育のある,宗教上のイエスの反対者が理解しかねた事柄を弟子たちに明らかにされたのです。

イエスはある時,弟子たちから,「天〔の王国〕にて大なるは誰か」と尋ねられた際,この点に弟子たちの注意を引きました。明らかにイエスは,弟子たちのその質問に多少の誇りや野心が含まれていることを見抜いておられました。そこで弟子たちに教訓を与えるため,幼い子どもを呼んでこさせ,『彼らの中に置き,「まことに汝らに告ぐ,もし汝ら翻へりて幼児の如くならずば,天〔の王〕国に入るを得じ」』と言われました。天の王国における大いなる者のことは別としてそう言われたのです。「されば誰にてもこの幼児のごとく己を卑うする者は,これ天国にて大なる者なり」。(マタイ 18:14)そうです,弟子たちは,『智く慧き』宗教指導者のように誇りを表わすのではなく,子どものような謙そんさを表わし,その時み子を通してこうした真理をそれら弟子たちに啓示しておられた天の父に対する子どものいだくような謙そんさと信頼を表わさねばなりませんでした。

ですから,精神的,肉体的また感情的な面での円熟は重要で,望ましいものであることは明らかですが,霊的な円熟については特にそういえます。しかし,霊的に円熟するには『翻って』「悪においては子ども」となり,子どもらしい純真な信仰と信頼をいだき,野心的な誇りをすてることによって,こうした点で幼い子どものようになることが必要です。―コリント前 14:20。

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