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  • 使徒たちの時代のエルサレム

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  • 使徒たちの時代のエルサレム
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1975
塔75 9/15 557–559ページ

使徒たちの時代のエルサレム

西暦一世紀当時,エルサレムはすでに古い都市でした。記録に残るその歴史は,西暦前1943年にまでさかのぼります。シオンとも呼ばれたこの都市が,イエス・キリストの使徒たちの時代に実在したことは,単なる偶然ではありませんでした。メシアに関する預言が成就する上で,エルサレムは重要な役割を果たしました。―イザヤ 28:16; 52:7。ゼカリヤ 9:9。

エルサレムは,標高760㍍を超えるところに位置しているものの,周囲が丘陵地であるため,外部からはそれほど目立たず,かなり近づかなければ市の全容を見ることはできません。

イスラエルの中部山岳地帯に位置しているため,エルサレムの気候は概して快適です。夜は涼しく,平均気温も摂氏17度ほどです。年間降雨量は約600㍉で,雨は主に11月から4月にかけて降ります。

使徒たちの時代のエルサレムは,広さが2.5平方㌔足らずでした。市の東側,南側,および西側の険しい谷間は,同市の要害の一部として役立ちました。北側だけは自然の要害となるものが余りありませんでしたが,この部分の城壁は特別堅固に構築されていました。

神殿

当時のエルサレムにおける最も重要な建造物は,ヘロデ大王の再建した神殿でした。幾つかある中庭を全部含めると,神殿の境内の広さは6万ないし8万平方㍍にも及びました。境内には,八ないし十あったと思われる門のどれかを通って入りました。門は西側に四つないし五つ,南側に二つないし三つ,そして東側と北側にそれぞれ一つずつありました。東側の門は,使徒ペテロが,生まれながらの足なえの男をいやした,「美しの門」と同じ場所であったかもしれません。―使徒 3:1-10。

神殿の境内の周囲は柱廊になっていました。それら柱廊の中でも最も人目を引くのは王室の柱廊です。境内の南側にあるこの柱廊には,コリント式の柱頭を備えた162本の巨大な円柱が並んでいました。円柱の太さは,三人の男が腕を広げてやっと囲めるほどでした。こうした円柱が四列に並んで三本の通路を作り出し,彫刻を施した木の天井を支えていました。外側の二本の通路の部分の天井の高さはそれぞれ15㍍ほどですが,中央の通路の天井はそれより高くなっていました。これは,柱廊の中央部の屋根が高くなっていたからです。東側,北側,および西側の柱廊には大理石の円柱が二列並んでおり,同じように天井を支えていました。イエスや弟子たちがいろいろな機会に神の真理を宣べ伝えたのは,境内の東側にある屋根のあるソロモンの柱廊内でのことでした。―ヨハネ 10:22-24。使徒 3:11; 5:12。

柱廊に囲まれたそのすぐ内側には,異邦人の中庭がありました。幾つかの門を通って簡単に中に入れるため,異邦人の中庭はまるで通路のようになっていました。人々は日常の仕事の際にも,神殿の境内の外を遠回りする代わりに,さまざまな器物を携えてこの異邦人の中庭を通り抜けました。この異邦人の中庭や王室の柱廊で両替人は台をすえ付けて商売をしたり,他の者たちは犠牲に供する動物を売ったりしていました。しかしイエス・キリストは,神殿のどの部分をも往来や商売の場とすることをお許しになりませんでした。二回にわたって,イエスはそうすることをやめさせました。―マタイ 21:12,13。マルコ 11:15-17。ヨハネ 2:13-16。

南側から異邦人の中庭を横切ると,所々に入口のある石造りの障壁に突き当たります。石造りのこの障壁は,高さが約1.3㍍ほどあり,その障壁の最上部の大きな石には,異邦人はこれより中に入ってはならない,これに違反する者は死をもって罰せられるという警告文が,ギリシャ語とラテン語で彫り込まれていました。このように,ユダヤ人と異邦人はこの石造りの障壁によって隔てられていたのです。―エフェソス 2:14と比べてください。

次に,異邦人の中庭から階段を14段上ったところに婦人の中庭がありました。ここは,ユダヤ人の婦人が崇拝のために入ることのできた中庭でした。そしてここには,聖所のための寄付を入れる納金箱が置かれていました。―ルカ 21:1-4。

清めの儀式を終えたイスラエル人の男子は,この婦人の中庭からイスラエルの中庭に入りました。半円形の大きな階段を15段上った所にイスラエルの中庭があり,その中庭の外壁には幾つかの収納庫が取り付けられていました。

最も神聖な中庭は祭司の中庭で,それは直接神殿の聖所を取り囲んでいました。その祭司の中庭には鋳物の海と燔祭の祭壇がありました。

聖所そのものは,祭司の中庭から階段にしてさらに12段上に位置していました。そして聖所の入口は,高さ約24㍍,幅7㍍の金の扉で閉ざされていました。建物の前面は,後方の主要部に比べて両側にそれぞれ9㍍ほど伸びていて幅が広くなっていました。神殿の建物の両側には部屋がしつらえてあり,聖所と至聖所の上にも部屋が一つありました。聖所の大きさは内のりで幅が約9㍍,奥行きが約18㍍あり,至聖所の広さはほぼ9㍍平方でした。神殿全体は白い石で造られており,金のはめ板で美しく飾られていました。

アントニア城塞

神殿境内の北西の角からさほど遠くないところに,アントニア城塞がありました。この城塞は高さ約22㍍の小高い岩山の上に構築されていて,周囲には高さ17㍍を超す石の城壁がめぐらされていました。城塞の四隅には塔が建てられており,そのうちの三つは,高さが約22㍍ありました。また南東の隅にあったもう一つの塔は,31㍍以上の高さにそびえ,神殿全域を見渡すことができました。そして,ローマの守備隊がここアントニア城塞に駐屯していました。

この城塞と神殿の境内は通路で結ばれており,神殿の中で騒動が起きるとローマの兵士がそれをすぐに鎮圧できるようになっていました。クラウディウス・ルシアスと配下の兵士たちが,「神殿の[すぐ]外」にいた使徒パウロをたけり狂う暴徒の手から救い出すことができたのも,これで十分納得がいきます。―使徒 21:30-32。

イエス・キリストが裁きのためにピラトの前に引き出されたのは,ここアントニア城塞の中庭であった,と考えている人もいます。石で舗装されていたこの場所が,ヨハネ 19章13節に記されているガバタだったかもしれません。しかし,イエスの裁きの行なわれた場所は,神殿境内の西方にあるヘロデの王宮前の広場だったとも考えられます。

ベツザタの溜め池

おそらく神殿境内の北にあったと考えられる羊門の近くに,五つの柱廊を備えたベツザタの溜め池がありました。イエス・キリストが,38年間病気で苦しんでいた男をいやされたのはその場所でのことでした。(ヨハネ 5:2-9)1888年には,そのような溜め池が実在したことに関する考古学上の証拠が明るみに出されました。発掘の結果,真ん中が岩で仕切られた,二つの溜め池が発見されましたが,その全域は幅が約46㍍,長さが約91㍍の広さです。同時にそこでは,天使が水を運んでいる姿を描いた色あせた壁画と五つの柱廊の遺跡も発見されました。

シロアムの溜め池

神殿境内の南には,イエス・キリストが,視力を回復させるために盲人に目を洗わせたシロアムの溜め池がありました。(ヨハネ 9:6,7,11)キデロンの谷の天然の洞窟に源を発するギホンの泉から,山腹をくり抜いた水路を通じてこの溜め池に水が引かれていました。

オリーブ山とゲッセマネ

エルサレムの東側には,丸みを帯びた,石灰質の一続きの丘が広がっています。昔,これらの丘はオリーブの木で覆われていたため,この付近はオリーブ山と呼ばれていました。場所によっては,エルサレム市より120㍍以上も高いため,ここオリーブ山からは神殿全域を一望のもとに見渡すことができました。―マルコ 13:3。

オリーブ山の一角もしくはその付近に,ゲッセマネの園がありました。イエスはこの園で,しばしば弟子たちと会われました。(ヨハネ 18:1,2)西暦33年の過ぎ越しの日の夜,ユダ・イスカリオテが口づけしてイエスを敵の手に売り渡したのは,ここゲッセマネの園でのことでした。―マタイ 26:36,48,49。

ゴルゴタ,園の墓,および陶器師の畑

イエスが杭に付けられたのはゴルゴタ,別名「どくろの場所」でした。その場所は,アントニア城塞の北にあるとされています。ダマスカス門の北東約230㍍の地点には,特徴のある穴がいくつかあって,見たところ,どくろに似ているがけがあります。このがけからさほど遠くないところに,北側を丘でさえぎられた大きな園があります。その丘の中腹から突き出ている大きな岩をくり抜いて造った墓が一つ残っています。その墓の遺体安置棚の一つは明らかに使用済みのものでした。こうした遺跡は,イエスが杭に付けられた後に埋葬された場所に関する聖書の記述とよく合致します。(マタイ 27:57-60。マルコ 15:22-24。ルカ 23:33。ヨハネ 19:38-42)しかし,実際の場所がそこであったかどうかは,今のところ断定はできません。

伝承によると,『見知らぬ人を埋葬するための陶器師の畑』は,ヒンノムの谷の南側で,ちょうどキデロンの谷と合流する辺りにあったとされています。この付近には多数の墓があります。「陶器師の畑」は,イエスを売り渡した代価「銀貨三十枚」でユダ・イスカリオテが買い求めた土地です。そこはやがて,アケルダマ,すなわち「血の畑」として知られるようになりました。―マタイ 27:5-8。使徒 1:18,19。

今日,特別神聖な意味はない

イエスや使徒たちが携わった公の宣教と関連のある場所の多くは,今もって正確には知られていません。これは明らかに神の目的にかなっています。というのは,今日真の崇拝は,地上のいかなる特定の地理的な場所にも依存してはいないからです。(ヨハネ 4:21-24)本当に重要なのは,イエスと使徒たちが宣明した音信です。その音信は聖書の中に収められており,西暦一世紀にイエスや使徒たちが始めた業は,今や地の隅々にまで行きわたっています。

[558ページの地図]

(正式に組んだものについては出版物を参照)

イエスと使徒たちが宣教を行なったころのエルサレム

ゴルゴタ(?)

ベツザタの溜池

アントニア城塞

イスラエルの中庭

祭司の中庭

神殿

婦人の中庭

異邦人の中庭

柱廊

ヘロデの王宮

シロアムの溜め池

ゲッセマネ(?)

オリーブ山

キデロンの谷

ヒンノムの谷もしくはゲヘナ

アケルダマ(?)

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