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エホバの王国を告げ知らせるものみの塔 1977
塔77 1/1 31–32ページ

読者からの質問

● コリント人への第一の手紙 7章14節は,親が信者である場合その子供は「聖なる者」であると述べています。神の目から見た子供のそうした『神聖さ』には,バプテスマが関係していますか。子供が知恵遅れの場合はどうですか。

使徒パウロはここで,分裂した家庭の諸問題について論じています。パウロは信者である配偶者に,不信者の配偶者を去らないように勧め,結婚のきずなを保つ強力な理由として次の点を挙げています。「信者でない夫は妻との関係で神聖なものとされ,信者でない妻は兄弟との関係で神聖なものとされているからです。そうでなければ,あなたがたの子供は実際には清くないことになります。でも今,彼らは聖なる者なのです」。(コリント第一 7:14)これは,神がそのような子供を,家族の功績に関する原則に従ってご覧になるということを示しています。家族の功績とは,自分で責任を負えない子供に対してその度合いに応じて,神が従順な幼い子供に賦与される,つまり帰される神聖さのことです。これは『主と結ばれた親』の持つ,神の目から見て価値ある,神聖さと良い行ないの記録に基づいて与えられます。(エフェソス 6:1)この家族の功績は,パウロの前述の言葉が示す通り,片親だけが信者である場合も当てはまります。

では,バプテスマについてはどうですか。神の言葉を正確に教えられる子供は,知識と理解の面で進歩を示し,やがて神の霊に動かされてエホバに自ら献身し,バプテスマを申し出るようになるに違いありません。(ペテロ第一 3:21)バプテスマを受けるために,その子供は悔い改めの必要を認め,転向して神とのふさわしい関係に入らねばなりません。(使徒 3:19; 8:34-36)バプテスマの後に,子供はもはや家族の功績の下にはいません。むしろ,献身の生活を全うするという責任を神の前に負う者として,個人的に「聖なる者」とみなされるのです。―ペテロ第一 1:14-16。コロサイ 1:21-23。

知恵遅れの子供を持つ親は,予告されている「大患難」の裁きの際,神の保護を受けるにふさわしい者とみなされるために,どんな場合でも子供がバプテスマを受けることは必要だと感じるべきですか。知恵遅れの程度がその決定要素となることは明らかです。中には,成人に達しても四,五歳程度の知能しか持たない子供もいるからです。子供は神の言葉に関するある基本的な教えを理解でき,尋ねられたときに,それに正しく答えられるかもしれません。また,子供は両親に従順であって,神のご意志に反していて間違っていると教えられた事柄を行なわないかもしれません。しかし,子供は自分で決定を下すことができますか。自分が進みたいと思う人生を本人の(両親のではなく)思いと心をもって決めることができますか。両親に依存することのない,神との個人的な関係を理解し,それを追い求めることが可能ですか。自分が何かの悪行を犯した場合,審理を行なう人たちの前に出て弁明することができますか。これらのことを行なえなければ,その子供はバプテスマを受ける立場にはいないでしょう。神の目から見れば家族の功績の下に引き続きとどまることになり,そのような意味で神から「聖なる者」とみなされることになります。

それゆえ,この問題は感情的にではなく,聖書の教えに基づいて取り扱われねばなりません。知恵遅れの程度がひどくはなく,子供が神のみ子の弟子になり自分の『心と魂と思いと力』を込めて神に仕えることができれば,バプテスマの段階にまで達するよう援助されることでしょう。(マルコ 12:30)そのような子供は,霊的な責任という「自分自身の荷を負う」ことができるはずです。(ガラテア 6:5)もし親が決定できないでいるなら,長老の助言を求めることができるでしょう。

幼い子供や,知恵遅れの成長した子供が,家族の功績により「聖なる者」とみなされることを知り,わたしたちはどれほど信仰を強められ,慰められることでしょう。

● エホバの証人は,イエス・キリストを信じていますか。

わたしたちは確かにイエス・キリストを信じています。そして,神のみ言葉がイエス・キリストについて述べている事柄を心から受け入れ,それを宣べ伝えています。その中には,使徒ペテロの次の宣言も含まれています。「ほかのだれにも救いはありません。人びとの間に与えられ,わたしたちがそれによって救いを得るべき名は,天の下にほかにないからです」― 使徒 4:12。

聖書に基づくわたしたちの教理を調べた外部の人々でさえ,わたしたちがイエスを信じていることを認めています。例えば,新カトリック百科事典(1967年版)は,「エホバの証人」という項目の中で次のように述べています。

「彼らは,イエスを最も偉大なエホバの証人,エホバ以外の何ものにも劣らない『神』(彼らはヨハネ 1:1をそのように訳出している)とみなしている。人間として存在するようになる前,イエスはロゴス,または言葉,あるいは天使ミカエルと呼ばれた霊の被造物であった。彼は一個の人間として死に,不滅の霊者なるみ子としてよみがえらされた。その受難と死は,人類に地上で永遠に生きる権利を再び得させるため,イエスが支払った代価であった」― 第7巻864ページ。

ですから,エホバの証人はイエスを信じていないなどという見方は,確かに真実ではありません。エホバの証人が三位一体を教えないために,こうしたはなはだしい偽りが時として宗教上の反対者たちによって流布される場合があります。こうした反対者たちは,三位一体の教理に対する自分たちの信念に固執し,イエスは三位一体の神の一部であり,地上にいたときは肉体を着けた神であったと主張します。

事実はこうです。エホバの証人は,聖書がイエスに関して「神」という称号を用いていることを認め,受け入れています。(ヨハネ 1:1,18)しかし,イエスご自身,詩篇 82篇6節を引用して,強力な人間の裁き人でさえ,「神」と呼ばれることを認めていました。(ヨハネ 10:33-36)そして聖書は,強力な者,あるいは崇拝されているものを表わすために,サタンに関してさえ,「神」という語を使っています。(コリント第二 4:4)「神」という語がそのように使われているからといって,全能者エホバ神から命を与えられた被造物が,創造者ご自身と同等であると結論するのは正しいことではありません。―ローマ 1:25。

イエスは,ご自分の祈りの対象であったみ父と自分が同等でも,同一の存在でもないことを公に認めました。キリストは,『わたしは父のもとに行こうとしているのです。父はわたしより偉大なかただからです』と言いました。イエスは,全能者に対する祈りの中で,次のような意味深い言葉を語りました。「彼らが,唯一まことの神であるあなたと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストについての知識を取り入れること,これが永遠の命を意味しています」― ヨハネ 14:28; 17:3。

エホバの証人は,この明白な事実の陳述をすべて受け入れます。そして,『唯一のまことの神エホバと,あなたがお遣わしになったイエス・キリストに関して』聖書の述べている事柄を知り,かつ受け入れるよう他の人々を助ける,クリスチャンの肝要な業に活発に携わります。

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