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  • 『私の食卓の周りにあってオリーブの木のさし枝のように』

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  • 『私の食卓の周りにあってオリーブの木のさし枝のように』
  • エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 7/15 440–444ページ

『私の食卓の周りにあってオリーブの木のさし枝のように』

コロンビアのポルフィリオ・カイセドの語った経験

聖書の詩篇 128篇3節と4節(新)に言い表わされている規準によれば,私は非常に祝福された人間です。そこにはこう記されています。「あなたの妻は実を結ぶ,ぶどうの木のようだ,あなたの家の最も内なる所にあって。あなたの息子たちはあなたの食卓の周りにあってオリーブの木のさし枝のようだ。見よ! そのように壮健な者は祝福される,エホバを恐れるその者は」。

実のところ,私は18人の子供を持つ父親です。私の「実を結ぶ,ぶどうの木」である愛する妻ベレン(ベツレヘム)は,12人の息子と6人の娘を産みました。

私自身は64年前,コロンビアのトリマ県リバノ町で,12人の兄弟の末っ子として生まれました。私がまだ赤子だったころに父が亡くなったため,12歳になると,母とすぐ上の姉を扶養するために鋳物工場へ働きに行かねばなりませんでした。そして,26歳のときにベレンと結婚し,それから間もなくして首都のボゴタへ引っ越しました。

私は通信教育によって,鋳物用の木型を専門に製作する大工として腕にみがきをかけました。そして,育ち盛りの子供たちをよりよく監督するために,自宅で小さな木工場を営むことにしました。しかし,この職業で名が売れるようになるまでは,別の方法で収入を得なければなりませんでした。それで,鋳型を作る仕事のない時にはギターやマンドリンやバイオリンを作りました。

私は物事を学ぶことにいつも深い関心を抱いていました。そのせいでしょうか,私は物心の付いたころから世の諸宗教に対して嫌悪感を抱いていました。彼らの使う形式的で無意味な言葉は,私の知識欲を決して満たしてはくれませんでした。

それとは対照的に,1950年のある日,私の木工場を訪れた一人のエホバの証人から求めた二冊の本の中に,私は真に価値のあるものを見いだしました。私には学ぶ意欲があり,そのエホバの証人は私に教えるものを持っていました。そして,単純明快に,神秘主義的なところなしに教えてくれました。その人と聖書を研究した結果,私は自分の子供たちを正しく育ててゆくための基礎を据えることになりました。

『矢筒をそれらで満たした者は幸いだ』

子供を育てるのは喜びです。それに伴う労力,苦闘,気づかいなどを考えに入れても,なおかつ喜びなのです。それで私は,次のように語った賢人ソロモンに全く同意します。「見よ! 息子たちはエホバからの相続財産(である)。……矢筒をそれらで満たした壮健な者は幸いだ」。(詩 127:3-5,新)子供たちに対する愛着が強くなると,子供たちがそばにいないと,とても寂しい気持ちになります。

私はいとけない子供たちが大好きです。子供独特の仕草を見るのはとても楽しいものです。幼い子供には何とも言えない魅力があります。小さな子供は本当に無邪気です。子供はほとんど何もないような時でも結構楽しむことができ,小さな紙切れやひもでも十分満足しています。そして,自分の遊び道具をなくすと,子供はがっかりします。そんな時こそ,私は子供たちと一緒にいてやって,助けてやりたいと思うのです。

私も妻も子供たちを本当に愛していたので,子供たちにふさわしい導きを与えることにおのずと関心を持ちました。神のみ言葉から真理を学んでからはなおさらそうでした。その導きには教えることと矯正することが含まれていました。聖書も,「むちを加えない者はその子を憎むのである,子を愛する者は,つとめてこれを懲らしめる」と述べています。(箴 13:24,口)子供たちを懲らしめる場合,私たちはいつも最善を尽くしました。そうしなかったならどうなっていただろう,と考えただけでもぞっとします。

親の示す良い模範の価値

子供にはうまれつき人をまねる性質があることは周知の事実です。それが言葉遣い,礼儀作法,あるいは習慣など何であれ,子供たちは驚くほど容易にまねをします。特に親の行動は子供たちにとっておきてともなります。子供にはこうした模倣本能があるので,子供が家庭で学べる最も優れた教訓は親の良い模範にあると思います。聖書の箴言はこの点を強調して,「義人は自らの忠誠のうちを歩んでいる。彼の後の子らは幸いだ」と述べています。(箴 20:7,新)方正で忠誠を保つ親は,将来の幸福に必ず寄与するような十分価値のあるものを子供たちに授けていることになります。

この点で,神のみ言葉から取り入れた知識は大いに役立ちました。どうしてそう言えるのですか。その知識のお陰で,自分がどのように生きてゆくべきかを教えられたからです。私は聖書を通して,真理や従順の価値を学びました。また,夫および父親としての自分が,神と家族の前で守らねばならない行動規範をも教えられました。神の不変の法則を知り,それに従って生活していれば,子供の教育を含む生活上の他の事柄は比較的容易なものになると確信しています。

子供たちの生活に良い影響を及ぼした大きな要因の一つは,私と妻との間の極めて親しい関係ではないかと思います。私たちは互いに対して愛情のこもった敬意を抱いています。妻に対して荒々しい言葉遣いをするだけでも心が痛みます。妻に向かって一度でも手を上げたとすれば,それは私の側の不当な仕打ちと言えるでしょう。妻の態度の中に私の気にさわるようなところが一つもないお陰で,私はこうした態度を保てるのです。妻はとても従順で,協力的であり親切です。どんな物事に関しても自分の意見を述べはしますが,決定は私にゆだね,その決定を尊重します。どちらかが機嫌の悪いときには,もう一方がその原因を取り除くようできるだけのことをします。そして,一方が子供を矯正しているような場合には,他方は止めに入るのではなく,一緒になって子供をしつけます。

注意深くあることの価値

私たちは,子供たちに愛のこもったまなざしを向け,注意深くあることによって,子供たちの身の上に不必要な問題が降り懸からないようにしました。植物の苗と同じように,子供たちも保護を必要としています。私たちは,子供たちがどこで何をしていたのかいつも知らせるよう求めました。幼い男の子が外へ行く場合,家族の年長の者か信頼の置ける人が一緒に付いて行くようにしました。女の子については,年齢と関係なく,いつでも一人歩きは許しませんでした。

最近では危険が増大し,他の人に対する敬意が影をひそめているので,特に自分の娘たちを保護するのはふさわしいといつも考えています。私たちの知っている人々と友達になり,その人々と交際する特権を認めないわけではありませんが,この都市で街を一人歩きさせることは決してできません。

男の子の場合は危険も少ないので,女の子よりも多くの自由を認めてきました。それでも,年齢とは無関係に,私の保護下にある限り,男の子たちも決められた時間までに帰宅しなければなりません。子供がその時間よりも遅く帰宅することはほとんどありませんが,もし遅れるならばドアにさし錠が下りていることに気付くはずです。私はその子を少しの間冷たい夜風の中に立たせておき,それからドアをあけてやります。こうしたことが起きたときに,私がどんな気持ちになるかを知っているので,子供たちは二度と再び同じことを繰り返さないのが普通です。

子供たちに注意の目を注ぐという予防措置を講じておけば,罰を加える必要はほとんどなくなります。つまり,「転ばぬ先のつえ」というわけです。子供を監督するというこの点で怠慢な親は,結局子供を懲らしめなければならなくなりますが,自らもその放任のゆえに責任の一端を担わねばならないのです。

魂に安らぎを見いだす

子供を首尾よく育てるためには親が良い模範を示し,注意深くあることが大切だとはいえ,決してそれだけで十分というわけではありません。故意に不従順が示される場合,文字通りのむちをふさわしい仕方で加えるなら,子供は驚くような変化を示します。そうすれば,箴言 29章17節(口)に示されているように,親は安らかで喜ばしい結果を刈り取ることになります。「あなたの子を懲らしめよ,そうすれば彼はあなたを安らかにし,またあなたの心に喜びを与える」。

子供に何かを頼んだ際に,その子がすぐにそれを行なおうとしないなら,私はそのことを思い起こさせます。それでも行なおうとしないなら,不従順が意識的なものであることが分かるので,私は懲罰を加えます。私はこの方針に一貫して従ってきたので,子供たちに同じことを繰り返して言う必要はほとんどありません。

しかし,文字通りのむちを使う前に,むちを使う必要性についてその子と二人だけで話し合って納得させます。自分が罰を受ける理由をはっきりと知ってもらいたいと思うからです。さらに,そうすることによって,私が子供にただ憤りをぶちまけるというような事態を避けることができます。

もちろん,別の方法で与える懲らしめも同じほど効果的な場合もあります。子供たちは一人一人性格が違うので,皆が同じ反応を示すわけではありません。ある子供にとっては,にらみをきかせるだけでも厳しい戒めとなります。また,自分の大好きなものが与えられないと,望ましい反応を示す子もいます。

文字通りのむちでも効き目のなかったときに,五男のホレーシオによく効いた罰について思い出します。当時8歳位だったホレーシオは,近所の好ましくない男の子たちと遊ぶと言って聞きませんでした。そこで私はホレーシオに彼の妹の服を着せました。女の子の服を着ているところを見られたくなかったために,ホレーシオは家から外へ出ようとしませんでした。

あるとき,三男と六男のエフレインとキケロンの内に,生意気な傾向が見られたので,私は二人を子供たちの祖父の農場に行かせることにしました。当時二人は18歳と15歳位でした。二人が到着すると,義父はすぐに彼らが罰を受けていることを悟りました。自分の孫を働かせることは義父にとって喜びとなりました。自ら精力的な働き手であった義父は,怠け者や怠惰な人間を見ると我慢ができません。子供たちは毎朝五時に起こされ,ヘビやスズメバチや手にできた水ぶくれなどを物ともせずに,赤道直下の太陽が照り付ける中で畑仕事をしなければなりませんでした。一か月ほど農場にいただけで,自分たちが家でどのように振る舞うべきかという点に対する二人の認識は驚くほど深まりました。

もっと最近では,四人の息子に散髪に行くよう求めたことがありました。私の見たところでは子供たちの髪の毛は長すぎたのです。四人のうちで一番年上だったエフレインは当時20歳位でした。数日たっても彼らは散髪に行かなかったので,私は四人に向かって,「エフレイン,ラファエル,ホレーシオ,キケロン,さあおいで! 一緒に出掛けよう」と言いました。「いいですとも,おとうさん」,という返事がありました。四人は理髪店に着くまで,私が何を考えているか気付きませんでした。私は理髪師にこう言いました。「この子たちの頭を私のと同じほど短く刈ってやってください。短くてさっぱりするようにお願いします」。

世俗の教育と訓練

経済的な理由で,子供たちには初等教育しか受けさせてやれませんでした。もっとも中には,後日,特定の教科について専門課程を修めた子もいます。特定の子供たちに高等教育を受けさせるなら,その子たちが思い上がり,少ししか教育を受けていない肉身の兄弟に対して尊大に振る舞いかねないと考えたのです。そのような可能性を未然に防ぐため,子供たち全員にしてやれない事はどの子にもしてやりませんでした。

しかし,自分の置かれていた立場のゆえに,私は古代イスラエル人の親たちの先例に倣うことができました。古代イスラエル人の親たちは,子供たちに読み書きを教えただけでなく,息子たちに職業を身に着けさせました。自分の息子に職業を身に着けさせようとしない親は,息子に盗みを教えていることに外ならないというのが彼らの考えでした。息子たちすべては,小学校を卒業すると,例外なく木工場で私と一緒に働きました。それは私にとって大きな喜びでした。

息子たちを自分の傍らに置いておくことによって,特殊な技能を覚えさせることができただけでなく,日常生活と関係のある他の重要な事柄をも教えることができました。例えば,仕事の手順,問題を克服する方法,一つの仕事をやり遂げる方法,推論の仕方,決定の下し方などを教えることができました。

それに加え,一緒に働くことによって,一体感,親密感,意志の疎通などが培われました。それは子供にとっても私にとっても大きな意味のあることでした。仕事台に座って私の仕事ぶりを見ながら談笑するようになると,息子たちはどんな問題があっても私を信頼して相談してくるようになりました。子供たちはいつも私の仲間であり友人です。息子たちは私に敬意を払い,私も息子たちを尊重します。私たちの仕事上の関係では,私が命令を下す必要はありません。親切な提案は,それと同じ結果をもたらし,その上,仕事場に極めて健全な雰囲気をかもし出すのに役立ちます。

「よく学びよく遊べ」という格言を知っていたので,私は子供たちと娯楽にもなるようなことを一緒に行なえたことをうれしく思っています。私は音楽が大好きで,独身時代に音楽を研究し,バンドーラ,ギター,そしてティプル(小さなソプラノ・ギター)などの演奏技術を身に着けました。息子たちのうち幾人かはギターをじょうずに演奏します。そして,懇親会を開いた時などは,私たちの伴奏に合わせて娘たちが歌をうたって楽しみます。

本当に価値のある教育

世俗の教育や実際的な訓練を別にして,子供たちは,より大きな報いをもたらす別の教育をも受けてきました。それはもちろん,子供たちの受けた霊的な教育のことです。

この点に関しても,私とベレンは,子供たちに立派な模範を残すよう努めました。神のみ言葉を自分たちで研究した結果,崇拝や従順の面でエホバが私たちに何を求めておられるかが明らかになりました。当然のことながら,私たちはあらゆる点で神のご意志に従って生活しようと努めています。神のご意志を行なうと言っても,それは込み入った儀式を意味してはいません。むしろそれは,基本的で当然の務めを常に果たし,神の示される義の行動規準に従って生活することを意味しています。

こうした基本的な務めの一つは,個人的に,またクリスチャン会衆におけるエホバの真の崇拝者たちとの交わりにおいて,定期的に神のみ言葉を研究することです。自分がエホバの証人の集会に出席するようになった時から,私は妻と子供たちを一緒に連れて行きました。やがて私の家が会衆全体,あるいはその一部の集会のために用いられるようになり,現在に至っております。家族の者は皆,集会のための準備をし,それに参加します。それは私たちの習慣になっており,私たちの霊的な福祉にとって計り知れないほどの益をもたらしました。―ヘブライ 10:25。

この世の一部となっている多くの家族とは異なり,私たちはもう一つの楽しい習慣があります。それは家族として一緒に食事をすることです。私の『オリーブの木のさし枝』の数が多すぎて,食堂にある一つのテーブルの周りに座り切れない場合,ある者は台所にある小さい方のテーブルを囲んで座ります。

一緒に食事をすることは,例えば共に祈る機会を持つことになるので,確かに私たちの一致に貢献しています。また,そうした一時を通して,『家に座している時に』神の言葉を子供たちに教え込むことができました。私がそうするのは,神のご意志にかなったことです。(申命 6:6,7,口)それはまた,家族の意向を探り,その態度や傾向を観察し,私たちすべての霊的必要に応じて何であれ必要とされる措置を取るためにも役立ちました。

もちろん,食事中に積極的な聖書の教えばかりが授けられているわけではありません。それは雑談とユーモアの一時でもあり,夕食後のくつろぎのためにギターが奏でられることもあります。

クリスチャン愛は家族内だけではなく,そのわくを越えて差し伸べられるべきことは分かっていたので,私と妻は他の人々の家へ神の王国の良いたよりを携えてゆくことを習慣にしていました。子供たちすべてはこの非常に有意義な活動に忙しく携わっており,そのうち五人は全時間をその業に費やしたことがあります。

この点に関して,次男のラウルに起きた出来事が思い出されます。それはラウルが17歳位の時のことでした。ある日曜日の朝,私はラウルに,「さあ,奉仕へ出掛けよう」と言いました。すると,「ぼくは行きません」という答えが返ってきました。驚いた私は,「どうしてかね」と尋ねました。「奉仕は義務ではないからです」というのがラウルの答えでした。そこで私は,「確かに奉仕は義務ではない。まあ,いいだろう」と答えました。私はラウルにそれ以上何も言いませんでした。次の日曜日に一緒に奉仕へ行くことについても何も言いませんでした。だからといって,ラウルに対して怒ったり,不気嫌だったりすることはありませんでした。彼がどんなことを考えていたのかは分かりませんが,次の日曜日,ラウルは一言も言わずに黙って再び奉仕に出掛けて行きました。

その出来事があって以来,ラウルは神の王国のための奉仕に喜んで,そして熱心に自らをささげてきました。エホバ神はその奉仕に対して,ラウルを豊かに祝福してくださいました。彼はニューヨーク市のものみの塔ギレアデ聖書学校に行き,その後,地域監督としてコロンビア全土のクリスチャン兄弟たちに仕える特権にあずかりました。今ではラウルは,その妻とともにバランキラにあるものみの塔協会の支部事務所で奉仕しており,そこでコロンビアにおけるエホバの証人の業を監督する仕事を手伝っています。

幸福である理由

数年前と比べると今では物質的にもゆとりができてはきましたが,現在私が幸福であるのはそのためではありません。物質そのものは決して真の幸福をもたらしません。しかし,霊的な祝福は確かに幸福をもたらします。例えば,家庭内に調和が見られ,重大な問題が入り込んで来ないなら,それは幸福の源となります。そして,子供たち全員が創造者に献身し,年上の息子たち四人がクリスチャン会衆内で長老として奉仕しているのを見るとき,私は本当に深い喜びと満足を覚えます。―箴 10:22。

今では子供たちのうち10人は結婚しており,その多くは自らの「さし枝」をもうけています。彼らがしばしば私たちのところへやってくるのでとても楽しみです。彼らは私たちと一緒に時を過ごすことを望んでおり,私も子供たちの母親もそれを望んでいます。あの親密さは今でも残っているのです。もちろん,私たちは一つの非常に重要な要素を共通に持っています。すなわち,『わたしたちの家族がその名』,つまり存在そのものを「負う方」である天の父エホバに対する愛です。私たちは,自分たちの家族関係が死によって壊されることが決してなくなるという希望をもこの方に負っています。「神の約束によってわたしたちの待ち望んでいる新しい天と新しい地があります。そこには義が宿ります」と約束されているからです。―ペテロ第二 3:13。エフェソス 3:14,15。

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